人生の全てを好奇心の対象として眺める

 

6月14日(土)

 

「総会屋錦城」で直木賞、「官僚たちの夏」などで経済小説の開拓者となり、「落日燃ゆ」「毎日が日曜日」などで幅広い読者をもった人気作家の城山三郎氏。「打たれ強く生きる」(新潮社文庫、1989年発行)は、有名人の様々な生き方を紹介する中で、打たれ強く生きる秘訣を説いています。(2007年没、79歳)

 

人生には「第3の道」がある

 

「劇団四季」主宰の浅利慶太は時代を追うのではなく、時代に背を向け、あるいは時代に一歩先んじた華麗な作品を次々に上演してきた。猛稽古で有名なこの劇団への入団者に浅利さんが言う掟(おきて)が二つある。

 

一つは「この世界は不平等と思え」。平等を考えたら、不平が出てきて稽古に集中できなくなる。だからその迷いをポンと断ち切ってしまう。二番目の掟は「自分の時計を持て」。人間は早熟の人、晩成の人など、一人ひとり皆違っている。人生設計においても、自分の時計に合わせて生きていくことになる。

 

自分の時計といえば、山椒魚の話を思い出す。地球上の生物として山椒魚など両棲類が最古のもの。そこへ爬虫類が発生し、両生類は次々に死滅していった。その中で山椒魚だけが生き残った。その理由は普通の動物とは逆に、子育ての難しい秋から冬にかけて卵を産む。

 

この季節は天敵となる動物たちが出歩かない季節だから、彼らは命拾いした。つまり山椒魚は自分だけの時計をもっていたから生き残ることができたのである。

 

次はどんな事態になっても、人生には「第3の道」があるという話である。豊臣秀吉の命令に従って命拾いするか、逆らって殺されるかという話。境の豪商でもあった千利休は後者を選んで自ら命を捨てた。やはり豪商であったルソン助左衛門も同様の選択を迫られた。その時、助左が選んだのはそのどちらでもなく、海外へ脱出するという第3の道。

 

人気の落語家、桂枝雀がテレビで自分の芸や人生について答えていた。「自分のことは長い付き合いやから、自分が一番よう知ってる」と言い、「ボチボチが一番や」と。いい言葉だと思った。人生慌てても仕方がない。周りはどうであれ、自分は自分の人生を自分のペースでボチボチ歩けばいい。

 

経済学者のワルラスが好んだという言葉がある。「静かに行く者は健やかに行く。健やかに行く者は遠くまで行く」。私もこの言葉が大好きで、これまでの人生の支えとしてきた。これからもそうしていきたい。

 

「打たれ強い男でないと、これからは生き残れなくなる」

 

「頭は少し弱目がいい」と作家の渡辺淳一さんの説である。頭がいいと、先行きのことをあれこれ計算したりして、一事に集中しない。弱目の方がその道しかないと諦めて、いい仕事ができる。また気を使ってくよくよすることがないということである。

 

拳闘の選手でも、鋭いパンチを持っている男より、打たれてもなお倒れない男の方がチャンピオンになる確率が高いという。「打たれ強い男でないと、これからは生き残れなくなる」というのが渡辺淳一さんの持論である。人生の原点が常に死であると思えば、少々の挫折など何でもないということになる。

 

中山素平さんは、興銀に入行したものの、最初は経理課に配属された。配置転換を申し出るよう仲間に勧められたが、そうしなかった。「どこへ行けと言われて、一切『ノー』と言うことがない」、それが中山さんだった。どこにいても何かを身につける、この姿勢があれば左遷はあり得なくなる。同時に地位に対しても綿々とした未練は持たない。

 

NHKアナウンサーの鈴木健二さんは、テレビ界だけではなく、早くから物を書き続けてベストセラー・ライターにもなった。息の長い、打たれ強い男の一人なのだが、その秘密はどこにあるのか。一つは3回にわたる大病の経験で、生命力の強さを身にしみて感じ取った。

 

三度目の大病は五十歳の時、激しい血尿と尿閉塞、肝臓を一つ取り出す大手術となったが、その中で好奇心観察欲を持ち続けた。大病にせよ、大失敗にせよ、人生の全てを好奇心の対象として眺めるゆとりを持つ限り、人は必ず再起できるものなんだ。

 

もちろん、体力の強さも必要である。鈴木さんは早朝の散歩を欠かさない。何よりも読書好き。膨大な読書量が人生とは何かということを語りかけてくる。大病、好奇心、体力、人生経験、読書量、これが鈴木さんを打たれ強くしているようである。(T OPPOINTから抜粋)

 

 

 

講演録「西博士と西田博士」(15)

 

6月13日(金)

 

「西博士と西田博士」(昭和38年11月10日、森先生68歳)と題する講演は、西晋一郎先生の二十周忌法要の後、広島大学で特別に開催されたもので、哲学を求める方には良きガイドブックになると思います。本日は共通点の最終回で、世界観にライプニッツ「単子論」の「一即一切、一切一即」の構造があると指摘しています。

 

ライプニッツ「単子論」の「一即一切、一切一即」的な構造

 

最もこうは申しましても、西先生の場合には「実践哲学概論」と「東洋倫理」とは、ほぼ「一巻一体系」的な表現といってよく、そして先生がこうしたことを可能とせられたのは、先生の講義は、主として西洋の大思想家の主著を、克明に要約せられたものを骨子として為されたために、西洋の大思想家の「一巻一体系」的表現の趣を、いつしか身につけていられたのではないかと思うのであります。

 

次に第六の共通点としては、お二人共に、その世界観構造の根本としてライプニッツの「単子論」のもつ一即一切、一切一即的な構造をお持ちだったということでありまして、この根本の一点が分かりませんと、特に西田先生のご著書などは、幾十回読み読みましても、カラリとした理解には達し難いかと思うのであります。

 

もっともこうした世界観構造は、西先生の場合には、すでに処女作の「倫理哲学講話」、特にその終わりの辺りに現われていますが、西田先生では、それがあらわになり出したのは、比較的晩年になってからのようであります。

 

なおこの点に連関したことを申せば、西先生が大学ご卒業後、最初にお書きになられた論文がライプニッツであり、また西田先生にも晩年「ライプニッツの予定調和説」に関した論文があります。

 

さらに第七の共通点としては、共に膨大な著述を残しておられるということでありまして、この点もまた重大な点だと思います。即ち西田先生の全集は合わせて十五巻あり、西先生に至っては、未刊の筆録などを加えて十八巻が予想されているのであります。しかもさらに著しい共通点は、このような膨大な著述の約七割が、共に六十歳を境として、それ以後に書かれたということでありまして、これは誠に驚嘆に値する偉大な事柄であります。

講演録「西博士と西田博士」(14)

 

6月12日(木)

 

「西博士と西田博士」(昭和38年11月10日、森先生68歳)と題する講演は、西晋一郎先生の二十周忌法要の後、広島大学で特別に開催されたもので、哲学を求める方には良きガイドブックになると思います。本日は両先生の共通点として、思想の表現形態が西欧の「一巻一体系」と異なり、主として論文形態をとっていることを指摘しています。

 

共に書き下ろしの「一巻一体系」的表現ではない

 

しかもさらに驚嘆すべきことは、このような体系の完成期において、その触媒となった思想が共にプロチノスだったということでありまして、ここまで参りますと、全く人為を越えたあるものが働いていたという外ない気がいたすのであります。

 

第五の共通点としては、お二人共に思想の表現形態が、主として論文形態をとっているということでありまして、これは今後民族の学問的表現という点からも、注意せられてよい点かと思われます。

 

と申しますのも、西洋ではご承知のように、哲学が論文的形態をとることは、プロチノス

を別にしては、比較的少ないのでありまして、多くは「一巻一体系」的表現形態をとっていると申してよいようであります。

 

近くはカント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル等何れもそうであって、例外がないとも言えるほどであります。では何故これら二人の方の表現形態が、そのような論文の形をとったかということが問題となるわけですが、私の考えでは、そこには二つの原因があるのではないかと思われます。

 

その一つは、現在でもそうですが、わが国では学問の発表機関が、多くは専門雑誌、さらに大学の「紀要」ふうなものによる場合が多くて、書き下ろしの「一巻一体系」的表現による処へは、まだ到っていないからだと思われます。

 

同時にこれはまた、小説などにおいても「私小説」的短編が多いという現象と、必ずしも無関係ではないとも言えましょう。このような処にも、この島国に住するわれら民族の矮小性の一反映が伺われるかと思うわけであります。

講演録「西博士と西田博士」(13)

 

6月11日(水)

 

「西博士と西田博士」(昭和38年11月10日、森先生68歳)と題する講演は、西晋一郎先生の二十周忌法要の後、広島大学で特別に開催されたもので、哲学を求める方には良きガイドブックになると思います。本日は二人の思想家の驚くべき類似性を強調し、天がわれら民族に与えた「天才的双生児」と述べています。

 

共に「自覚」を中核とした一種の体系

 

このように第二の著作を踏まえて次の第三作において、将来の体系的展開のために盤石の基礎を置かれたという点でも、これら二人の思想家は、全く符節を合するが如くに相似しているのであります。

 

即ち西田先生においては、それは「自覚における直感と反省」でありますし、西先生においては「倫理学の根本問題」でありまして、この二書は、それぞれにお二人のその後の著述活動に対して、絶対的基盤を構築したものと言ってよいでしょう。

 

しかもその成立の時期さえ、西田先生は四十八歳、西先生は五十一歳で刊行していられるのでありまして、ここにも奇しき契合が見られるわけでありまして、しかもこれらの二書は、さらにその内容の本質においても、そこには符節を合わすが如きものがあるのでありまして、それは何かと申しますと、共に「自覚」を中核とした一種の自覚体系だという点であります。

 

否、さらに立ち入って申せば、そのような自覚体系の成立のために、触媒となったものが、共にフィヒテだったということまでも共通しているのでありまして、ここまで来ますと私どもは、これら二人の思想的巨人は、全く「天」がわれらの民族に与え給うた「天才的双生児」だったとさえ思われるのであります。

 

次に第四の共通点としては、体系の完成が共に五十代の後半だったということであります。それは西先生においては、哲学体系の主著たる「忠孝論」の完成が五十八歳であり、また西田先生においても、その晩年の哲学体系の基礎たる「働くものから見るものへ」は、同じく五十八歳の年に出版されているのでありまして、これなども暗合というにはあまりの不思議さにただ驚く外ないわけです。

 

講演録「西博士と西田博士」(12)

 

6月10日(火)

 

「西博士と西田博士」(昭和38年11月10日、森先生68歳)と題する講演は、西晋一郎先生の二十周忌法要の後、広島大学で特別に開催されたもので、哲学を求める方には良きガイドブックになると思います。本日は処女作の出版が共に四十歳を越えていたことが、六十歳を越えてから著述活動の最盛期に入られた深因だと指摘しています。

 

「善の研究」(西田)と「倫理哲学講話」(西)

 

第二の共通点としては、お二人とも処女作の成立期を等しくしていると言うことでありまして、この点は一般にはさまで問題とせられていないようですが、私には非常に重大な点だと思われるのであります。

 

処女作はご承知のように、西田先生にあっては「善の研究」でありますが、これは四十二歳(以下すべて数え年)の時に出版されましたし、また西先生の処女作「倫理哲学講話」は、実に四十三歳にして刊行せられているのであります。

 

このように処女作の出版が、いずれも四十歳を越えてなされたということは、非常に注目すべき事柄だと思うのであります。と申しますのも、このことは、お二人がいかに地下工事のために永い沈潜の期間を持たれたかということであります。これが後に述べますように、共に六十歳を越えてから、生涯における著述活動の最盛期に入られた深因と解して良かろうと思うのであります。

 

次に第三の共通点としては、処女作において、そこに一応将来の思想体系の萌芽が伺えるわけですが、次の第二作においては、共に第三の定礎的な大作のための準備として、幾つかの基石を用意せられている点でも、全く符節を合するものがあるのであります。即ち西田先生においては「思索と体験」の中に収められている幾つかの論文がそれであります。

 

また西先生の場合には「普遍への復帰と謝恩の生活」がそれに当たるわけであります。その中に収められている「感謝の無限」の一文は、先生が御母堂を失われた直後の感慨を表現せられたものとのことでありまして、その最後の辺りにある「実在の奥底はいかほどやさしいものであろうか、想像だも及ばぬほどである」との一句は、ある意味では、一句よく爾後の先生の全思想体系を含蓄しているとも言えましょう。

講演録「西博士と西田博士」(11)

 

6月9日(月)

 

「西博士と西田博士」(昭和38年11月10日、森先生68歳)と題する講演は、西晋一郎先生の二十周忌法要の後、広島大学で特別に開催されたもので、哲学を求める方には良きガイドブックになると思います。本日は両先生が独創的体系を持つ思想家ゆえに、紹介に類する著述が少ないことを指摘しています。

 

共に独創的な体系の思想家

 

お二人の方こそ、共に真の意味における「哲学者」の名に値する方と思いますが、その何よりの証拠は、結局は独創的な体系の所有者だということでありましょう。

 

わが国ではまだ学問が真に成熟の段階まで達していませんので、大学で哲学史などを教えているだけで、自他共に「哲学者」などといっているようですが、これほど滑稽な話はないわけで、この程度では「哲学の教師」ではあっても、断じて「哲学者」とは言えないのであります。

 

そうした点からみて両先生は、真の意味で「哲学者」の名に値する方でありまして、それが時を同じうしてこの国土に出現せられたということは、一種の不思議という外ないのでありまして、そうした点からしても、全く天授の大思想家という気がいたします。

 

お二人の方が、独創的思想家だということは、それぞれ自家の体系をもっておられ、いわゆる紹介に類する著述が少ないということなども一つの特徴といえましょう。もちろん紹介的な論文が絶無だというわけではありませんが、いわゆる紹介に類する著述が少ないということなども一つの特徴といえましょう。
 

もっとも西先生の方は、西田先生と比べますと、やや多いかと思いますが、しかしそれは主として東洋の思想に関してであります。

 

それは普通の人には体系的な理解の閉ざされている蒼古易簡な東洋の古典的な思想に対して、先生の独自の体系的な知見を以って、その閉ざされている扉を開かれたという趣があるのでありまして、そこには後来の者に対する先生の、深甚なる御配慮が伺える感がいたすのであります。

人間は「胆識」「器」から気品、風格へ

 

6月7日(土)

 

本書「人物を修める」(安岡正篤著、致知出版社、1986年発行)は、戦後政財界の精神的支柱となった安岡正篤氏が仏教、儒教、老荘などの叡智をもとに、人間修養のあり方を説いた一冊です。有名は「思考の3原則」はこの書で説かれたものです。

 

「思考の3原則」

 

人間忙しいと自分の心まで失ってしまう。そこで、ものを考える際には、次の3つの原則を心得えておかねばならない。これは人の上に立つ人ほど心得なければならないことである。

 

①    目先にとらわれず、長い目で見る。

②    物事の一面だけを見ないで、できるだけ多面的・全面的に観察する。

③    枝葉末節にこだわることなく、根本的に考察する。

 

東洋では、これがなければ宇宙・人生は成立しないという、最も本質的なものを「道」と呼んでいる。その道が人間を通じて現れたもの、それを「徳」という。「道」と「徳」とを結んだのが「道徳」である。人が人たるゆえんは、「道徳」をもっていることである。

 

それは「敬」する心と、「恥」ずるという心になって現れる。敬する心は、人間が限りなく発達を望んで、未完成なものに飽きたらず、より完全で偉大なるものに憧れるところから生まれてくる。そして敬する心が起こると、必ずそこに恥じるという心が生まれてくる。

 

人間学――徳性、属性、習性

 

「論語」に「学んで思わざればくらし、思うて学ばざれば殆(あやうし)と」とあるように、学ばないと真実がわからない。そういう人生の生きた問題を解決できる正しい学問を身につけるのが教養というものである。

 

人間学として把握しておくべき根本問題は、「人間とは何ぞや」という問題であり、特に大事なことは人間の大切な要素をはっきりと把握することである。人間には本性と属性があり、さらに習性というものがある。

 

本性とは「徳性」であり、明るいことは最も大事な徳性である。その他、清い、汚れがない、人を愛す、人に尽くす、報いるなど色々の徳性がある。これに対して知能とか技能というのは人間の属性である。属性は徳性から離れると偽や邪になる。

 

習性は「習、性となる」の通り大事なものである。人間は早いうちに良い習慣を身につけさせる。これは徳性に準じて大切なことである。ところが、明治の日本はこの根本問題を忘れ、「追いつけ・追い越せ」の大躍進を実行して、西洋文明の吸収に熱中した。その結果、徳性を涵養して良い習慣を身につけ、それに基づいて知識・技術を授ける、という点で抜かってしまったのである。

 

人物とは見識から胆識、さらに人間の器へ

 

人物の内容で第1には「骨力」、いわゆる「元気」のことである。「元」とは大きい、普遍的という意味である。そこから空間的には「もと」、時間的には「はじめ」という意味になる。「気」はエネルギーであり創造力である。したがって「元気」は一切の本質・根元である。

 

元気を「骨力」という。身体の中の一番大切な機能である。人間の神秘的な働きはほとんど骨の中で行われる。「骨力」が「気力」となり次第に精神的に発達してくると、自ら生きんとする目標・目的を持つようになる。これを「志」という。

 

「志」ができると「反省」が生まれてくる。すると「義」と「利」を分かち、「何をなすべきか」という識別・弁別、すなわち「義利の弁」が明らかになってくる。すると知識は単なる知識ではなく、理想精神・創造力から見る「見識」が生まれてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

講演録「西博士と西田博士」(10)

 

6月6日(金)

 

「西博士と西田博士」(昭和38年11月10日、森先生68歳)と題する講演は、西晋一郎先生の二十周忌法要の後、広島大学で特別に開催されたもので、哲学を求める方には良きガイドブックになると思います。本日は壮年期に共に参禅していたのは、北条先生の影響ではないかということです。

 

共に壮年時代に参禅していた

 

同時に、これらお二人の思想家が、その人間形成上に受けられた感化影響という点で、もっと大きく共通する点は、共に壮年時代において参禅せられていたようですが、これも私の考えによりますと、全く北条先生の影響といって良かろうと思われるのであります。

 

西田先生が三十代という学問の基礎形成期において打坐されたことは、先生の「寸心日記」(アテネ文庫)に明らかですが、西先生もまた壮年期において仏通寺にお通いになられたことは周知の事柄であります。しかも共に臨済禅だったということも、恐らくは北条先生に発しているのではないかという気がいたすのであります。

 

さらに両先生が共に寡黙であって、学生などがお訪ねしても、しばしば取りつく島のないほどだったという点なども、どうもその源流は北条先生に発しているのではないかと考えられるのであります。

 

なお、北条先生について、詳しいことを知りたいと思われる方は、先生の追憶集ともいうべき「廊堂片影」というものがございますからご覧になられるがよいと思います。なかなかの大冊ですが、今は亡き巨人、北条時敬先生の面目を伺いうるものとしては唯一の文献といってよいでしょう。

 

さて、以上はいわば「学問以前」ともいうべき点における、ふたりの思想家の共通点について申しましたから、次には学問上の共通点について申してみたいと思います。

 

まず第一に、周知のように、お二人ともにその著述が非常に独創的な思想体系の表現だということであります。その点で、明治維新以後民族のもった最初の独創的な思想家であると共に、爾後今日に至るまで、それに並ぶ思想家を輩出してはいないのであります。

講演録「西博士と西田博士」(9)

 

6月5日(木)

 

「西博士と西田博士」(昭和38年11月10日、森先生68歳)と題する講演は、西晋一郎先生の二十周忌法要の後、広島大学で特別に開催されたもので、哲学を求める方には良きガイドブックになると思います。本日は共通の恩師、北条時敬先生から人間形成の面で影響を受けたと指摘しています。

 

それに比べれば西先生の方は、大学卒業後数年にして広島高師の教授になられたのですから、西田先生よりはやや順調といえましょう。しかし当時の広島は全く不便な片田舎でありまして、そうした田舎の中都会に生涯を終始せられたということは、少なくとも先生の卓越した御才能を考えると、決して順調とはいえないように思われるのであります。

 

このように、生い立ち及び閲歴において苦難の途をたどられた二人の思想家は、その上さらに恩師をも等しくしておられるという奇縁を看過するわけにはゆかないのであります。では、その恩師とはいかなる方かと申しますと、外ならぬ北条時敬先生なのであります。

 

即ち西先生は山口高校時代に北条先生から教えられ、西田先生は四高時代に教えられたのであります。これら二人の民族を代表する哲学者が、単に同じ一人の師から教わったというだけでなくて、その方を「終生の師」として尊信し続けられたということは、まったく奇跡という外ない事柄だと思うのであります。

 

もっとも、ここで念のために一言しておかねばならぬことは、北条先生の御専門は数学であって、倫理とか哲学ではなかったという点であります。ではお二人の思想家は、北条先生から一体どのような点で感化影響を受けられたかとことが問題なわけです。

 

幸いその点については、西先生には、「北条先生のことども」という一文がありますから、心ある方はご覧になられるが良かろうと思います。では西田先生の方はどうかというに、西田先生は西先生と違って数学的な関心をお持ちでしたから、その方面の影響を受けられたことは申すまでもないでしょう。

 

しかし、西田先生が北条先生から学ばれたものが、単なる数学的な部面でないことは明らかでありまして、結局西先生と等しく、その人間形成的な面においてだったと申してよいかと思われます。

講演録「西博士と西田博士」(8)

 

6月4日(水)

 

「西博士と西田博士」(昭和38年11月10日、森先生68歳)と題する講演は、西晋一郎先生の二十周忌法要の後、広島大学で特別に開催されたもので、哲学を求める方には良きガイドブックになると思います。本日は逆境体験が人間を鍛えると説いています。


共に逆境によって鍛えられた

 

細井平洲先生は、私の郷里に近い処にお生まれになりました。私も若い頃はあの穏やかな学風やお人柄を好みませんでしたが、年と共に次第に生温くなりつつあるわが身の不思議さに、実は私自身驚いているような次第であります。

 

とにかく一人の思想家にとって、その生誕地の地方的特色から受ける影響は、決して看過しえないものがあるかと思うのであります。ところが、これら二人の思想家は、その生誕地が共に雪深い北国であったという上に、さらに生い立たれた境遇上、共に逆境によって鍛えられている点においても、深く共通している点があるようであります。

 

西先生のお家は、鳥取の旧池田藩の士族だったようですが、廃藩置県によって、お父さまはずいぶん苦労をなさったらしく、先生の学資の一部は、地主だった母方の伯父さんから出されたようであります。

 

その点西田先生の方も、お祖父さんの時代までは、七十五町歩の大地主だったとのことですが、やはりお父さんの時代には零落され、家計はさまで裕福ではなかったようであります。あるいは西先生と同様に、学資の一部がご親戚から出ているかと思われるのであります。

 

しかしながら、これらお二人の逆境は、このようにひとりその生い立ちの時代だけではなく、さらに大学を出られて以後の学者としての歩みの上でも、必ずしも順調とはいえないようであります。

 

特に西田先生は、四高時代に故あって退学せられたために、大学では選科生として冷遇せられ、そのために大学卒業後も最初は中学の教師を振り出しに、四高・山口高校・学習院などを廻られて、最後にようやく京都大学の助教授になられたのでありまして、その間に辿られた紆余の途が、先生をいかに人間的に鍛えたか分からぬと思うのであります。