講演「親としての三つの責任(2)

 

8月18日(火)

 

甘いものを食べ過ぎないように

 

戦後、ことに最近ここ四、五年ですが、ひどくなって、お医者さんもびっくりしていられるようです。骨が“もろい”ということは、カルシウムが砂糖によって体の外に引き出され、誘い出される結果です。同じような意味で歯が大へん悪くなっているということは、ご存じでしょう。歯が悪くなるということは、体の骨格の土台がもろくなっているわけです。

 

もっと根本的にいうと、問題になってきた血液の酸性化ですが、やはり砂糖――特に白砂糖の害によると言われています。それが脳溢血の原因になったり、総合的な文明病といわれるガンなどの、一つの有力な原因でしょう。

 

このように子どもさんたちには砂糖が健康上非常に悪いわけですが、では一体どうしたらよいか、皆さん方もお子さんのためにしっかり考えていただきたいと思います。さし当たってすぐ実行していただきたいことは、空き腹に食べると、同じ饅頭一つでも食後に食べた三倍以上糖分が体内に吸収されるということです。

 

一口で言うと、「空き腹に甘いものを食べさせないように」ということで、これだけは気をつけていただきたいのです。ところが子どもは空き腹に甘いものを欲しがるのです。子どもは食べ盛りですから、特に外で遊んできた夕食が遅くなったというと、承知しない。

 

その時どうしたらよいかというと、小さいおもちゃのような“おにぎり”を五つくらい作って与えるのです。出来れば子ども好きな何かをちょっと中へ入れてやると喜びますね。たとえば昆布の佃煮などはいいですね。昆布はアルカリ性ですから砂糖の酸性化を消します。またカツオ節でもいいです。

 

とにかく食事目に“おやつ”をねだったら必ず“おにぎり”と決めておくんです。例外をつくったら駄目です。ことわざに「蟻の穴から堤が崩れる」というように例外をつくると崩れてしまいます。子どもたちを一旦決心したら必ずやり抜く人間にするためには、親でも先生でも、「これだけは必ずやりぬく」というものを少なくとも一つか、二つは持っていないと、子どもしつけは出来ないのです。

 

第一が健康、次は勉強、最後が“しつけ”

 

8月17日(月)

 

昭和45年11月10日

松原市立松原南小学校

 

甘いものを食べ過ぎない

 

現在の私は「いつ死んでもよい」という誠にありがたい気楽な身分です。そこで大学のかたわら広く全国を回って、多くの学校を見ていますが、そういう目で見てもこの学校は一流の学校です。少なくとも大阪府下では、一流の学校の中に入っていると見てよいでしょう。

 

ですから父兄の皆さん方にとっては、大変お幸せなわけです。というのも、小、中学校では「あそこは良い学校だからそこに入れる」というわけには参らないからです。つまり「越境入学」はできませんから、よい学校へ入れるには、その学校の校区に住所を移さねばならぬわけです。そこで、皆さんは大変幸せだと申すわけです。

 

さて、今日の話は大きく別ければ三つになります。第一が健康、次は勉強、最後が“しつけ”です。躾というのは子どもたちを人間としての軌道に乗せるということです。人間も生まれたままでは駄目なんで、シャンと軌道に乗せなくてはならない。ところが子どもの躾は、学校よりも家庭の方がはるかに大事なんです。

 

しかし実際問題としては、なかなか巧くはいかない。それは学校は集団の“しつけ”ですから、学校さえその気になれば、子どもたちもそのつもりになって、我がままが出せないが、家庭では親も子も我がままが出やすいために、家での“しつけ”の方がはるかに難しいわけです。

 

そこで家庭での“しつけ”は最後として、まず健康から申しましょう。健康問題については、医者ではありませんから一々申す資格はありませんが、一つ、二つ気をつけていただきたいと思う事柄について申します。

 

現在、日本の子どもは甘いものを食べ過ぎて骨が実にもろくなっていて、ちょっとしたことですぐ骨が折れるんです。以前は器械体操か何かやって、よほど運の悪いときでないと骨が折れるということはなかったものです。

「佐藤優の古典攻略法」⑤

 

8月15日(土)

 

古典をきちんと読み込んでいれば

「自粛警察」などには絶対にならない

 

新型コロナウイルスの世界的感染拡大という事態に直面し、私たちはいったん立ち止まらざるをえなくなった。まさに今、人類は大きな分節点に立っていると言えるだろう。そしてこの状況下で課題は比較的容易に可視化した。まずグローバリゼーションに歯止めがかかった。そして各国の国家機能は強化されつつある。

 

最初の課題はナショナリズムに起因する国家間競争を阻止するということだ。二つ目の課題は四重に広がっている格差問題の解決である。四重に広がっている格差とは、国家間の格差、国内における階級格差、地域間格差、ジェンダー格差。

 

国家間の格差については平和の維持がまず課題になるし、国内3つの格差については国か再分配政策をすることで解消するしかない。つまり戦争を阻止するということと、格差を是正するということ。政治と社会の課題は新型コロナバンデミックによって明確になったと私は考えている。

 

そうした時代に私たち個人は古典から何を学び、いかに生きていくべきなのか。たとえば特別定額給付金などの使い方。丸ごと貯金するのではなく1万円はフードバンクに寄付する、子ども食堂に寄付するなど、手元に3つのパンがあったら2つは別の誰かと分かち合うーー。そういった行動を個人が取ることで再分配が可能になる。そうした意識を個々人が持てるかどうかである。

 

「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」では、人が誰かのためにパンを分ち合うことなど不可能だと主張するが、そんなはずはない。経済学者の河上肇は後年、マルクス主義者になっていくのだが、そうなる前に著した「貧乏物語」において富裕層は宴会などで浪費せずに貧困層に金を回せと説いた。

 

非科学的だの温情主義だのと批判されたが、私はのちの彼の共産主義を目指す思想よりもシンパシーを感じる。なぜなら、資本主義というのはそれほど短期間には崩れることは考えにくいからだ。そうであれば今、一人ひとりが抱いている仕事をどう回すか、どう分配していくかといったように、できることからやっていくことが重要ではないだろうか。

 

政権を批判する人々が政権に対してある種の「忌避反応」を起こしているのは、危機的状況のなかにあっても、明確な指針を示すことができずにうろたえている政権の姿に、鏡写しになった自分の姿を見てしまっているからだと私は考える。国家の指導者というものは、民主主義制度の下では国民の平均的水準から著しく乖離することはありえないのだから。

 

人それぞれの「正しさ」がある

 

古典の論理を内在化できていれば、他人の生き方に過剰に介入するような恥ずかしい真似は本来できないはずだ。自分にとっての「正しさ」があるように、他人には別の「正しさ」がある。正しいものが複数並存していることを理解していれば、自粛警察のような行為はできるはずがない。

 

ミルが「自由論」の中で述べている「愚行権」。これは自由に対する考え方であり、人には他人に迷惑をかけない限り愚かなことをする権利があるというものだ。「愚行権」と言うと聞こえが悪いため、日本国憲法では「幸福追求権」としている。

 

他者危害排除の原則、つまり他者に危害を与えない限りは、愚かなことをする権利をお互いに認め合わなければいけない。たとえ猫1匹飼うと、病院代を含めて一生で150万円から200万円のお金がかかる。たとえ病院に連れていかず、トイレの砂も買わず新聞紙などで代用したとしても30万円程度はかかるはずだ。

 

とはいえ、そんな愚かなことに金を使わずその分を寄付しろ、などと言うのは余計なお世話なのである。他者の愚行後に寛容になり、自分の愚行権も堂々行使し、そのうえでパンを分け合えるような社会。古典を道標にそのような社会を目指さすことができれば、この上なく幸せなことではないだろうか。(了)

 

 

 

 

講演「人間の生き方について」(12)

 

8月14日(金)

 

一瞬一瞬、一点一点に集中してゆく

 

甘い自分を真向かうから断ち切り、一刀両断にしていくのです。そして自分の“ゆがみ”を切ってゆくのです。宗教論とかいうものを読んでいると、これらのことがスウスウと溶けていくのです。夫婦の間でも言ってはいかんことがある。男女共通して言ってはいかんことは、相手方の親戚に関することです。

 

これは一切言ってはいかんのです。それから女の人は、夫の能力のないとか、収入の少ないのは能なしだからというような不平を一切言わないことです。たとえて言うなら、私の同級生のご主人は今度ボーナスでいくら貰ったなどということを、夫に言うものではない。

 

夫には一番こたえることでしょう。ボーナスのようなことが、人間的価値と比例するものではないのです。おわかりですか。人間のこの世はいろいろの因縁によって、どんなに立派な人でも金銭的に正比例して報われるなんて、そんなおめでたい理想の社会ではないのです。

 

立派な人でも、金銭的には実に気の毒な人はいくらでもいるでしょう。それが分からないで、収入の少ないのは能なしだからというものではありません。しかも、その上に子どもまで生まれて、それを育てていくのですから、泣くにも泣けない嫌なことでしょう。このような教育が十二年も高校まで行ってなされておらんのです。人間の一番大事なことについて止どめをさしておらんのです。

 

次に男の方は、女房の容貌のことを一切言ってはいかんのです。お前のそばかすがもう少し少ないといいとか、顔がどうの、背がどうなどとは絶対に言ってはいかんのです。何となれば、容貌は女の命だからです。夫婦の間でも水をさしていくことになる。直接言っていかんばかりか、間接にも言ってはいかんのです。

 

雑誌の女優の写真などを見て、あまり褒めるものではない。いわんや、女房のアルバムなどを見て、女房の同級生などを「キレイだ」などと言ってはならないのです。そのことがいかに女房の心を傷つけるか分からんようでは、全く甘いという他ありません。

 

また、上役と衝突して憤慨したりするような人間は大器ではない。スケールの小さな人間です。上役のあげ足を取ったり、悪口を言ったりするそんな程度では、大成できないのです。上役とぶつかったり、衝突して睨まれるようなバカなことをしてはいけないのです。

 

そんなことをすれば、芽をつまれてしまったり、左遷されたりしてバカを見るのです。本当の大器というものは、そんなことはせんのです。これは月給取りの大事な心得の一つである。要するに年々歳々、一瞬一瞬、一点一点に集中してゆくことが本当の生き方というものです。(了)

 

 

 

 

講演「人間の生き方について」(11)

 

8月13日(木)月遅れ盆迎え火。

 

自分の口から漏れたものは必ず伝わる

 

先が見えるということは二つあります。その一つは国家社会の見通しということです。しかし、これはいかに知恵があっても、ある程度以上の見通しはつけにくいものです。今度の石油危機もその一つですね。国家社会の見通しというものは、どんな知恵者でも不可能といってよいのです。

 

だからといって考えなくてよいとは言わないですよ。政治家の責任です。学者もそうです。もう一つは個人の見通しです。個人の前途は、内容的には分からないとしても、型としては見当がつくのです。今から六十年たてば、今ここにおる人は、大方この世の人ではないでしょう。
 

七十年後には、ほとんどの人が死ぬわけです。個人の前途は、年令という物指しで測ってみると、大体の見通しがきくのです。男の人なら二十七歳前後で結婚し、女の人だったら二十三、四歳で結婚しますね。結婚すれば、二、三年で子どもが生まれて人の親となり、その子どもも六年たてば小学校に行くようになる。

 

このように先の事を順々に考えてゆくと、その時に備えて、どのような石を打ってゆくかということがわかります。これが重要な知恵というものなのです。スポーツ新聞や週刊誌の問題も、この見通しの問題から論究しているのです。

 

知恵とは見通しということであり、人の心の察しがきくとい修練を常にしておくということであります。人の心の察しというものは、自分の上役、先輩、そして同僚、後輩の心の察しがきくということであります。自分の口から漏れたものは、必ず伝わると思わなければなりません。

 

「君にだけ言うのだから、誰にも言ってくれるな」などというのは馬鹿の骨頂である。自分がそれを黙っていないのに、なぜ相手が黙っているのですか。おわかりですか。絶対人に伝わってはいけないことは、どんなに親しい人でも絶対に言ってはいけない。こういうことが男のしまり、人間のしまりというものです。こういうしまりが自分の甘さを鍛えてゆくのです。

講演「人間の生き方について」(10)

 

8月12日(水)

 

上に立つには理論的根拠が必要

 

しかし、それだけでは本当に人の上に立つわけにはいかんのです。何故かというと、人の上に立とうとすれば、専門の書物を読んで理論的根拠になっているものをしっかり把握しておかねばならないからです。部下を持たないうちは真面目な実践だけでよいが、多少でも部下を持ちだしたら、理論的根拠が必要です。

 

理論的に説明できなければ、部下を納得させることはできない。信用を得ることも出来ない。実践の真面目さだけでは、人の上に立つことは出来ないのです。部下の質問に対して明確な答えができなければならないのです。そのために理論的根拠を持たなければならない。

 

理論的根拠を知るためには、雑誌だけでは足らんのです。だから、まとまったしっかりした専門書を読まなければならないのです。また、仕事のうえで常に創造力を働かせ、育てていくことが大事なので、そういう仕事の改善へ創造力を養わなければならないのです。

 

そこでセールスについてですが、買いそうに見えて買わない人間、買わないように見えて買う人間、そのようなことを一目で見抜くことが大切なのです。口先で何と言おうと、腹の中はどうかを見抜くのです。その為には人相学の研究も必要です。

 

大体人間の顔には、四角や、円いのやらいろいろありますが、人相学も仕事の上で非常にプラスになるのです。そのような修練も必要です。普通の人相学の本で、セールスについて研究した本はないけれど、研究してほしいものです。

 

買いそうで買わない、買わないようで買う。そういう人間の見当がつくのがベテランというものです。それでないと人の上に立つわけにはゆかないのです。そのためには、そういう洞察力だけではまだダメです。相手の気を読む、それが私のいう知恵で、知恵は見通しがきくことです。

 

知恵があるかどうかということは、その人の見通しがどこまで効くかということです。見通しがきくということは、相手の気持ちの察しがつくということです。これが知恵の一番の土台となる。そのような修練をしなければならないのです。

講演「人間の生き方について」(9)

 

8月11日(火)山の日。徳島阿波おどり〜15日。

 

スポーツ新聞は読まない

 

もう一つ、読み物のついでに、スポーツ新聞は原則として読まないということ話しておきましょう。なぜ読まないかと言うと、スポーツ紙がいかんというのではない。スポーツの選手が命がけでやっている姿を実際に見るならまだしも、またテレビで見るなら実感もわくが、文字を通してその結果について興味を持つようでは邪道です。

 

テレビで見るなら、そんな馬鹿らしいことに時間をつぶすなんて、野暮なことは言わんけれども、スポーツ新聞というのは文字じゃないですか。これほど頭の浪費はない。創造をたくましくしていても、翌日になれば無用になるのです。

 

頭の中をそのような紙くずでつめてしまうのです。スポーツ新聞ばかり読んでいると、まともな新聞が読めんようになる。しかし、スポーツ新聞は増えるばかりですね。はじめは三〜四種類しかなかったものが、最近は何種類あるかわからない。このこと一つ考えても、日本人がいかに堕落しているかがよくわかるのです。

 

そこで、最近は普通の記事をちょっぴり入れはじめてきた。何故かというと、普通の新聞を読まない人が増えているからです。そこで、出来るだけ普通の新聞で比較的スポーツ記事を重視している新聞を読むようにしてください。

 

それから自分の職業専門の雑誌を毎月一冊以上読まなければいけない。それを一冊も読んでおらんようでは、もう落伍者のはじまりです。ここには農業関係の方はいないでしょうが、農業関係の雑誌でも何十種類もあるでしょう。理髪関係でも四種類あります。その中には非常に程度の高いものもあります。組合費をとって強制的に配本しているからです。

 

自分の職業に関した雑誌は、特に大をなさんとするなら、二種類は読まなければいけません。何故かというと、物は比較せんと分からないからです。仕事で生活を支えている以上、これは義務といってよいでしょう。本当は義務というより自己防衛策です。自分の属している業界の方向がどの方向に向かっているかが分からずにいるようでは、うかつさこの上ないと思います。

 

講演「人間の生き方について」(8)

 

8月10日(月)

 

「週刊誌」は原則として買わない!

 

心を引き締めるために、タダのようなものを極力節約するのです。この問題をよく考えてみてください。私は今まで消費が美徳などということは、いっぺんも言ったことはありません。それは資本家やマスコミに踊らされているのだと思っていますからね。

 

そんなことはジャーナリズムが資本家の手先になって、騒いでいるに過ぎません。ジャーナリズムというものは、なかんずく週刊誌はもちろん、一部の新聞もそのようですが、ノーマルなことを言っていたのでは売れない。だから突拍子もないことを言うのです。

 

ジャーナリズムのからくりというものをよく知っておかねばいかんのです。例えて言うなら、女性上位とか、消費は美徳なりとか、突拍子もないことを書いたり、言ったりして、自分の首がつながっていくことを考える。売れなければ返品されてくる。だから読者の心を惹きつけることを日夜考える。

 

新聞に書いてあることが真理であるとか、人間の守るべき標準であると考えている人はいないと思いますが、よく心得ねばならないことであります。週刊誌の広告を見て、突拍子もないことが書いてあれば買わないまでも、読んでみたいと思うでしょう。

 

そこにつけ込んで、これでもかこれでもかと、突拍子もないことを書いているのです。それがジャーナリズムのからくりというものであって、それが現代のモラルなどと考えたら、とんでもない間違いであります。これは特に女性がよく心得ておかねばならぬことです。

 

同じつまずきでも、あるいは脱線でも、男性と比較して女性の傷は深いのです。これも一つの常識です。このようなことは学生生活で一度も聞かされずにきているのです。本当の教育というものは急所急所に打ち込まなければならないものです。

 

読み物については、週刊誌は原則として、自分の仕事に関してどうしても目を通しておかねればならないもの以外は、絶対に買わないということです。そんな大事な記事は、一年に二、三度あるかないかです。

 

「佐藤優の古典攻略法」④

 

8月8日(土)

 

本の「命題は何か」を常に意識して読めば

結論へと至るプロセスが明確に理解できる

 

優れた古典は、問いが立てられ、その答えが何であるか、という Q&A方式で構成されている場合が多い。ここでの問いは何か、という地点に立ち返りながら読んでいけば、どういう道筋を経て本の命題に対する結論に至っているのかが見えてくる。

 

その道筋には社会的な背景や書き手の偏見なども入ってくるが、常に問いや命題に還元していくことで、それらも明確に浮き彫りになってくる。たとえば「ヨーロッパに幽霊が出るーー共産主義という幽霊である」という有名な書き出しで始まる「共産党宣言」は、「共産主義とは何か」という命題が立てられている。

 

その結論へ至るプロセスとして、階級闘争の歴史があり、さまざまな社会主義政党の特徴があり、そして経済発展の法則がある。結論としてプロレタリアートには鉄の鎖(労働者を資本に縛りつけているものの象徴)以外に失うものは何もないのだから暴力によって既存の体制を転覆させていく、そのために「全世界のプロレタリアート、団結せよ」というアジテーションに至る。

 

そのプロセスで、たとえばマルクスの主張は急進的な反ファシズム(アンティファ)運動を展開するアナキストと何が違うのか、ということも見えてくる。つまり、究極的な目標として国家のない世界という点でマルクスとアナキストは同じであるが、そこに至るには生産力をある程度上げていかなければならないため、過渡期において国家は必要だという事がマルクスの考えであるということが見えてくる。

 

あるいは「太平記」であれば、後醍醐天皇はよかれと思って改革を始めたはずが混乱の世になってしまったのはなぜなのか、という大きな問いが立てられている。それに対し、どうも事実上の第二夫人の言うことばかり聞いていたためではないかなど、命題への答えが一つひとつ出てくる。

 

命題に還元しながら読んでいければプロセスがよく見えてくるはずだ。しかし、稀に命題の存在しない本も存在する。芸能人の名前で売る本や、あるいはヘイト本などである。これらの本はそもそも命題を立てる意識がないため、読むに値しない本といえる。

 

優れた古典には人生が「分節化」する場面がある

 

また、優れた古典には人を立ち止まらせる力がある。本当はこんな可能性があったかもしれない、こういう道を選ぶべきだったのではないか、あるいは逆に、こんな道を選ばなくてよかったかもしれない、と考えるきっかけになる印象的な場面である。

 

たとえば、元連合赤軍・坂口弘氏の「あさま山荘1972」には、彼らが最初に同志を殺害し印旛沼に埋めてしまった時の記述が極めて印書的に書かれている。坂口氏は実行犯4人が同志殺害後にアジトに戻ってきた時、部屋中に異様な臭いが充満していたと記述している。

 

いわゆる死臭だ。坂口氏は彼らを喫茶店に連れていき、これは大変な間違いだったと謝ろうとした。しかし、言葉が出てこなかった。ここが連合赤軍事件のひとつの分節点だったのだ。立ち止まるべき一瞬を逃してしまうことの取り返しのつかなさを、私たちは坂口氏のこの記述から学ぶことができる。

 

立ち止まるということは自分の人生のさまざまな可能性について、反省するということでもある。ここで別の選択をしていれば違う人生があったのではないか、と考えをめぐらせることは人生において重要だ。

 

優れた古典には、ある人間の人生の分節化する場面がある。そこで立ち止まることによって、自らの人生の想像力をぜひ磨いてほしい。(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

講演「人間の生き方について」(7)

 

8月7日(金)立秋。

 

人から言われて気づくようでは!

 

実は一番はじめに申したいと思っていたことは、「人生二度なし」ということです。これが私の人生観の根本信念です。こうしたことは、分かりきったことだと言う人が多いと思いますが、私は三十三歳の年に初めてこのことが分かったのです。

 

何とまあ間の抜けた奴だと思われるかも知れません。小学校の時代から分かっていたという人があるかも知れませんが、なぜ私は三十三歳で分かったのか。これは先程いった通り、分かったと言うことは、人から言われてなる程と気づくようでは、本当に分かったのではないのです。

 

ご馳走を見せてもらっただけで、食べないのと同じことです。人生は二度とないことが分かったということは、それが心の底に焼きついて離れんようになったことである。人から言われてなる程というようでは、鏡に自分の顔を映すようなもので、鏡を動かすか、自分が動けばすぐに消えてしまう。

 

欲しいものとか、いわんや初恋の人などというものは、いっぺん写ったら、それからずっと消えないものです。いつでもパァと思い出せます。「人生二度なし」が、そういうように何時でも何処でも出てくるのでないと、本当に分かったとは言えません。

 

私はどこへ行っても一番短い白墨から使うようにしている。どれが一番短いかを探して使うのです。ここはさすがに修養団です。短く使っていますね。今日もそのように短いのを探していると、修養団の中山先生が気を使って下さり、長いのを探しているのだと思って、新しいのを5本持ってきて下さったのです。

 

私は大学に二十三年おりましたが、この間新しいチョークを一本も使わずに授業が出来ました。人の残した白墨で授業ができたのです。禅僧は昔から水を節約しました。むろん井戸の水です。タダのものを極力節約する、これが修行です。坐禅の結論はここまで来なければならんのです。足のしびれを我慢しているようでは何にもならない。日常生活にそれが応用できなければならないのです。