「傲慢ななかで大きな過ちを犯しつづけてきた」

 

5月30日(土)

 

「緊急事態宣言」は25日に全面解除となりましたが、依然として警戒感を免れ

られません。北海道に続き一昨日は北九州で21人の感染が明らかになり、市長

は昨夜に至り「同市は第2波の真っ只中にある」と危機感を強めています。

 

最近はテレワークで時間的な余裕ができたせいか、体力づくりの散歩、ランニン

グをはじめ、ふだんの生活ではなかなかできない断捨離に励んでいる人、あるい

は感染症で関心を高めたペスト(カミュ)など、読書を楽しんでいる人の姿を

FBなどで見かけます。

 

テレビは料理、特に「食べること」に関する番組が多くなったように感じます。

今までは夕食の準備だけでよかった世の奥様方も、3食ともなればそれだけで時

間に追われかつてない忙しい思いを強いられていることでしょう。

 

個人的にはふだん落ちついて読めなかった本、あるいはさっと流し読みしていた

本を再び味わっているところです。その一冊に先の分からない時代の生き方を解

く五木寛之の「大河の一滴」があります。平成11年に発行された、ご存知の超

ベストセラーです。

 

人間にとって「大切なことは何」だったのか、を改めて考えざるをえないコロナ

危機の今、五木寛之は20数年前に人類の傲慢さへ警告を発していたのです。同

書の中に次の一節があります。

 

 

 あらためて〈いま〉という時代はどんな時代なのでしょうか。いまぼくらは、

 学問の世界で19世紀以来近代科学が余すところなく解明しつくしたような、

 そういうつもりでいるなかに、じつは、ほとんどわかっていないことが山ほど

 あるのだということに気づきはじめています。

 

 たとえば抗生物質の出現と衛生学の発達とによって感染症などは完全に制圧し

 終えたというふうに思いますが、必ずしもそうではないのではないか。世界に

 天然痘がなくなったということを世界保健機関は宣言したわけですが、本当に

 なくなったかわりに新種の、われわれの目に見えないウイルスや、これまでに

 なかった病原体というものが出現したのではないでしょうか。

 

 目に見えるものだけを信じてきたのが、これまでの私たちの科学であり、学問

 だったと思います。見えないけれども、私たちがそれを認めることができない

 だけではないのではないか、私たちの能力が限られているからではないか、と

 いう謙虚に考えたほうが自然なのではないか、と思います。

 

 考えてみると19世紀来、われわれはものすごく傲慢だった。その傲慢ななか

 でぼくたちは大きな過ちを犯しつづけてきたのではないでしょうか。ぼくた

 ちは自分たちが地球上のことを全部わかっているような気持ちになっていた。

 でも、本当にわかっていたことはごくわずかである。大宇宙の秘密のほんと

 に一部だけをちらっとかいま見ただけかもしれない。

 

 にもかかわらず、私たちが犯した過ちは、ほとんど大部分、99パーセント

 まで見えた、と思ってしまったところにあるのではないか。自分の命をひっ

 くるめて、この大きな世界のごくごく一部しか自分たちはとらえることがで

 きなかった。・・・
 

 いまはすさまじい時代です。それこそルネサンス以来の意識の大転換期にあ

 るような気がします。医学ひとつをとっても、心臓とか脳とかいうものの他

 に公衆衛生とか免疫とか、ありとあらゆるそういう世界が表面の檜舞台にあ

 がってきた。

 

 そして、ぼくらが見る新聞のなかでも、0-157とか、これまでなかった病原

 菌やウイルスの問題が、大きく報道されています。こういうふうな時代、ぼ

 くたちは、これまで軽く見てきたもの、故意に黙殺してきたもの、そういう

 ものをあらためてふり返ってみる必要がある。・・・・

 

 

 

「不尽片言」の「道と実践」に学ぶ

 

5月29日(金)呉服の日。

 

 

*宗教的な言葉というものは、それらの語られた時代には、如何にもハツラツ

 として躍動する生命の端的な表現だったわけです。

 

 ところが、時代がたつにつれて、次第に使い古され、その上さらに外皮が凝

 固して殻をかぶって固くなるわけです。

 

 随ってそのコトバがもっていた瑞みずしい味の分かる人が、ほとんど無くな

 りつつあります。そしてここに宗教には、時々根本的な革新の要望せられる

 最大の要因がありましょう。

 

 

*今日のような一種の乱世ともいうべき時代に、もし石田梅岩先生のような方、

 二宮尊徳のような方が生きておられたら——というような事は、不思議と意

 識にはのぼらないのですが、

 

 藤樹先生が今日生きておられたら——という念いは、つねにわたくしの意識

 の底から消えないのです。つまりそれほど藤樹先生は、わたくしのいのちの

 底深く生きていられるわけでしょう。

 

 

 *藤樹先生の思想は、哲学、宗教、教育が渾然として一体となったもので、

 その上にすばらしい生命力に満たされているのです。

 

 しかし、それにも関わらず、生命の逞しさが表面に露呈されていないのは、

 それだけ生命の「根」が深奥なためでしょう。

 

 

 

「不尽片言」の「道と実践」に学ぶ

 

5月28日(木)

 

 

*仏教界粛正の一方途としては、各宗の管長さん方が、墨染の衣に還ることで

 しょうね。そして配下の坊さんたちに向かって、「あんたがたはご自由だが、

 せめてこのわたしだけなりと、祖師方のご精神を体する一端にと墨染の衣を

 着ることにしましたよ」という人が、

 

 一宗に3、5人も出て、それが3代も続いたら、仏教界の改革なども案外た

 やすいんじゃないでしょうか。しかし、これも本読みの空論ですかね。

 

 

*仏教における布教の第一歩は、まず「鐘」をつくことから——と考えていま

 す。寺院は鐘を正しくちうくだけでも、最低限その存在意義はあろうと考え

 るわけです。 

 

 つまりあの鐘の音こそは広大無辺の説法であり、「鐘の音」によって諸行の

 無常なることを、下手な説教以上に分からすことができましょう。

 

 もう一つは、春秋の彼岸と土用と寒中とに托鉢して、それを社会事業に寄付

 するというこの二本建ての途で、仏教再興のあゆみも徐々ながら始まるんじ

 やないでしょうか。

 

 

*「幻の講話」の書名の「幻」とは、2つの意味を含めたつもりです。ひとつ

 は「隠者の幻」の有間香玄幽先生の「幻の道統」をつぐ人の講話という意味

 と、もう一つは、聖徳太子の「世間虚仮唯仏是真」(世間は虚空にして、ただ

 仏のみこれ真)の精神であって、

 

 「この夢幻の世界に生きながら、精イッパイおのがじし真実を尽くして生き

 るべきだ」という意味を、具体的実践的に説いたつもりです。

 

 

「不尽片言」の「道と実践」に学ぶ

 

5月27日(水)百人一首の日。

 

 

*まっとうな人間とか、おだやかな人とか、こうした純粋なやまと言葉を、教

 育上生徒にもタネ蒔きしておく必要がありましょう。コトバというものは、

 ホンヤク語を主とすると、

 

 とかくキレイごとに了り、コトバだけで満足して、とかく実践までは行かな

 いもののようです。ですから実践のためには、もっと泥くさいコトバも大事 

 にしないといけないと思いますね。

 

 

*お互い人間は、この肉体をもっている限り「我」の根の切れる時は、厳密に

 は無いといえましょう。それ故「我を捨てよ!」とか「無我になれ!」など

 と言うよりも、

 

 むしろ相手の気持ちになり、相手の立場を察するように——―という方が、具

 体的で分かりやすく、これなら心がけ次第で、だれでもある程度は出来まし

 ょう。

 

*「正法眼蔵」に参じるには、あの古今の名文ともいうべき文章を、朗々と声

 を出して読みに読んで、読み抜くがよいと思います。実際道元の「正法眼蔵」

 は、日本文学史上、

 

 散文としては「源氏物語」及び芭蕉の文集と並んで、三大名文というべきで

 しょうが、従来の国文学史家は、それが宗教的典籍だからというために、「源

 氏」や芭蕉と並ぶものだとは、気づかぬ人が少なくないらしいです。

 

 とにかくいたずらな語句の詮索などはやめて、朗々と朗誦し、できたらその

 一部を暗誦するがよいでしょう。

 

 

 

「不尽片言」の「道と実践」に学ぶ

 

 

5月26日(火)

 

*もし「論語」を暗誦するとしたら、まず学而篇の暗誦をさせるべきでしょう。

 しかし、それから先をどうするかは問題で、わたくしにも名案はないですね。

 結局暗誦させる人が、自分の見識で選ぶ外ないと思います。

 

 これに反して「歎異抄」では、最初の10ヵ条を暗誦したらと思いますね。非

 常によくまとまっている点からしても、日本における最高の宗教的古典の一

 つといってよいでしょう。

 

 

*歌や俳句をやることは、リズム感を磨く上で、最もよい方法だと思います。

 リズムとは結局、生命のうねりなのです。ですからリズム感を磨くというこ 

 とは、生命の真に触れるという意味で、人間的教養の一助として非常に大切

 だと思います。

 

 

*歌をつくるには、最初は立派な歌集をよく詠むことです。特にその中から自

 分の最も好きな歌を5首か8首選んで、暇さえあれば、毎日朗々と声を出し

 て暗誦するんです。

 

 そうしていると、そのうちに自分もちょっと作ってみたくなります。そうし

 て出来上がったものを、その道の先達の方に直して頂くわけで、それが短歌

 上達の最短距離のようです。

 

 

*度の過ぎた謙遜は一種の卑下慢といえましょう。寸毫もイヤ味の伴わない真

 の謙遜は、結局その人がつねに道と取り組み、真理を相手に真実に生きてい

 る処から、おのずと身についたものになるわけで、その時たとえ目下の人に

 対すればとて、傲慢な態度などになろうはずがないわけです。

 

 

 

「不尽片言」の「道と実践」に学ぶ

 

5月25日(月)

 

 

*総合雑誌というものは、ジャーナリズムで衣食している人々には勿論不可欠

 でしょうが、現実界でそれぞれ忙しい責任ある地位にある人々には、ああし

 た膨大なものを読んでいる暇のある人は少ないでしょう。

 

 そこで普通の人々には総合雑誌を読むよりも、自分の見識で専門雑誌や新聞

 を活読する方がよいともいえます。

 

*もっとも新聞を活読するという事自体、実は大変な仕事ですが―――。それ

 というのも新聞というものは、情報の断片的な羅列に過ぎず、随ってそれら

 を全体的立場から、動的綜合を試みるのでなければ、

 

 新聞を「活読」したとは言えないからです。なお現在一番憂慮すべきことは、

 日本の大新聞が、いまだにその偏向が充分改まっていないことです。

 

*「40にして惑わず」とは、これを裏返せば、40になって初めて迷って

 いる自分が分かり出した―――ということだといえましょう。

 

 「50にして天命を知る」とは、自己に与えられている現実の諸条件に対し

 て不満に思わず、一応それらのすべてを受容しうるような態度になれた――

 ということでしょうか。

 

 すなわち迷いから一応悟りに達したともいえましょう。しかし「知」という

 文字には、まだ問題があるといえましょうね。

 

 「60にして耳従う」とは、それぞれの人がそれぞれの立場で、ものを言っ

 ていることが分かり、人の言うことに対して、軽々しく反撥せずに聞けるよ

 うになったということでしょうか。つまり60にしてようやく「真理の肉体

 化」が始まったということでしょう。

 

 

 

新しいパラダイムで問われてきたこと

 

5月23日(土)

 

私たちはかつて経験したことのない厳しい生活、経営環境を強いられています。

コロナウイルスは結果として、パラダイムシフト(今までの社会規範、価値観が

劇的に変化する)を引き起こしたのです。

 

働き方をはじめ日々の生活はもとより、専門店、流通業も今までの考え方、やり

方ではもはや新しい環境へ適応することはできません。「緊急事態宣言」が解除

されても、「3密」(密接、密集、密閉)への警戒を余儀なくされるからです。

 

新しいパラダイムへの対応として、「分かち合い、助け合い」による「地球社会」

(5月1日)に続き、5月9日に「地球に優しい価値」をつくる例として、国連

が2015年に採択した2030年への目標であるSDGs(持続可能な開発目標)

の17の目標を紹介しました。

 

この目標はわが国でも強い関心を呼び、共感・共有を基本にしつつ、さらに個性

化をはかるため、先見性に富んだ企業は独自の価値観として18番目の目標を掲げ

ています。たとえば、ファーストリティリングは「ライフウエア」、花王の「キ

レイライフスタイル」などです。

 

その特徴とするところは、社会的価値を高めながらいかに経済的価値を高めてい

くかについて、かなり「長期的視点」で捉えていることです。そのために欠かせ

ないのが新しい社会が要求する「デジタルシフト」です。

 

17目標が目指すサスナビリティー(持続可能性)のため、デジタル技術の開発

による変革なくしてコロナ危機後の新しいパラダイムへの適応は不可能です。そ

こで改めて問われてきたのが、企業経営の永遠の課題である「存在理由」、わが

社、わが店は何のために存在するのか、という根本テーマです。

 

ちなみに名和高司氏(一橋大学客員教授)は日本企業が混迷から抜け出し、21

世紀型の成長に必要な条件として、現行のSDGsから「サスナビリティ×デジタ

ル×グローバルズ」を「資本主義から志本主義」(新SDGs)と命名しています。

(日経新聞)

 

 

「不尽片言」の「道と実践」に学ぶ

 

5月22日(金)

 

 

*「自伝は人生の卒業論文である」とは、同志端山護君の名言ですが、全く同

 感至極で、最近これほど感銘したコトバは無いといってよいほどです。これ

 までも度々申してきたように、「自伝」は著者にとっては一種の報恩録とい

 ってよいでしょう。

 

*「一人雑誌」の意義とその功徳については、大別して次の2つの面があるよ

 です。

 

 第一はその人自身の主体性を確立する点で資するところが甚大。

 第二は同志相互間の生命の呼応のために大いに役立ちます。即ちその「相応

 照応」、「相互返照」に資するところが絶大といえましょう。

 

*男の生き方には、どこか「自己に賭ける」という趣がなければならぬ。すな

 わちこのナマ身の自分というものを、生涯を通して何物かに向けて賭けると

 いうわけです。

 

 では女も賭けねばならぬか―――ということになりますが、女は賭けない代

 わりに隠忍して貫き通すということでしょう。尤もそれは夫の選択に自己の

 生涯を賭けた結果ともいえましょうが――。

 

 

*30代の10年は、人間の生涯において最も大切な時期であって、事業でも学

 問でもはたまた芸道にしても、この期間に、一生の基盤づくりは、あら方で

 きるといえましょう。

 

 随ってそれまでの彷徨は必ずしも無意義とはいえないが、しかし30代の後

 半に入ったら、何時までも多きを貪って彷徨を続けていないで、ぼつぼつ自

 己の基礎形成と取り組まねばならぬでしょう。

 

 

 

「不尽片言」の「道と実践」に学ぶ

 

5月21(木)

 

 

*絶対必然即絶対最善とは、人間がわが身に振りかかって、どうにも逃れよう

 のない出来事の一切も神の眼からは、それらの一切はこのわたくしにとって

 絶対最善なる故に下し給うたものゆえ、

 

 回避しようなどとは思わないで、それらのすべてをお受けしなければならぬと

 いうわけです。

 

 

*われわれ人間は、この肉の体をもっている限り、「業」の根切りということは、

 真に容易な事ではありません。しかしそうは言っても「奉仕」の実践により、

 次第に業根が細っていく事はたしかなようです。

 

 もっともその奉仕の仕方なり内容なりは時代によって異なり、結局は、一人

 一型式という他ないわけでしょう。

 

 

*亡き人の霊を弔う最上の道は、故人の死をして無意義たらしめないことにあ

 る。そしてその途の一つは、故人の追悼禄を編さんすることで、その二つは

 故人に代わって、同じような運命の下にある人々のために尽すことです。

 

*お互い人間は、

 

 (1)自己の職業に対する奉仕として、実践記録を残すこと

 (2)この世への報謝のために「自伝」を書くこと

 (3)その上になお余生を応分の社会的奉仕に生きること

 

  以上人とし3つの最低基本線だけは、お互いやりたいものですね。

 

 

 

 

「不尽片言」の「道と実践」に学ぶ

 

5月20(水)小満。

 

*「生きざま」というコトバは下品な上にドギツイので、これまでわたくしは

 使わないようにしてきました。それというのも、この「生きざま」というコ

 トバは、元来「死にざま」というコトバのウラ返しというか、それとの連想

 で使われ出したらしくて、下品な感じを受ける当然でしょう。

 

 しかしそれが流行するのは、この程度にドギツクないと、人々の心に響かな

 いほどの世相になっているんですね。

 

 

*真の学問は、自分の生得の気質を改めるところまで行かねばならぬとは、中

 国の宋代の哲人のコトバですが、30代の後半のころに初めてこの事を知っ

 た際に受けた衝撃は、爾来50年に近い今日でも忘れかねているのです。

 

 ところで自分の気質を改めるということは、実に難中の最至難事であって、

 文字通り生涯をかけての一大事業でしょう。

 

 

*われわれの命というものは、祖先以来無量の生命の重畳であり、その結晶と

 いってよいでしょう。それゆえ過去からの無量な「業」の集積を離れて、現

 在のこの私というものの存在は無いわけです。

 

 同時にそこからして我われは、自己の中に集積しているこの「業」の借金を、

 少しなりとも果すべき義務があるわけです。

 

 

*いやしくもわが身上に起こる一切の事象は、そのすべてが、このわたくしに

 とっては絶対必然であると共に、また実に絶対最善であって、この根本の一

 点が解って初めてわたくしは「恩の形而上学」(哲学書)を書くことができた

 のでした。