講演「私の好きな三人の日本人」(9)

 

7月16日(木)盆送り火。

 

なお「独行道」というものは、先ほども申しましたように、一番手っとり早く武蔵という人物を知る手掛かりといってよいものですから、ついでに紹介いたしましよう。

 

独行道(十九ヶ条)

 

1. 世々の道に背くことなし

1.よろずに依怙の心なし

1.身に楽みをたくまず

1.物事に数奇好みなし

1.居宅に望みなし

1.身一つに美食を好まず

1.一生の間欲心なし

1.我事において後悔せず

1.善悪につき他を妬まず

1.何れの道にも別れを悲しまず

1.恋慕の思ひなし

1.わが身にとり物を忌むことなし

1.兵具は格別、途の道具たしなまず

1.道にあたって死を厭まず

1.老後財宝所領に心なし

1.神仏を尊び神仏を頼まず

1.心常に兵法の道を離れず

 

 

 

 

 

 

 

 

 

講演「私の好きな三人の日本人」(8)

 

7月15日(水)中元。お盆。

 

「独行道」の十九か条

 

「五輪の書」の特に空の巻などを見ますと、確かに武蔵は剣禅一如の境に達していたことが分かりますが、しかしそれは沢庵はもとより、他のいかなる禅僧から教えられたものではなくて、全く全生命を一剣に託してその生涯を生き貫いたことによって、自ら体得したのであって、この点の解釈においても、「小山武蔵」の方が正しいようであります。

 

このように武蔵の抱懐していた世界観は「五輪の書」の特に“空の巻”によく伺われるわけですが、しかし「五輪の書」という剣技にわたって述べた処が多いので、われわれ一般人が武蔵の人間としての生き方について端的に知ろうとするには、ホンの短いものですが、「独行道」というものの方が、はるかに分かり易くて便利であります。
 

「五輪の書」は六十才の作であり、この「独行道」の方は六十二才になった時、自らの死の近きを自覚して辞世の代わりに書き残したわずかに十九カ条の短章ですが、この中にはかの「神仏を尊び神仏を頼まず」とか、「恋慕の思ひなし」など、一般に周知せられている条章があるのであります。

 

最後に、人によっては武蔵が巌流島以後は一切試合をしなかった事を難じる人もあるようですが、あれ以後の武蔵は一種の無常觀からして、闘えば必ず一方が死ぬという当時の試合に嫌悪の念を抱き出したからではないかと思われます。

 

その他武蔵が超凡なる英傑だったということは、絵を描いても今日国宝級であり、また何をしても自流を超出した名品のみだという面からも言えるのではないかと思うのであります。武蔵は、六十二才で肥後の熊本で亡くなっていますが、それに先立つ五年前の五十七才の年に、肥後の細川藩主から招かれてその客分となり、悠々自適の生活を送ることになったからであります。

 

客分というのは現実の組織の中には入らないわけですが、そのために却って自由に藩主に招かれて、一種の政治顧問のような事をしていたらしいのであります。つまり一方で藩士の有志に剣道を教えながら、その傍ら、ときどきは政治の最高顧問として藩主の相談に預かっていたというわけであります。ですから武蔵のような人物の晩年としては、まったく打ってつけの役目と思うのでありまして、「天」はやはり心憎い石を打ったものと思わずにはいられません。

 

講演「私の好きな三人の日本人」(7)

 

7月14日(火)

 

自己の生命を「一剣」に託して生きてきた

 

ではどうしてわたくしが、ここでこのようなことを述べるかというと、先に申したように武蔵に関する確実な資料は、ほとんど入手不可能であって、一般の人々の「武蔵」のイメージが、ほとんど「吉川武蔵」から来ているように思うからです。

 

では一歩を進めて、どうしてこんなに武蔵が好きかと申しますと、それは先に一言したように武蔵という人物が自己の生命を「一剣」に託して生きてきたからであります。処がこう申しますと、徳川

時代には武蔵以外にも、そうした剣士は無数にいたんではないかと言われましょう。

 

なるほどその通りですが、しかしそれら無数の剣客の中では、剣技はもとより人物としても、はたまたその見識においても、武蔵が断然卓出していると思うのであります。剣技の上では、人によってはーー例えば亡くなった直木三十五の如きーー巌流の方が上だったという見方をする人もあるようですが、やはり武蔵の方が人としても、段が違っていたと思うのであります。

 

その証拠としては、何といってもやはり巌流島の試合において、武蔵の方が格段の冴えが見られるからであります。だが、この点に対しても人によっては、武蔵は時間の違約をして卑怯ではないかとか、また法外に長い木刀を使った点などを難じる人もあるようですが、それらの一切は、すべて両者の人間的力量における段の相違という外ないと思うのであります。

 

だがこう申しただけでは納得できかねる人があるとしたら、そういう人に対してわたくしは武蔵に「五輪の書」のあることを挙げたいのでありまして、これには全く剣聖の手になる「剣の哲理」の至極せるものといってよいでしょう。

 

序でながら「吉川武蔵」では武蔵が沢庵和尚から禅を学んだことになったことになっていますが、これは全然無根拠なフィクションに過ぎないのであります。もっとも吉川がこうしたフィクションをでっち上げたのは、沢庵には「不動智神妙録」といって、禅の立場から極意を書いた一書があり、これは沢庵が柳生但馬守の依嘱によって書き与えたものと言われていますが、とにかく武蔵とは全く無関係であります。

講演「私の好きな三人の日本人」(6)

 

7月13日(月)盆迎え火。

 

二十代の「吉川武蔵」から壮年〜晩年の「小山武蔵」

 

さて宮本武蔵の一生ですが、実は正確な詳しい伝記というものがないのであります。比較的信用できるのは、戦前「宮本武蔵顕彰会」が出した「宮本武蔵」という書物が一冊あるだけですが、それでも今日では容易に入手できないのであります。

 

この書物は明治の国文学者の池辺義象という人が、武蔵関係の色々な資料を収集し、それに基づいて一生を概観すると共に、典拠となったそれらの資料を集めたものであります。随ってこの一冊で武蔵関係の文献は、あらまし集められていて大変便利な書物ですが、今日では古本でも、ほとんど入手不可能と申してよいでしょう。

 

こうした事情のために、今日宮本武蔵に関して人々の多くが抱いているイメージの大方は、例の吉川英治の小説によっているといっても、過言ではないと思います。ところがこの「吉川武蔵」というものは、最後が例の巌流島の決闘で終わっているわけですが、困ったとに武蔵はその時二十九才であって、それから三十年以上も生きているのであります。

 

さらに困ったことには、その三十幾年のうち、晩年の数年を肥後の細川藩で過ごすようになる迄の長い期間を、どこでどう過ごしていたものか、サッパリ分からぬのであります。概して申せば、二十九才以後五十を越えて熊本に落ち着くまでの間は、結局全国行脚に過ごしたものと思われるのであります。

 

然るに「吉川武蔵」の困ることは、巌流島の試合以後、全国行脚の間における出来事をすべて巌流島以前の二十代の出来事として扱っている点でありまして、いかにフィクションといっても、これはどうも許されないことだと思うのであります。

 

その点では、小山勝清氏の「それからの武蔵」の方は、はるかに無理がなく、その心理描写などもこの方が確かに卓れていると思うのであります。これは書名も示しているように、主として巌流島の試合以後の武蔵に力点を置いているのでありまして、その点では「吉川武蔵」が二十代の青っぽい武蔵しか書けていませんが、「小山武蔵」の方は壮年期から晩年にかけての武蔵に焦点が向けられているのであります。

 

逆境は生きることの本質である

 

7月11日(土)真珠記念日。

 

生きていくことは楽ではない。辛いこと、苦しいことが多い。ではどうして逆境を呪い超えていくのか。禅の多彩な智慧に学ぶのが本書、「禅――壁を破る智慧」(有馬頼底著、朝日新聞出版)です。著者は臨済宗相国寺派七代管長。元京都仏教会理事長、

 

本能には逆境を乗り越える力がある

 

人は逆境といえる状況に巻き込まれた時、何を信じればいいのだろうか?自分に自信のある人は、自分を信じて這い上がろうとするだろう。家族や周囲の人たちへの愛を信じている人は、それをよすがに這い上がろうとするだろう。

 

しかし、何も信じられないという人はどうすればいいのだろう。そういう人は雑草を思い浮かべてみるといいかもしれない。雑草は踏まれても、踏まれても頭をもたげてくる。あのしぶとい強さはどこからくるのだろう。それは生命が本来もつ本能の強さだと思う。

 

雑草に限らない、いかなる生命もその芯には、ひたすら生きようとする本能の強さを持っていると思う。自然のもの全てには仏性が宿っているという(山川草木悉皆成仏)という言葉があるが、草も木も虫も魚も鳥も獣も全ては、一瞬、一瞬、その生命を完全燃焼させている。自殺を考えるのは人間だけだ。

 

人は言葉をもって考えることができるゆえに、生き物として致命的な弱さを抱えることになってしまった。だが、本能のレベルでは生命を前へ跳躍させていくしなやかな強さを持っている。つまり、いかなる逆境においても、それを乗り越える力を本能の深いところに持っているのだ。

 

人は免れ得ない「生老病死」の4つの苦しみがあると仏教は説く。逆境は生きることの本質なのである。では逆境に陥っても、余裕を失いたくないためにどうすればいいのだろう。人生には思わぬ出来事がつきものだ。そのたびに有頂天になったり、落ち込んだりせず。すべては変化していくものだと思えばいいとの教えがある。

 

健康、成功、お金など、あれも欲しい、これも欲しいと手を出し、得れば得るほど人生には意味があると思い込んでいる。しかし、「得る」ことの裏側で、失っているものも必ずあることを知っておいてほしい。

 

しかし、得る行為にそれほど強い価値を見出せない人にとっては、何かを失うことはそれほど怖いものではないだろう。ここに逆境を逆境と感じずにすむ大きなヒントがある。すなわち、得ることに価値があるという思い込みが変われば、世間の人が逆境と感じることも逆境とは感じなくなるはずだ。

 

それは「失う」ことも「得る」ことの逆で、裏側で実は何かを得る行為になっていることに気づくことではないだろうか。例えばリストラされたが、考え方によっては、別の生き方をするチャンスだと思い直し、以前からこだわりの強かった料理人になることを決意し、数年後には自分の店を出した。

 

一瞬を生き切る心を持って

 

仕事で行き詰まった時、人間関係で悩んでいる時、なぜそうなってしまったかを冷静に反省するより、ただ悔いてしまうのが人情である。後悔は「過去への執着」である。過去に囚われている限り、今という時間を生きていないことになる。

 

釈尊は「一夜賢者の教え」の中でこう言う。「過去を想うことなかれ、未来を願うなかれ。それは過ぎ去ったことであり、まだ来ていないものであるから、現在をよく見極め、動じることなく実践せよ。今日一日を精一杯生きよ。今日一日を全力で生き切るものを、一夜賢者という」。

 

大切なのは過去でも未来でもない。今を精一杯に生きればそれでよい。今日一日を思い残すことなく真剣に生きればそれでいいということだ。明日になればまたその日一日を一生懸命に生きればそれでいい。

 

逆境に強い人間というのは、大変な状況にあっても、それを大変だとか、逆境と感じない人である。逆に逆境に苦しんでいる人は、その原因を他人のせいにしていることが多い。だが苦境に陥った原因をみると、自分に落ち度があったということが分かってくる。すなわち、逆境という大きな壁は自分がつくりあげている。自分で作ったものなら、自分で壊すことも可能なはずである。

 

人生に思わぬ出来事はつきものだ。そのたびに有頂天になったり、落ち込んだりせず、全ては変化していくものがと思えばいい。万物が変化していく様を静かに眺めれば、智慧がゆるゆると湧き出し、逆境に立ち向かう勇気が出てくる。(「TOPPOINT」から抜粋) 

 

 

 

 

 

講演「私の好きな三人の日本人」(5)

 

7月10日(金)

 

自らの一道に徹して生き切る

 

さて、「わたしの好きな三人の日本人」の第二は誰かというと、それは外ならぬ宮本武蔵であります。武蔵はご承知のように、唯一剣を捧げて生涯を生きた剣人であって、決して学者や思想家でもなければ、またいわゆる「経綸の人」でもない。

 

それなのに一体何故わたくしが、わずか三人しかいない日本の一人として選ぶかというと、それは一口で申せば「人間としてのその生き方が好きだ」という他ないわけです。だが、こう言った以上、では一体宮本武蔵の生き方のうち、どういう点が好きかということを申さねばならぬわけですが、ここまで来ると、わたくしの答えも多少考えねばならぬようであります。

 

それというのも、武蔵の生き方というのが、一剣を捧げて生死を賭けた試合にその中心があるといってよい生活ですから、そのどういう点にわたくしが共鳴するかということになると、それに答えることは、必ずしも容易ではないからであります。

 

だがそれにも拘わらず、真先に言えることは、武蔵が常に自己の全生命を「一剣」に託して、その生涯を生き貫いた点に心を惹かれるということであります。ですから、そうした点からは、かの種田山頭火に心を惹かれるのと、一脈相通じるものがあると言えましょう。

 

と申すのも、山頭火という人物は、普通に常識的な見方からすれば、どうにも始末におえない人間だったようであります。早稲田大学もブラブラしていて中退ですが、またリッパな奥さんと結婚しても共棲しないで、一子を奥さんに放りつけて出家して了うんですが、その出家生活すら永続きしないで、間もなく寺を飛び出し、西日本の山野を流浪するという始末だったのであります。

 

ではそれは何故かと申しますと、結局一切を捨て、俳句の一道に生きたかったからでありましょう。

そのためには、美しい夫人も、また一人子も、さらには堂守り生活なども、それらの凡てが彼には桎梏だったわけであります。

 

こうように武蔵と山頭火を比較して考えることは、勿論ふさわしいことではないと思いますが、しかしこの二人の人物ほどに、自らの一道に徹して生きた人物は少ないといってよいでしょう。

 

講演「私の好きな三人の日本人」(4)

 

7月9日(木)浅草寺ほうずき市〜10日。

 

心ある人々の心の中に永遠の生命を保ち続ける

 

そのような推察は、先生があの琵琶湖の西北湖畔の片田舎に住まわれながら、その頃新渡来の中国の新しい書物を求めていることなどによって可能なのであります。中には刊行後半年くらいしから経たない書物まで入手していることが、最近の研究によって明らかになってきたのであります。

 

こうして先生の学徳は心ある人から人へと、あたかも水の浸透するように、次第に浸透して行ったのであります。このことはあの周知の「正直な馬子」の話によってもその一端は伺えるわけです。こうした点からは、初めにも申し上げたことでありますが、先生は徳川時代三百年に輩出した幾百人にも及ぶ多くの学者の中にあって、断然頭角を抜いて他の追随を許さぬといってよいでしょう。わたくしが、学問の一端に携わる者として、最も深く先生を尊信しているゆえんであります。

 

その点たとえば山崎闇斎は弟子三千を率いて首都に豪語していた如き、また山鹿素行がいかなる大名の招聘にも五千石以下では応じないと構えていた如き、あるいは京都に住んで当時の上流階級の人々との仲間入りをしていた伊藤仁斎や、大藩の黒田藩の藩儒として優遇されていた貝原益軒などと比較して、なぜそれらの人々に惹かれないで、江西の一寒村にありながら、深く真学の一道に生きられた藤樹先生に深い景仰の念を抱かざるを得ないかが、お分かりいただけるかと思うのであります。

 

大洲から帰られた以後の先生は、全く庶民として庶民の中に生活せられ、何らの肩書きもなかったのでありますが、もし先生が現在の世に生きられていたとしたら、その社会的地位はどの辺かというと、まず短大の教授か新制大学の講師くらいのものでしょう。

 

しかもそれでいながら、わが国の陽明学の開祖となり、その学徳は徳川三百年はもとより、明治以後百年をへた現在でも、心ある人々の心の中にその永遠の生命を保ち続けているのでありまして、そう思う時、わたくしは、人間がこの地上の短い生涯において真実というものの「力」を、今さらのように思わずにはいられないのです。

 

幸いにしてわたくしは、恩師西晋一郎先生及び畏友松本君との道縁により、すでに学生時代から先生のご郷里の江州の小川の地を訪ねること今日まで十幾回にも及び、土に浸み込んでいる先生の徳風の余香に触れて参っているのであり、わたくしのような凡庸な人間が、今日までどうにか一筋の道を踏み外さずに来ることのできましたのも、ひとえに藤樹先生のご遺徳のお陰と思うのであります。

講演「私の好きな三人の日本人」(3)

 

7月8日(水)

 

当面の生活のために始めたのは居酒屋

 

この点を説かれた先生の「全孝」の学説というものは、現在の哲学的用語で申せば、まさに「孝の形而上学」というべきでありまして、それは言い替えれば、生命の絶対的本源への反省の哲学といってよいものであります。

 

随って先生が当時特権階級だった武士階級から離脱して、江西の一寒村に帰り、老母に孝養を尽されたということは、実はその哲学的信念を実践し実証されたことでありまして、先生にとってはそこに

不可避の絶対性があったのであります。

 

当時武士社会の“おきて”としては、無断で藩を脱した者は厳重な処罰を受けることになっていたのに、先生は幾たび嘆願しても聴き入れられなかった為に、ついに無断で帰郷せられたのであります。

随って先生の帰郷孝養は、当時先生にとっては、まさに生命を賭けた決断だったということがお分かりになりましょう。

 

さてそうした先生が古里に帰られて真先に当面せられたのは何かというと、やはり生活問題だったのであります。それというのも古里に帰られた時、先生の持ち金はほとんどなく、しかもそれを江州までついて来た召使に与えておられるのであります。

 

ではそうした生活問題に対して、先生はどう対処されたかというと、まず始められたのは居酒屋でありまして、当時使われたという欠けた古ガメが、今なお藤樹書院に保存されているのであります。しかしそれだけではどうしても足りないので、次には両刀を金に替えて、それを低利で融通せられたのであります。

 

その他に約三反ほどの飯米田があったらしいことが最近分かってきたようですが、それら以外には近郷の子弟を教えられたと考えられますが、これなどはホンのささやかなものだったようであります。

 

こうした調子で帰郷後の先生の生活は、周囲の農民たちとほとんど変わらないような質素なものだったようですが、そのうちに伊予の大洲から武士の子弟がやって来て、先生の教えを受けるようになったので、はじめて多少のゆとりができ出したのではないかと思われます。

 

講演「私の好きな三人の日本人」(2)

 

7月7日(火)処暑。七夕。ゆかたの日。

 

親への孝養は宇宙の根本生命に帰一する

 

ではどういう点で中江藤樹先生に惹かれるかと申しますと、一口にいえば、その学徳が真に渾然として玉成されていて、学者として真に典型的と思うからです。藤樹先生につては、「実践人」十月号に「もし藤樹先生が現在生きていられたら」という一文が載ることになっていますので、できればそれもご覧頂けたらと思います。

 

徳川時代の三百年の間には、ずいぶん沢山の学者が出ましたが、それら数多い学者の中でも、その学徳が真に渾然として玉成された人となると、それは伊藤仁斎でもなければ貝原益軒でもなく、また広瀬淡窓でもなくして、実にこの藤樹先生だと思うのであります。

 

では藤樹先生が、真にその学と徳とが渾然として一体となった方だということは、一体どういう点からいうかと申しますと、その第一はヤハリ親に仕えるために、当時としては非常に特権であった武士階級という地位を捨て去って、その古里である江州の一寒村小川村へ帰って、母親に奉仕されたという点であります。

 

もっとも、このような武士階級からの離脱には、先生が「武士」という特権階級を内側から眺めて、

そこに色々の矛盾を痛感せられた結果、そうしたものから解放され、庶民の中に真の人間的生活を求められたという点もないことはなかったろうと思います。

 

そうした観点から、近頃先生の帰郷を一種の「抵抗」と見る人もあるようですがーー例えば東大の尾藤正英教授――しかしそれは、いわば第二次的な原因であって、先生として第一義的な原因は、あくまで母親への孝養にあったことは改めていうを要しない事柄であります。

 

では何故先生においては「孝」という道徳が、そのように深い意味をもったかと申しますと、先生によれば「孝」は人間生命の本源的自覚の根本原理だからであります。つまりわれわれ人間は、一人としてその親から生まれない者はなく、しかも親は又その親から生まれたのであり、かくして人間生命をその根源に向かって遡れば無窮に到り、その終局は結局宇宙の本源に発するわけであります。

 

そこで親への孝養ということは、単に自分を産んでくれた一人の親を大事にするというだけでなく、親への奉仕を通して、実は宇宙の根本生命に帰一することに他ならないのであります。

ーー中江藤樹、宮本武蔵、二宮尊徳――

 

7月6日(月)東京入谷朝顔まつり〜8日。

 

昭和45年10月

神戸塩屋「洗心山房」

 

この度「洗心山房」に八畳二室が増築されましたので、その心祝いの意味で坂本(県知事)さんから、何か話をせよとのご命令がございましたので、わたくしも他の場合とは違いましてお断りも致しかね、本日ここに伺ったような次第であります。

 

坂本さんのご心中には、「わたくしが家内を亡くしてしょげ込んでいるんではあるまいか。それならこの際ひとつ話に事寄せて引っ張り出してやろう」というような温かいお心づかいがあったんじゃないかと思うのであります。ところがご覧のように、わたくしは一向しょげこんではいないのです。と申すのも、何しろ十五年に及ぶ永い入院生活でしたので、覚悟はとっくの昔にできているわけであります。

 

ところで本日わたくしに課せられたテーマは、「わたくしの好きな三人の日本人」というのですが、これは坂本さんから出されたわたくしへの試験問題でありまして、わたくし自身が掲げたものではありません。それにわたくし自身もこれまで、こうしたテーマで話をしたり、文を書いたということは一度もありませんので、こういう題を考えてみるのも面白いかと考えたような次第であります。

 

ところで最初にまず問題なのは、「わたくしの好きな」ということは、「尊敬」しているということと、勿論ふかい関係はありましても、同じではないと思うのであります。即ち非常に尊敬はしていても、好きとはちょっと言えないという場合もありましょう。

 

例えば、聖徳太子などは非常にお偉い方であって、おそらくはわれらの民族の中では一番卓れた方かと思いますが、それだけに却って「好きな人物」という範疇の中には入れにくいのであります。ではそういう意味で、「わたくしの好きな三人の日本人」となると誰かと申しますと、中江藤樹、宮本武蔵、二宮尊徳という三人の人を挙げたいのであります。

 

もし単に好きというだけでしたら、鎮西八郎為朝なんか大変好きな人物であり、そういう点からいえば、木曽義仲とか平将門などという人物も、好きな人物の中に入れてよく、さらにはその実在性の疑われる平手造酒などという人物も好きな人間の一人です。随って先に申した三人は、単に好きというだけでなく、「尊敬している人々の中で好きな人物」ということになります。