「情念の形而上学」に学ぶ

 

2月22日(木)

 

本ブログは森信三先生の晩年、最後の著作である「情念の形而上学」の2.「創造と万有の無限連続」から抜粋しています。本日も第4節「時・空の無限觀」の続きで、「いのちの自証」の立場に立てば、自己を囲繞している万象の一切が流転していると述べています。

 

周知のように、カントは一代の精根を自然認識の成立の可能根拠の究尽に傾けたが、そのために絶対の神はただ行信の根拠としての「信」に内在せしめて、絶対なるものは理論的にはただ「物自体」として、まるで臍の緒のようにその痕跡を留めるに過ぎなかったのである。

 

それゆえ、絶対の“いのち”の存在すら、積極的には毫もその証拠が得られなかったのであるから、絶対的「生」が無限大の円環を描いて、無窮に周流して息まぬという思想は、彼においてはその片鱗さえ認め得ないのは当然というべきであろう。

 

だが、ひとたび「いのちの自証」の立場に立つとき我々人間は自己を囲繞(いじょう)している万象が、一カ処に静止固定しているものは、特殊の例外的な場合以外にはほとんど一物もなく、それらの一切が流転していることを認めざるを得ないであろう。

 

衆生の苦悩の解釈を念じた釈迦が、万象を「無常」として捉えて教示したのは、当然だといってよいであろう。ただ眼を放ってさらに大観の立場にたてば、このように流れ去り消え去ったと観じた諸々の事象も、その姿は変わるとしても、これを極大の立場からは、周流して再び元へ還り来るという外あるまい。

 

かくして、このような“いのち”の循環周流の理は、最も近くは親子の間にも認められるといえようが、さらに眼を放って大観すれば、四時の循環はその顕著なる一実証といえるであろう。永い厳冬が去って、まだ一面に枯れ草の原と見る河原の辺りを散策するとき、フト足元につくしの芽生えを見た時ほど、天地の大生命の循環息むこと無きことを痛感せしめられることはない。

 

かくして人間は、自己の身近なる辺りに、“いのち”の循環の相(すがた)を実証しうるのみならず、この自己そのものの上にも、その一呼一呼はもとより、血液の無限循環から、さらにこれを極大的大観の場に移すとすれば、絶大無窮なる“いのち”の循環の理の無尽なる顕現と見る外ないであろう。

「情念の形而上学」に学ぶ

 

2月21日(水)

 

本ブログは森信三先生の晩年、最後の著作である「情念の形而上学」の2.「創造と万有の無限連続」から抜粋しています。本日も第4節「時・空の無限觀」の続きで、「時間は直線の無限延長のようなものではなく、無限大なる円環を描いて循環周流するに近い」とのことです。

 

かつての旧き形而上学は、そのほとんどが「旧約聖書」に依拠する、一種の神学的哲学といってよく、これ一部の人々から「神学の婢」とさげすまれたのも、ある意味では当然というべきであろう。

 

かくしてカントによってその残骸が葬り去られた、人間中心主義的地平の上に再建されるべき現代の形而上学は、何よりもまず“いのち”の自証の立つのでなければなるまい。そこには必然に諸々の思想学問が、如是の自証への媒介的役割を演ずべきであろう。

 

それらの中には、かつて世界史上に現れた宗教的世界観も、必然にその媒介的役割を演ずるべきであろう。同時にそれとは正逆とも見られる天文学や原子物理学などの自然科学の成果も、また等しく現代における「いのちの自証」への媒介たるべきであろう。

 

如是の立場に立つ新たなる「いのちの自証」の形而上学において、真っ先に取り上げられる最重大テーマは何かといえば、やはり「時間と空間」の問題だと思うのである。

 

ひとたび大観の立場で世界観の問題を徹して考えれば、カントの時・空という二大規範を重視した精神を否定しえないが、単に時空論を自然認識の立場に限定せず、“いのち”の自証の立場から新たなる光を照射してみる要があると考えるのである。

 

だがこの書は、もとよりそのような新たなる形而上学の、体系的展開を意図するものではない。ただ民族の後来の俊秀のために、ここには新たなる「いのちの自証」の形而上学の立場における、時空論の概要の手控え程度のものを残しておけたらと考えるわけである。

 

時間はふつうに考えるように、直線の無限延長のようなものではなく、まさに無限大なる円環を描いて循環周流するに近いといえるであろうか。その終局的根拠としては、時間がかく無限大の円環の円周だという根底には、無窮なる絶対的全一生命自体が、実は静止せる死的固定的状態に留まるものではなく、無限大なる円環的周流を為しつつあると言う外ない。

 

「情念の形而上学」に学ぶ

 

2月20日(火)歌舞伎の日。

 

本ブログは森信三先生の晩年、最後の著作である「情念の形而上学」の2.「創造と万有の無限連続」から抜粋しています。本日は第4節「時・空の無限觀」の続きで、新たなる現代の形而上学への歩みは「いのちの自証」の立場だと自説を述べています。

 

時間および空間の論究は、このような単なる人間中心主義のみでよいと言えるであろうか。それというのも、カントの哲学は近世に入った人間的自覚の理論的自証の、空前の一大偉業とはいえようが、その根底は何といっても人間中心的な世界がその基調をなしていることは、否定し難いといってよいであろう。

 

かくして彼の哲学は、旧き空疎な形而上学の残骸の破壊には空前の威力を発揮したといえるが、新たなる形而上学の建立にまでは至らなかったことは、これまた周知の事柄といってよい。かくして彼を継ぐフィヒテは、「主我的」人種の特質を発揮して、自我の自覚の形而上学ともいうべきものを打ち立てた。

 

やがてヘーゲルに到っては、元来「歴史の論理」たる弁証法の論理を以って、「歴史の形而上学」ともいうべきものを創建したが、そのオルガノンたる「弁証法」の論理ゆえに、歴史のもつ相対性をついに脱却し得ずして、逆に唯物史観に翻転したことについては、これ以上立ち入る要はないであろう。

 

かくして我々は、カントの人間的自覚のもつ現実的真理性を認めつつも、それだけでは留まらないで、それを踏まえつつ「いのちの自証」の立場に立ち還って、今や新たなる現代の形而上学への歩みを踏み出さねばならないであろう。

 

けだし人間が、有限存在として生死を免れ得ない以上、人間に形而上学的希求の消滅する時は永遠に来ないであろう。そして今や再建されるべき、新たなる現代の形而上学において要請される根本条件の一つは、何よりもまず「いのちの自証」の立場というべきであろう。

 

かくしてカントによってその残骸を葬り去られた、人間中心主義的地平の上に再建されるべき現代の形而上学の根本条件は、何よりもまず「いのちの自証」の立場に立つのでなければならない。したがって、そこには必然に諸々の思想学問が、如是の自証への媒介的役割を演ずべきであろう。

「情念の形而上学」に学ぶ

 

2月19日(月)雨水。

 

本ブログは森信三先生の晩年、最後の著作である「情念の形而上学」の2.「創造と万有の無限連続」から抜粋しています。本日から第4節「時・空の無限觀」へ入ります。今まで時空論に触れなかったのは、「意識」の問題が先決だったからだと説いています。

 

万有の創造を問題にしながら、時・空の問題に触れずには、その論究は未だ充分だとはいえない。なぜなら、たとえ大宇宙といえども、人間がそれを問題とする以上、何らかの意味で時・空を意識せぬわけには行かないからである。

 

それというのも、大宇宙という時何らかの趣で無辺際の虚空を意識せずしては、ほとんど何事も考え難いといってよいからである。また大宇宙は悠久だというも、そこにはすでに何らかの程度における時間意識の存在が、含意されているが故だといってよい。同時にこの点において、カントの認識論のもつ意義を、改めて思わざるを得ないのである。

 

この書が第1章で「全一生命としての大宇宙」から考察を開始し、さらに第二章で「創造と万有の無限連関」の問題をとり上げながら、「時空論」に触れなかったのは、どうしてもそれに先立ち、意識の問題が扱われなければならないと考えるが故である。

 

時間はもとより空間といえども、我々は自己の意識におけるこれが認知作用を待って、初めてその存在を覚知しふるのであり、したがって、もし意識作用を欠いていたとしたら、広漠たる大虚空の観念も、悠久無限なる時間観念というものもないはずである。

 

かくして時間および空間は、人間が意識的存在として、この地上に発生せしめられたことによって、かかる自覚は初めて成立するに到ったというべきであろう。周知のように、カントはすでに両者を以って、人間の現実認識における二大範疇としているのである。この立場は人間中心的な見解といってよいであろう。

 

すなわち時・空というものは、人間における全客観界の認識の成立根拠であって、彼によれば、人間には時・空という二大先験的形式が具わっているゆえ、客観界の認識は可能だとするのであって、そこには彼の人間中心主義が、少なくとも半歩進められているといえるであろう。

 

土曜雑感 斎藤幸平著「ゼロからの『資本論』」を読む(31)

 

2月17日(土)

 

斎藤幸平の新著「ゼロからの『資本論』」から要点を抜粋し、新しい社会への方向を学んでいます。前回は経済成長を目的としない脱成長型社会を実現することで、生産は初めて持続可能なものになり、「修復不可能な亀裂」も修復されるという、マルクス晩年の思想を紹介しました。今回はオックスフォード大学の経済学者ケイト・ラワースの「ドーナツ経済」を紹介します。

 

今、世界的に注目を集めているのがスペインの第二都市バルセロナの呼びかけで始まった「ミュニシパリズム」(地域自治主義)の国際的ネットワークです。なかでも、2050年までに脱炭素社会を目指すアムステルダム市が、コロナ禍のさなかに、オックスフォード大学の経済学者ケイト・ラワースの「ドーナツ経済」という考えを導入して話題を呼びました。

 

「ドーナツ経済」(図参照)です。ドーナツの内側の輪郭が社会的基盤です。教育や民主主義。住宅、電気などへのアクセスが不十分になると、人々はドーナツの穴に落ちます。一方外側の輪郭は地球の環境的上限を示しています。むやみにエネルギーや資源を使用すると、外側の輪を突き抜け、地球は破壊されます。

 

 

できるだけ多くの人が両方の円の間に入れるような生活を実現する必要があるというのが、ラワースの発想です。ところが、資本主義は格差を広げ、グローバル・サウスの人々がドーナツの身の部分にはいることを許さず、無限の成長を目指した先進国の放埒な生活は、ドーナツの外側の円を突破してきました。

 

これまでの経済成長偏重を根本的に是正し、脱成長型経済に転換していくことをドーナツ経済は求めています。例えば、不動産価格が上がることは、投資の観点から歓迎され、都市開発成功の証とみなされたでしょう。しかし、多くの人々の住環境を脅かすのであれば、不動産売買への規制や資産への課税、公営住宅の拡充が要請されることになります。

 

 

 

「情念の形而上学」に学ぶ

 

2月16日(金)

 

本ブログは森信三先生の晩年、最後の著作である「情念の形而上学」の2.「創造と万有の無限連続」から抜粋しています。本日も第3節「人間存在と意識の問題」で、「意識」とは我々の“いのち”に対する一種の知的照明だと述べています。

 

人間存在の特色は、それが意識的存在だといわれること自体には、何らの異議もないと言ってよいが、一歩を進めて、そこで「意識」と呼ばれている人間の心的作用には、その緊張と弛緩によっても、そこには種々の段階が生じるということである。

 

同時に、そのような差に対してある意味では、これを「意識の明暗」の差ともいえるのである。先ほど述べたように、意識とはある意味では、我々の“いのち”に対する一種の知的照明とも言い得るがゆえである。しからばそのような知的照明の光は、一体どこから射してくるというべきであろうか。

 

これ実に意識の考察上、最重大な一点というべきかと思うが、意識問題の考究にして、このような点にまで追求したものは、案外少ないと言ってよいのではあるまいか。ちなみにこの点に対して答える要があるとすれば、真の光源は“いのち”そのものの根源にあると考えるのである。

 

かくして人間の意識作用とは、我々の人間的生、すなわち人間の“いのち”そのものの中から発しつつ、自らの“いのち”の内容を照らす自照光の作用であって、かくて意識を以って、人間存在の最根本的特質と考え得るゆえんでもあろう。

 

したがって人間の意識とは、人間の“いのち”の内に潜在し包含されていた知的発光が、時来たってその自然作用を開始した状態といえるであろう。かくして生誕直後の嬰児、ないし瀕死の老人には、いずれもその体力が脆弱であり、“いのち”をして、知的光を支えるまでに到っていないといえるであろう。

 

人間存在は、根本的には心身相即的存在であって、この根本の一点を無視ないし軽視する時、人間存在に関する一切の言説は、何ほどかの程度において、現実より遊離する観念的論議に堕せざるを得ないといってよいであろう。

 

「情念の形而上学」に学ぶ

 

2月15日(木)涅槃会。

 

本ブログは森信三先生の晩年、最後の著作である「情念の形而上学」の2.「創造と万有の無限連続」から抜粋しています。本日は第3節「人間存在と意識の問題」の続きで、「意識」は人間の心的作用をある程度明らかにしている状態だと述べています。

 

単に本能知と呼ばれているものも、広義には意識の一部といえるであろうが、しかし本能知と限定的にいえば、それは知・情・意の未分態の意識ではあっても、方向的にはすでに知的な限定を考えているともいえるであろう。

 

それは同時に、単に本能知というよりもはるかに豊富な内容をもつものであって、そこには明らかに、知・情・意の三作用が含まれているわけである。すなわち単に“いのち”という漠然たる呼称とは違って、そこには知・情・意の三作用が内包されているといってよい。

 

したがって意識とは、“いのち”の一段と開発された段階というべく、したがって人間存在の根本的特徴として意識をとり上げることは、あらゆる人々の承認の得られる、普遍的立場ともいえるであろう。

 

今図らずも、意識をもって“いのち”の開花開発された立場と言ったが、意識とは人間的生(いのち)の作用らきに対して、一種の知的光が照射されたものと言えるであろう。ここで「意識」と呼ぶものは、人間の心的作用をある程度明らかにしている状態だといってよい。

 

人間は1日16時間前後を意識の覚醒状態で過ごすと、やがて心は疲労困憊に陥って睡魔におそわれ、眠らずにいられなくなるわけである。人間はいかに頑健強壮な人といえでも、無制限には起きてはいられず、必ず睡眠をとらざるを得ないのは、意識作用が持続するにはかなりの程度に心の緊張を要するがゆえである。

 

かくして、ふつうに漠然と意識と呼んでいるものの中にも、睡眠が充分であり、かつそこで問題となっている事柄が、自己の関心を引く場合には、全意識をそれに集中するがゆえに、その事態の認識も精到たることを得るわけである。

 

これに反して、前夜が睡眠不足であったり、そこに提起されている問題が興味のない場合には、眼は開いていても、対象の把握は充分たり得ないといってよいであろう。

「情念の形而上学」に学ぶ

 

2月14日(水)バレンタインデー。

 

本ブログは森信三先生の晩年、最後の著作である「情念の形而上学」の2.「創造と万有の無限連続」から抜粋しています。本日から第3節「人間存在と意識の問題」へ入ります。人間存在は意識存在で、知・情・意の三者を包含すると述べています。

 

人間の生活において、最本質的かつ最根本的な特質は何かというに、それは意識的存在だということであろう。そこから人間存在の根本的考察にとり掛りたいと思うのである。それは、この書の根本的究明の上から、どうしてもその要ありと考えられるが故である。

 

このように人間存在の根本的特質を意識に置こうとする時、さしあたりまず問題となるのは、「そうは言っても、動植物にもそれぞれの程度で意識が存在しないとはいえまい。動物については改めて言うを要せぬとしても、かのネムの木の葉の御ときは、人の触れる時、直ちにその葉を閉じるという現象に対していかに考えたらよいでああろうか」。

 

少なくともそこには、低次の意識は存在すると考える方が、正しかろうと思うのである。いわんや動物にあっては、かなり下位の動物でさえ、何らかの刺激を与えれば、直ちにそれに反応するといってよいであろう。

 

ここに「人間の意識」を主題として、特に人間存在における最根本的特質として、ここに意識の意義を力説しようとするのは何ゆえであろうか。ここで人間存在の根本的特質として、特に意識を揚げる場合の意識とは、いわば“いのち”の自覚的基盤というべきものと考えているからである。

 

すなわちここで、単なる本能知でもなければ、さりとて単なる知性の替えコトバでもなくて、意識とは実に”いのち“の自覚的基盤というべきものと考えるが故である。その内容はいわば知・情・意の三者を包含するもので、無量多の内容を包蔵し、単に知・情の何れか一部門に限定されたものとは考えないのである。

 

かくして如是の立場からは、人間存在とは端的に意識存在だといってよいわけであるが、しかしそこには、“いのち”の内容ともいうべき知・情・意の三作用が、ある意味では未分の状態において含まれているといってもよいであろう。

 

「情念の形而上学」に学ぶ

 

2月13日(火)

 

本ブログは森信三先生の晩年、最後の著作である「情念の形而上学」の2.「創造と万有の無限連続」から抜粋しています。本日は第2節「無生物・生物・人間」の最後で、人間は「本能知」に対して、分析・総合という知性の二大作用を得たと説いています。

 

ここに合理的知性というは、現実に対して分析と総合を可能とすることだといってよいであろう。「現実に対して」とは客観的な立場から言うのであり、これを主体的に即していえば、「本能知」に対して、分析及び総合という、知性の二大作用の行使を可能とするに到ったことを言うといってよいであろう。

 

我々人間は、もともと自己の身を外的から護らんがために、造物主から与えられた本能知に対して、分析及び総合の両作用を併用しうるに到ったわけである。その結果いかなるものを得たといえるであろうか。端的にいえば、結局は「自由」を得たという、一事を以って答えるべきであろう。

 

何となれば本能知は、神からの単なる所与であるだけに、確かに鋭敏ではあるが、それは特的の対象的限定を免れないのである。すなわち主として外敵に向けられるという根源的制約を免れないわけである。しかるに人間的知性となると、本能知に対しても、分析と総合という高次の知的操作により、今や対象への制約を脱して、「自由」を得るに到るわけである。

 

したがって、「自由」とは、これを本能知からの解放といってもよいのであり、かくして知は何よりもまず、対象よりの解放及びそれによる「自由」にあるといえるであろう。だが、自由と解放とは、何らかの代償も支払わずに得られるものでないことを知らねばなるまい。

 

その最も象徴的記述は、かの「旧約聖書」の冒頭にある、人間の楽園追放の神話というべく、それまでは楽園ゆえに何らの心的苦労も知らず、また労働の重荷を背負うこともなかったアダムとイブは、禁じられていた知恵の木の実をひと度味わうことによって、この地上の諸々の重荷を負わなくてはならなくなったわけである。

 

これこの地上の現実としては、「自由」も解放も、何らかの代償も支払わずには与えられないという、この地上の最根本的な真理を悟らしめられるわけである。

 

「情念の形而上学」に学ぶ

 

2月12日(月)

 

本ブログは森信三先生の晩年、最後の著作である「情念の形而上学」の2.「創造と万有の無限連続」から抜粋しています。本日は第2節「無生物・生物・人間」の続きで、人間的知性の恐るべき卓越性について述べています。

 

外見上で人類が猿類と相違しているのは、歩行すなわち直立して歩く点にあるといえよう。同時に内面的には、それが人間を自立させ、特にその知性の発達の上に、重大な加速度を加えたと解明されていることは周知のことに属するといってよい。

 

如是の現実を承認しながらも、人間の根本的な特質は、その知性の異常な飛躍的進歩発展といってよいであろう。今、図らずも異常という形容の辞を用いたが、実際人間的知性の卓越性については、単に異常とか飛躍的という程度の語を以ってしても、到底その真を得ないといってよかろう。

 

この点については、水爆は言わずもがな、手近かには日々上空高く飛翔しつつあるジェット機ひとつをとってみても、明らかだと言えるであろう。なるほど動物の中にも、部分的には人間以上の知を、いわゆる本能として造物主から賦与されている場合がないとはいえない。

 

それらの多くは、主として外敵からわが身を護るべく賦与されたものゆえ、人間の知性といえども及び難きものなしとしないのである。ただ我々人間は、それらの動物と違って、諸々の知性の総合的なところに、その特色があるといえよう。同時に知の錬磨・洗練・伸長を可能とするわけである。
 

人間における知の総合性というは、知の動的統一性といってよく、人間的知性の真の特色は実にこの点にあるといえるであろう。では一歩進めて、人間的知性の動的統一性はいかにして可能かというに、畢竟それは人間的知性の根本が、“いのち”に根ざしているが故だといってよいであろう。

 

かかる大観的な立場にたてば、人類も他の高等動物と共に、その知性の絶対的根底は、“いのち”そのものと言えるのに、その知性の上に絶大なる次元的相違の生じたのは、何故というべきであろうか。端的にいえば、人類にあってはその知性は、単なる本能的の域に留まらないで、そこに合理的知性の出現を見たが故だといってよかろう。