森信三先生の「日本文化論」に学ぶ

 

8月10日(水) 本ブログは森信三先生の「日本文化論」を一部要約して紹介していす。

 

われらの民族は太古からすでに海に囲まれていた、いわゆる海洋民族だったことは、民族の神話としての「古事記」にも伺い得ることながら、同時にこの点はわれらの民族が古くからいわゆる豊かな「海の幸」に恵まれたいたことを語るものである。

 

民族の蛋白源は、維新前までは魚類と大豆といってよく、大豆が陸鯨と呼ばれていた地方さえあるほどである。同時にそれに劣らず海がわが民族を益したのは、容易に国外からの侵攻を受けなかったという点であろう。

 

わが国が建国いらい今次敗戦に至るまで、ついに他国の侵略を蒙らなかった最根本的な原因は、明らかに海に囲まれていた点にあると言ってよいであろう。だが観点を変えれば、海が民族に与えた舟航の便は、それにも劣らぬ天的便益ともいえるであろう。

 

陸上の交通しかできなかった当時の大陸諸国民、たとえば中国と比べて、そこには実に特筆すべき絶大なる利便が国初以前から天的天賦として与えられていたことを思う時、わが国の文化が上古においてかなりの程度に達していたのも当然と言えるのである。

 

海洋がわれらの民族に与えたものは、以上をもっても尚足りぬとも思われるのである。それは何かというに、海洋は民族の眼をつねに外に向かって放たせたと言ってよく、国土は広くないにも拘らず、眼はつねに遠く海洋の彼方に向けられていたというべきであろう。

 

われらの民族は遠く上代において、すでに三韓との交渉をもち、ついでは万里の波濤を凌いで多大の危険を冒してまで支那大陸への渡航を試みた、これが遣唐使船と呼ばれたもので、さらに近世初頭には東南アジアの諸地域まで「日本人街」の形成を見たのである。

 

それらは何も民族の潜在的エネルギーが海を介して展開したというべきで、徳川期に入って「鎖国」を余儀なくされたが、ひとたび明治の開国を迎えるや、蓄積されていた民族のエネルギーは勝海舟の咸臨丸に見る如く再び勃然とその奔騰(ほんとう)を開始したのである。

 

このように海洋民族として、海を媒介に民族生命を発揮したものは、最初はギリシャ国民であり、次いでスペインといってよく、かのコロンブスのアメリカ大陸の発見から、さらに南米の侵略と領有は主としてスペイン国民によって行われたのである。

森信三先生の「日本文化論」に学ぶ

 

8月9日(火)高知よさこい祭り〜12日。長崎原爆の日。 本ブログは森信三先生の「日本文化論」を一部要約して紹介していす。

 

同じ農耕を主とする民族でも、大陸の内部に位置する、例えば中国とはその性質の上にかなりの開きがあると言ってよいであろう。その第一に考えられることは、鉄道のなかった時代には、海と河は最大でかつ至便な交通機関だったということである。

 

特に海は何処へ行くにも自由であり、荒れない限りこれほど至便な交通機関はなかったのである。かくして洋の東西を問わず古代および上代には、一般に河海を控えている地方がまず開けるといってよく、例えば地中海の沿岸であり、ついでライン河の流域地方である。

 

ギリシャは地域としては些々たる一小地域に過ぎなかったにも拘らず、古代の西洋において一時強大な勢力たり得たのも、全く海洋のゆえと言ってよく、この点から地中海沿岸地域は、まさに西洋文明の揺籃発祥の地と言えるわけである。

 

これをわが国について言えば、まさに瀬戸内海がそれに当たるわけで、もし瀬戸内海が無かったとしたら、ひとりわが国の上代文化のみならず、今日に至るまでわが国の文化は、到底あり得なかったと言ってよいであろう。

 

かくしてわが国はこれを地域的に大観すれば、瀬戸内海のような海を抱く西日本と、然らざる東日本とに大別し得るであろう。ではその境界線はどの辺かというと、愛知県の東半分から信州を通って、越後と越中との境界線をつらぬく線と見てよいであろう。

 

かくして明らかになることは、日本の黎明期は西日本に始まったといってよかろう。その原因としては、西日本が瀬戸内海を中に包有していたが故と言ってよいであろう。「人類の文明はまず道の開通からーー」といわるゆえんである。

 

以上は一般的な概言であり実際問題としては、舟航の難易は軽視し得ないわけで、例えば熊野灘・遠州灘のごときは、昔から難所と言われただけあって、それ以東への舟航は容易とされなかったわけである。

 

なお東京以北における船の難所としては、三陸海岸であり、ために秋田の米はもちろん、津軽地方の米まで、昔は日本海沿いに搬ばれて遠く下関経由で瀬戸内海を通って浪速にまで搬ばれたのであり、時あってはさらに浪速から東京へ搬ばれたほどである。

森信三先生の「日本文化論」に学ぶ

 

8月8日(月) 本ブログは森信三先生の「日本文化論」を一部要約して紹介していす。

 

(4)四面環海

 

東洋の有色民族にあっては、近代に該当する時代は西洋人種により植民地化され、その制圧下に置かれていたのであり、第二次世界大戦の結果、白人支配者から解放されたが、そのとき世界はすでに近代を超え現代は入っていたということである。

 

そうした情勢において、有色人種の中でわが国だけが西洋人種による植民地化を免れたのは、如何なる点に起因するかということです。この点こそ、現時点において「日本文化論」の当面しつつある最中核的な課題と言ってよいであろう。

 

もっともこの点について、明治維新の頃は、西欧の列強間にも勢力の角錐が行われていたために、遠く太平洋の果てまで兵力を送る余裕がなかった、というような点も指摘され、それも首肯すべき一つの重大な原因と言ってよいであろう。

 

あるいは人によっては、当時あの朝幕間の紛糾の渦中にあって、フランスは幕府の後押しをし、イギリスは薩長の背後にあって、これを後援しようとしたにも拘らず、当時幕府の要路にあった人々が、外国勢力の介入を導入することは、内乱を誘致するといってよく、これを洞察する達識の士――たとえば勝海舟もその一人といえよう――があったが故ともいえ、たしかに事実の重大な一面といってよいであろう。

 

あるいはまた、わが民族がいち早く西洋の自然科学を摂取し、それにより白人勢力の侵入に対抗したが故だという点も挙げ得ぬわけではなく、これも重大な一因と言えるであろう。だが、これらの諸点を列挙することで、この故にわが民族は近代化を促進し得たと言えるかというと、問題は容易ではないと思わずにはいられないのである。

 

かくして考察は単に明治維新の変革を中心とする、いわば局処的観点を離れて、今少し巨視的大観の立場からわれらの民族の特質を考え直してみる必要があるであろう。そのような立場で考えると、わが国土が「四面環海」というコトバが示すように、周囲を海に取り捲かれている意味は決して少なくないのである。

 

 

土曜雑感「善の研究」は何を語っているのだろう⑭

 

8月6日(土)広島原爆の日。

 

3ヵ月をかけ難解な「善の研究」を読んできました。最後までおつき合いをいただいたあなた様に感謝し、深くお礼を申しあげます。と言いますのは、「善の研究」を継続発信する条件として、ご覧いただける方は「10名様」を最低基準に考えてきたからです。

 

哲学は「いかに生きるべきか」を追究する主体的、宗教的な問題と、「世界はどうなっているか」を追究する科学的、客観的な問題を統一する思想と言われています。統一の中心が宗教になれば観念論的傾向となり、科学を中心にする場合には唯物論的傾向になります。「善の研究」は前者に該当します。

 

このような難解なテーマゆえ、10名の方に見ていただけるだけで、もう十分ではないかと考えていたのです。逆に専門店の現状と問題点、未来への方向やマーケテイング戦略をテーマにしている時には、数百名の方々にご覧いただいていたこともありました。

 

さて、「善の研究」を終えるにあたり、ぜひ紹介したいのが桑原武夫編「日本の名著」―近代の思想(中公新書、昭和37年刊)に選ばれた、「西田幾多郎『善の研究』」です。執筆は哲学者、上山春平教授(京都大学人文科学研究所)です。

 

同教授は「善の研究」は、「純粋経験」という概念に要約されると指摘して述べています。「西田によれば、物・心や知・情・意の区別が純粋経験を逸脱した一面的な見方から生ずるのに反して、真・善・美は純粋経験によってとらえられた真実在の姿である。・・・純粋経験というものは、一種の意識現象にほかならない。それを真実在とみるのは、明瞭な観念論である。」

 

「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」は西田の名文句です。上山教授は解説します。「これは、純粋経験が個人的経験の枠をこえることを意味する。純粋経験においては、主客の区別も自他の区別もなくなるからである。純粋経験の立場においては、知・情・意が合一するばかりでなく、主観と客観、精神と物質、自己と他者も合一する。

 

かれは知・情・意の根底に『知的直感』を想定し、精神と自然の統一の根底に『神』を想定した。知的直感と神は、純粋経験をそれぞれ認識と存在の観点からとらえた姿とみてよかろう。

 

・・・かれは『いかに生きるべきか』の実践哲学を理論哲学よりも優位におき、さらに実践哲学の領域では宗教を道徳よりも優位におく。『学問道徳の本には宗教がなければならぬ、学問道徳はこれによりて成立する』というのが著者の基本的信念であった。

 

西田によれば、宗教の本質は『神人合一』にある。それは『意識の根底に於いて自己の意識を破りて働く堂々たる宇宙精神を実験する』ことである。これは、個人的経験の枠をこえる純粋経験の境地にほかならない。その境地を、本書の構想が熟しつつあった明治30年ころにかけて専念した参禅の体験を通して体得したのだろう。

 

純粋経験は一種の意識現象とみられると同時に真実在とみられる。それは意識現象としては知的直感と解され、実在としては神と解される。知的直感による思惟と意思の統一と、神による自然と精神の統一が、理論哲学の問題をあつかう第一編と第二編の主題であるから、本書では理論哲学そのものが宗教的見地から論じられているということになる。

 

西田にとって哲学の根本であり終結であった宗教は、『深き命の捕捉』であり、『我々のやまんと欲してやむ能わざる大なる生命の欲求』であった。宗教とは、自己の生命を機縁とする宇宙的生命の直感的把握であり、そうした生命の把握こそ純粋経験に他ならなかった。西田の哲学は東アジア的宗教思想の伝統をふまえた一種の生命哲学である。」

 

 

 

 

 

 

森信三先生の「日本文化論」に学ぶ

 

8月5日(金)山形花笠まつり〜7日。 本ブログは森信三先生の「日本文化論」を一部要約して紹介していす。

 

米作地帯では人口は比較的密集し、いわゆる聚落をつくり、その上同一面積による収穫率は西洋の畑作とは比較にならないほど高く、その反面支配層の収奪を可能にする度合いが多く、ここに東洋における封建制度の長引いた一因由があると言えるようである。

 

西洋の小麦中心の牧畜農業は、その収穫量はとうてい水田には及ばず、したがってわが国のように密集した聚落はできにくく、支配者の収奪は容易ではなく、こうした処にも封建制度が東洋よりも早く崩壊した一つの重大な原因があると言ってよいであろう。

 

そのうえ畜類を屠殺して食用に供することから、人畜の間に冷酷な隔絶感が支配し、わが国のように牛馬を家族の一員と考えるような暖かい心情は育ちがたく、すべての人間を畜類から隔絶した存在と認める、人間本位論(ヒューマニズム)の思想が芽生えたのも当然というべきであろう。

 

これに反して、米作本位の農業国にあっては、その耕作は常に入念、かつ精密な手入れを要するわけで、必然的に労働力は家族の共同労作による他なく、老人でも重労働でなければかなりの年齢まで可能であり、これが農村で現在も見られる現象といってよい。

 

否、仮に田畑には行けなくなった年齢でも、家庭においてできる程度の仕事は、一役勤まる場合が少なくはなく、現に子守りの如きはそれといってよく、かくして東洋においては、一般に家族主義の成立が見られるゆえんでもあろう。

 

篤学岡正雄氏は、民族のもつ文化の中には、容易に変わるものと変わらぬものがあるとし、その変わらぬものの中に、親族組織や*年齢階梯制などがあるとし、周囲民族の研究に着眼している。鈴木栄太郎博士の朝鮮民族の村落組織の研究ではわが国の村落との間に対応性が見られるようである。(*年齢階梯制は年齢序列で地縁集団の統合をもたらす制度)

 

以上はなはだ不十分ながら、西洋人種と東洋人種、中でも日本民族との相違の生じてきた要因を、彼我における風土的条件の相違に見ようとしたわけで、東洋の社会において何ゆえ封建制が永く残存し、近代化が遅れたかの根因の一端に触れたと言えるのである。否、東洋において近代化を通って現代に入りつつあるのは日本民族だけで、他のすべては近代を知らないままに現代に投げ込まれつつあると言ってよいであろう。

 

森信三先生の「日本文化論」に学ぶ

 

8月4日(木)仙台七夕まつり〜6日。 本ブログは森信三先生の「日本文化論」を一部要約して紹介していす。

 

農耕人種と牧畜人種の思考様式の差を、風土の相違に淵源する点の多いことに着眼し、そこに精到無比ともいうべき分析を公にした点で、和辻博士の努力はまさに空前の一大偉観というに値するであろう。この点は今や会田雄次、鯖田豊之などの人々により継承され、前進していると言えるようである。

 

そこで一歩をすすめて、そのような風土の相違からくる食生活の差異が追求されると共に、さらにその反映として、東西両洋における人間思考の様式的差異によって生じる根源が、解明されようとしているのである。

 

かくしてヨーロッパ的な合理主義的思考様式と、われわれ東洋人、とくに日本人におけるその情緒的性格とのよってきたる根因は、結局彼我の風土的条件の差に基づくところが多いといってよく、特にその食生活の基本的相違にあると言えるようである。

 

以上の見解は、彼我の文明の相違を、これまでのように単に歴史的条件の相違というよりも、むしろ風土的条件の差に、より多く依拠するとみる見解といってよい。その理由としては、われらの食物の中心は米であるが、モンスーン地帯の夏季は高温、多雨、多湿で稲作に適しているのである。

 

そこでは水田のもつ性格上、西洋のような畜力ないし機械力を利用することは容易ではないのである。しかるに、畑作を主とする西欧の農業にあっては、昔から畜力の利用が盛んであり、同時にそれは機械力の導入を可能ならしめる基盤になったのである。

 

このようなことを可能とする根底には、牧畜を主とする西欧の農業が小麦を中心とする畑作農業だった点にあるといってよいであろう。同時にこのような点にも、かの地において自然科学の発達を見た一つの重要な原因があると言えそうである。

 

これに反して米作中心のわが国は、すべて丹念な肉体労働による他なく、西洋人から見るとまるで園芸的ともいうべき丹念さと精度に驚嘆するというが、同時にこのような処にも、わが民族における手工業的丹念さと精密さが形成された一因由があると言えるであろう。同時にそれらは、時計をはじめカメラのような精密工業にその特質を発揮し、世界に比なき精巧さを示しているゆえんである。

森信三先生の「日本文化論」に学ぶ

 

8月3日(水)秋田竿燈まつり〜6日。 本ブログは森信三先生の「日本文化論」を一部要約して紹介していす。

 

(3)牧畜と農耕・小麦と米

 

われらの民族にとって、一つ重要な点は、われらの置かれている地域が、和辻哲郎博士のいわゆる「モンスーン地帯」であって、西欧諸民族のそれとは根本的にその性格を異にしているという点であろう。

 

それというのも、西欧諸國の領有している国土は、その基盤が寒冷な乾燥地域が多く、いわゆる牧場むきの牧場的地域が多いのとは、根本的にその性格を異にしているという点である。もっともこの程度のことは常識として何人も承知している事柄であろう。

 

しかしながらわれわれは、果たしてこのような彼我の風土的な相違を深く実感的に理解していたと言えるであろうか。そうと言えないことは、維新以来わが国人にして渡欧した人々の数は、驚くほどの巨大数に上っていることが証明しているであろう。

 

それらの人たちのうちに、高温多湿なモンスーン地帯に住む者と寒冷な牧畜地帯に住するのとは、生活様式を異にするのみならず、思考様式の上にも相違を現出していることまで想到し、ユニークな哲学的風土論まで結晶せしめた学者が和辻哲郎博士以外に、果たしてあったと言いうるであろうか。

 

否、博士の「風土論」は、ひとり邦人学者として、初めての研究というばかりではなく、世界的に考えても、優にその独創を誇りうる学的業績と言ってよいであろう。それを可能にしたのは、博士の詩人的芸術的な直感の豊かさ、それを分析する知性の鋭さという二種の異質的な才能を一身に兼ね具えていたが故と言ってよいであろう。

 

同時にこの事によっても、真の学問とは自己の体をもって捉えたパトスの全内容をロゴスという武器によって、自在にこれを分析するところに成立するという学問的公理を、今さらのように感じさせられるのである。

 

ところで上述のうち大事な点は、農耕人種と牧畜人種との間に見られる、その生活様式の差については、従来から人々の認めてきた事柄ではあるが、さらにその反映ともいうべき思考様式の上にも、その相違が認められるという点である。

森信三先生の「日本文化論」に学ぶ

 

8月2日(火)青森ねぶた祭り〜7日。 本ブログは森信三先生の「日本文化論」を一部要約して紹介していす。

 

わが国では国土が亜熱帯地域から、北は寒帯に接し、その上周囲を海にとり囲まれているが故に、国民の日常生活上の物資については、その所要を充たすに足るだけの各様の物資を生産しているといえるが、一方でわが国が輸入している品目表を一瞥するとしたら、まさに驚くべき現象が見られるのである。

 

「こんな物は、わが国の産出額だけで十分であろうと思っていたのに・・・」という驚きが、いかに膨大な種類に上がっているかは、何人も驚嘆の他ないのであろう。わが国で産しないものは、ブラジルのコーヒー、キューバの砂糖、エジプトのタバコ、及び南方からのゴムなどに過ぎないからである。

 

国土の置かれている位置が、これを地文的に考えても実に恵まれた地位にある上に、さらに人文学的観点から考えても、国民の必要とする物資については、その量はともかくとして、種類の上では多角的に産出していることで、「縮図を提供する」使命から重要な基盤となり得ることが考えられるが故である。

 

すなわちあらゆる種類の生産物に恵まれていることは、それだけ多角的な技術を身につけていることを意味するのであり、いわゆる生活技術的観点からも一種の文化的総合の基盤が用意されていると言えるわけである。

 

以上わたくしは、われらの国土が、南は亜熱帯地方から北は寒帯に接する地域に及んで、しかもそれらは四つの大きな島を中心としつつ、周囲は海洋によって囲まれているわけであり、英国と並んで世界的にも類例のない海洋国家と言えるわけである。

 

この点こそ、日本ならびにその上に生み出された日本文化の特色を考える上で、最根本的な規制原理と言ってよいであろう。これは将来われらの民族の使命ともいうべき、東西文化の融合のための一縮図を提供する基盤として天から用意されたものとも言えるのである。

 

だがそうは言っても、東西文化の総合ないし融合という問題は、たとえそれへの一縮図に過ぎないとしても、まことに容易ならざることと言わねばなるまい。何となれば、それはある意味で人類自体にとり最大の理想であり、目標というべきだからでる。

 

森信三先生の「日本文化論」に学ぶ

 

8月1日(月)弘前ねぷたまつり〜7日、盛岡さんさ踊り〜4日。

本ブログは森信三先生の「日本文化論」(1966年刊、全集収録)を一部要約して紹介していす。

 

(2)国土・地形・気候

 

わが国土の位置について、主として人文学的観点を交えつつ一瞥を試みたわけであるが、引き続き風土的観点よりこれが考察を試みたいと思うのである。ところでこの場合に問題となるのは、国土が西南から東北に及ぶ弓形の地形をなしていることである。

 

このことはただちにわが国の気候が、南方においては亜熱帯的高温を示すと共に、北方の北海道から千島にかけては、寒帯に近い気温の中にあるということである。この点は何よりもわが国の産物が多種多元性を約束しているといってよいのである。

 

すなわち南方琉球における砂糖から、北方の北海道及び千島にかけての昆布・鱈・鮭などを代表的として、その種類と品質の上からは多種多様な天与の物資に恵まれているのであり、人類の文化はある程度は物の豊かさを踏まえて、はじめて繁栄しうるという真理の一実証は、ここにも見る思いがするのである。

 

なるほど国土は狭小とは言え、一応あらゆる種類の産物に恵まれていることは如何なることを意味するのであろうか。なるほどアメリカの小麦などのように、その生産量が超巨大であり、自国では消費し切れぬというような部門は少ないといわねばなるまい。

 

それにも拘らず、自国の生産物が民族の多角的な需要を充たし得るということは、重大かつ貴重というべきで、一国の民族において、その国土における生産物の種類の多少という問題はその全体的な総額にして違わなければ、何ら言うべきことはないとも言えるのである。

 

しかし今観点を変え、民族が将来東西文化の融合に対して、一個の縮図的見本を提供すべき使命を荷なうと考えた場合には、一応あらゆる種類の物資がまんべんなく生産される方を便とするであろう。否それは便利という程度を越えて不可避の必然というべきであろう。

 

何となれば、すでにその国自身の生産物の上に、一種の総合的縮図性がその現実的基盤として、ある程度用意されていると言えるからである。このように言うと、人々は「わが国には羊毛は産しないではないか」と。たしかにその通りであるが、西欧的な「放牧」は不可能と言わねばならないからである。

土曜雑感「善の研究」は何を語っているのだろう⑬

 

7月30日(土)

 

3ヵ月をかけ難解な「善の研究」を読んできましたが、未熟、不消化の点が多かったと思います。そこで「まとめ」として、門下の下村寅太郎が同書(岩波文庫)の「解題」で書いている内容から要点を抜粋して紹介します。復習のつもりでご覧いただければ幸いです。

 

「善の研究」は明治44年1月に弘道館から出版された。明治の始めに我が国に西欧の哲学思想が受容されて以来始めて出現した我が邦人による最初の独創的な哲学体系である。確かに我が国思想史における画期的事件であった。のみならずこの書は大正・昭和を通して、哲学専攻者の間だけでなく一般読書人に最も広く愛読され普及した哲学書であった。

 

「善の研究」は序に書かれている如く、もともと著者が三十歳代の十年間を送った金沢の第四高等学校での講義の草案である。最初、第二編に当る実在論と第三編に当る倫理学(善)が出来、次に第一編純粋経験が出来、最後に宗教論が出来た。

 

かように「善の研究」は高等学校の講義ではありながら今日猶お我々をして感嘆せしめる風格を備えている。聴講した当時の学生には難解であったとのことであるが、当然であろう。定型的な学説の紹介や解説を以て能事とせず、必ずしも学生の理解を念頭に置かず、本格的な体系家としての自己自身の思索を傾注吐露して憚らず、むしろこれを本義とされた概があったであろう。

 

結局「善の研究」は講義の草案ではあったが、しかし必ずしも講義のための草案ではない。あくまでも先生自身の独自な哲学体系である。・・・この態度は教師としても、著者としても、後年に到るまで、否、最後まで、一貫して渝(かわ)るところのなかった先生の面目である。

 

先生ほど自己自身のために思惟しながら、先生ほど多くの他人を啓発した人はないであろう。最も高い意味において哲学の教師であった所以である。「善の研究」が哲学入門の最も良き教科書の一つたる所以である。

 

「善の研究」はいわゆる純粋経験の立場から組織された哲学の体系である。本来、哲学の体系であるに拘らず特に「善の研究」たる題名が附せられているのは「人生の問題が中心であり、終結であると考えた故」であり、先生の哲学の動機と目標を示すものといえる。

 

本書の根本思想は純粋経験によって知識、道徳、宗教の一切を基礎付けようとする強靱な思惟によって貫かれている。既に半世紀以前のものであり、当時の学界の制約として未だ素朴なるものが認められるけれども、後半のいわゆる西田哲学の根本思想と特色は既にここに把握され形成されている。

 

「具体的なものから抽象的なものへ」は西田哲学の本来的な志向であるが、本書はその最も具体的なるものを「純粋経験」として捉えている。爾後の西田哲学の問題と発展は、この純粋経験の自己反省と深化と、それの論理的形成とにあった。

 

これが最後に「行為的直感や絶対的矛盾の自己同一の論理」として定式化される所に西田哲学が完成されるのである。・・・「善の研究」の成るまでの十年間の日記には、読書省察と同時に常に不断に「打坐」のことが記されている。

 

「善に研究」の、やがて西田哲学一般の基礎には禅的体験がそれの重要な思想動機の一つとして存するように思われる。先生はこの時代を通じて金沢市卯真辰山麓にあった洗心庵雷門和尚に師事した。寸心なる先生の居士号も和尚から与えられたものである。

 

「善の研究」はそれ自身で既に成熟完結した作品であり、一人の思想家の一つの生涯に値する労作であったが、先生においては単にその出発点でしかないものになった。今後更に四十年に亙る巨人的な思索と労作がこれに後続するのであり、然る後始めて西田哲学の壮大な体系が出来上がるのである。

 

「善の研究」は西田哲学の最初期のものであり、その立場や方法はやがて自ら克服されるものではあるが、しかしその基礎となり、出発点となったものとして、且つ西田哲学本来の独自な考え方や問題が、素朴ではあってもそれだけにかえって端的に打ち出されているものとして、更に哲学の全領域に亙る整然たる組織をもる唯一の書として、本書は西田哲学の入門に最適のものと言えるであろう。