「全一学ノート」に学ぶ

 

5月12日(水) 

 

本日の要点

 

  地上における男女の数がほぼ同一という事実は、いかなる人間的叡知をもっ

  しても解明できないことで、陰・陽が相即する大宇宙生命の動的平衡の働き

  以外にはないとしています。  

 

 

「この地上における男女の数が、ほぼ同一だという事実をとってみても、唯ただ

不可思議という他ないが、いわんや大戦後しばらくの間は、男児の出生率が女児

のそれと比べて遥かに多いとせられるが如きは、

 

いかなる人間的叡知をもってしても解きうる事象ではなく、全く陰・陽相即する

大宇宙生命の絶大なる動的平衡の大用(たいゆう)という他ないでだろう。」

 

 

「全一的世界」からの「自著自解」

 

  ここで述べられている事象については、この解説の中ですでに二度ほど言及

  したと思うが、本文としては多分初めてと言ってよいであろう。これまでの

  解説の中では、大宇宙の根底には、我われ人知を以ってしては、

 

  どうしてもその理を解し得ないものの作用らいている事への最も顕著な一例

  として挙げるに留まったが、ここでは極めて簡要ではあるが「全一学」の立

  場からの解明が試みられている点からして、注目すべき一断章とも言えるで

  あろう。

 

 

 

 

 

 

「全一学ノート」に学ぶ

 

5月11日(火) 岐阜長良川鵜飼開き。

 

本日の要点

 

 「一即一切」は「個は全体の中に、全体は個の中に」という華厳経の論理で、

「全一学」の根本は陰陽と「一即一切」の動的統一にあるとのことですが難解。 

「春夏秋冬」は春夏を「陽」とすれば、秋冬は「陰」としています。

 

 

「『陰・陽の理』については、『陽』をもって展開すれば、『陰』はいわゆる収蔵の

理であって、例えば春・夏を生命展開の期として陽の季節とすれば、秋・冬は陰の

季節というべきであろう。

 

かくしてそれは一年を単位としてのその一環を了し、翌年はまたそれが繰り返され

て窮まるところを知らぬわけである。」

 

 

「全一的世界」からの「自著自解」

 

  「全一学」の根本原理は「一即一切・一切一即」的形而上学における重々無尽

  の論理と、陰陽の理との動的統一の立場に立って、全宇宙間の万象の解明を念

  とする世界観学というべく、かくしてこの断章は、かかる立場から春夏秋冬の

  意義を大観したものといえるであろう。

 

  同時に春歌秋冬もかく解することによって、全自然界における四時の循環はも

  とより、さらにそれに即する人事の多くをも、我われ邦人としては了解しうる

  であろう。同時にそれは、所謂西欧哲学のよくする処ではないことは、改めて

  いうを要せぬであろう。

 

 

 

 

 

「全一学ノート」に学ぶ

 

5月10日(月) 

 

本日の要点

 

  人間における性愛は、深く宇宙の根源生命に根ざすものだということです。

  したがって陰陽の理は単に男女、雌雄の次元に留まるのではなくて、広大な

  る宇宙的生命によるものだとしています。

 

 

「かくして我われは、一方からは人間存在における性愛の理が、ふかく宇宙の根

源生命に根ざすことを知ると共に、またその故に、そこに見られる陰・陽の理は、

単なる雌・雄というような性愛の領域を超えて、この広大無辺なる大宇宙をつら

ぬき、到るところにその顕現が見られると言うべきであろう。」

 

「全一的世界」からの「自著自解」

 

  この断章まで来て、編者はもう一度根本原理へと立ち還っている。これ“い

  のち“の自覚内容の展開を意図する「全一学」――真の生きた哲学――の表

  現法の一特色といえるであろう。

 

  即ちそれは循環的手法ともいうべく、科学における順次的並列的な表現方法

  とは根本的に違うわけである。では何ゆえ生きた真の哲学では、循環的表現

  法になるかというに、“いのち”の自覚内容の表現は、

 

  仮にこれを図式に現せば円の他なく、随って循環的表現法とは、円環を横に

  連ねた螺旋的表現というべきだからである。そこで翻ってこの断章に対する

  時、わずかな文字のうちに、如上の理がほぼ間然するところなく表現せられ

  ているともいえよう。

 

 

 

 

 

今一度、石川洋先生の「自戒」から⑤

 

5月8日(土)

 

「つらいことが多いのは、感謝をしらないからだ」

「苦しいことが多いのは、自分に甘えがあるからだ」

「悲しいことが多いのは、自分のことしか分からないからだ」

「心配することが多いのは、今をけんめいに生きていないからだ」に続く五つ目

の自戒です。

 

「行きづまりが多いのは、自分が裸になれないからだ」

 

「私が一燈園に入って最初の研修で、山科の畑でお手伝いをさせてもらおうと思っ

て、だいぶん歩いてから、畑の中で草取りをしているおばあちゃんに出会いまし

た。

 

『おばあちゃん、草取りのお手伝いをさせてくれないですか』と、言ったら、『あ

ぁ、手伝ってくれてかまないけどな、あんた学生さんか』と、言ったですよ。

 

『いや、私は学生じゃないけど、学校を辞めて一燈園で修行をさせてもらってい

るんですよ』と、言ったら、『わしゃそんなむつかしい事を聞いとらん』

 

『じゃ、おばあちゃん何ですか?』

『あんた畑に入って手伝いたいのなら、その靴を脱ぎなさい』と仰ったですね。

 

私の聖書の言葉ですけれども、『靴を脱ぎなさい、ここは神の聖地なればなり』

裸になることでしょうね。私は今はこう解釈しています。『裸になれば、全て聖

地である』『靴を脱げば、全て聖地である』。

 

ですから行きづまるとは自分の行きづまりであり、行き悩むというのは、自分の

発想の行きづまりではないか。『行きづまったら何時でも裸になること』、それを

天香さんが教えて下さった路頭の道だと思っています。

 

私はダメになる自分のために、この五つ戒をもっています。ダメになる自分とは、

人間は本能のままに生きられない。自覚律というものを持たないといけない。自

分でありがとうと言うことと、もったいないと言うこと、そして自分だけで生き

ているんじゃない。

 

全ての人とどう生きるか、自律する、コントロールする生き方が大事なんじゃな

いか。それが出来ない人間はダメな生き方しか出来ないんじゃないかと思うんで

す。自分に対する厳しさ、不平や、不満や、自己中心が自分をダメにする。その

ため自分を戒めることが、人間として最も必要なことじゃないかと思っておりま

す。」

 

以上、石川洋先生の5つの自戒を紹介させていただきました。同先生から教えら

れるのは、私たちも自分を生き抜くためにそれぞれ「自戒」を持つべきではない

かということです。

 

 

 

 

 

 

「全一学ノート」に学ぶ

 

5月7日(金)

 

本日の要点

 

  陰陽の理によれば、娘の素質は多く父親から受け、息子は特に性格的素質を

  母親から受けるとされています。男三人兄弟の場合、母親の影響は長男が最

  も濃厚で、次男は父親似が多く、三男は半々です。

 

「陰陽の理は、さらに遺伝の通則としてもその微妙さを呈するのである。すなわ

ち娘の素質は多くはこれを父親より受け、これに反して息子は母親からその素質

を受ける場合が多いとせられるが、ここにもまた生命における陰・陽の相互交錯

と交互滲透(しんとう)の天理が伺えるわけである。」

 

「全一的世界」からの「自著自解」

 

  もしこれだけを切り離したら、それこそ万人周知ともいえる常識論であろう

  が、しかしそれの置かれている位相を考えれば、単なる常識論でないどころ

  か「全一学」の一部であることを再認識すべきであろう。

 

  ここに掲げられた遺伝の通則については、十人中に八人くらいまでは当ては

  まるといえよう。しかも息子が母親から受けるのは性格的素質であり、また

  父親から受けるものの発現しかけるのは、

 

  父親のエラさが分かりかける年頃であって、普通の人の場合にはほぼ42歳

  辺りから以降になると、徐々にその発芽が始まると言われている。また男三

  人兄弟の場合には、母親の影響は長男が最も濃厚に受け、

 

  次男にはやや父親似が多く、そして三男に至って両親からの影響はほぼ中和

  するといわれるが、娘の場合にも型としてはほぼ同様といえるかと思うが、

  内容的には息子の場合とは逆になるわけである。

 

 

 

「全一学ノート」に学ぶ

 

5月6日(木)

 

本日の要点

 

  陰陽の理により、男は陽性、女は陰性というのが本筋で、夫唱婦随は根本真

  理だということになります。したがって、男女の特徴を認めない「男女共学」

  は根本的な誤りだと批判しています。

 

「だがそれにも拘らず大観するとき、男は陽性、女は陰性をその本性とすること

は大局的には変わらず、この理に反するのは唯一部の特殊例外的な場合といって

よかろう。

 

随って夫唱婦随は創造主による男女の根本真理というべく、随って夫唱婦随は創

造主による男女の根本真理というべく、随って男女の教育においても、両者の差

異を認めぬ所謂「男女共学論」には、

 

その根本に問題があると言ってよく、かえって人間性の深奥処に触れ難いゆえん

を知らねばなるまい。」

 

「全一的世界」からの「自著自解」

 

  ここでは男女・夫婦の問題から「男女共学論」にまで及んでいるが、そのう

  ち根本的真理としては、男女は陰陽の理によって生じたものゆえ、それが男

  女の本性となっているという点である。・・・

 

  しかし一旦一家が転変激動の大事に出逢って男が戸惑うような場合には、時

  として妻の力強い助言と激励を要とし、その際意外に夫なる慧智の閃く場合

  もなしとしないであろう。・・・

 

  男女共学については・・・革命に近いほどの社会的変乱のない限り、根本的

  改革は徐々なる局新的改革を続ける他ないであろう。

 

 

「全一学ノート」に学ぶ

 

5月5日(水)こどもの日。端午の節句。立夏。

 

本日の要点

 

  夫婦関係にも陰陽の理が働き、普通には夫が陽で婦が陰となります。しかし

  男性の中にも陰的要素があり、女性の中にも陽的要素があります。陽中陰あ

  り、陰中陽を宿すということです。    

 

 

「夫婦関係に作用(はたら)くものは言うまでもなく陰・陽の理であって、この

場合夫を陽とし、婦を陰とするのが普通であるが、しかしまた陽中陰あり、陰中

陽をやどすの理は、もちろんこの場合にも当てはまると言ってよい。

 

随って男性の中にも陰的要素はあり、また女性の中にも陽的要素はあるわけで、

これら陰・陽の内外表裏の二重の照応に、夫婦関係の調和の微妙さはあると言え

るであろう。」

 

「全一的世界」からの「自著自解」

 

  ・・・男女、とくに夫婦生活の場合には、ここに述べられている理が微妙、

  否、霊妙ともいうべきほどに複雑な“いのち”のニュアンスによって、現実

  の夫婦生活というものは営まれていると言えよう。

 

  随って、哲学体系の中の一断章としてここでは、それらの実例にまで立ち入

  るの要はもちろんないが、ただ陰としての女性の中に秘められている陽性の

  発動すべき場合として、事業に失敗してしょげ切っている夫に対して妻が、

 

  「何です。男のくせに!!あなたともあろう人が!!この世は昔から“七転

  び八起き“と言われているんじゃありませんか!!!」と激励する時、それ

  はその妻が平素貞順だっただけに、ひとしおの力を持つといえるであろう。

 

 

 

全一学ノート」に学ぶ

 

5月4日(火)みどりの日。春の土用明け。

 

本日の要点

 

  男女の問題は古来「絶えることなき紛糾と錯雑混乱の悲劇を生む」としなが

  ら、一方で恋愛感情は、造物主が男女を結合させ子女の出生を意図する最大

  最深の「トリック」だとしています。

 

「随ってその互いに相牽くや、必ずしもつねに、結果に対する冷静な透察が伴う

とは言い得ないのであって、これ古来男女の問題は、この地上において絶えるこ

となき紛糾と錯雑混乱の悲劇を生むゆえんだといってよい。

 

かくしていわゆる恋愛感情と呼ばれるものは、根本的には結局、男女を結合させ

ることによって、そこに子女の出生を意図する造物主の創造的意志が、われわれ

人間に対して仕掛けた最大最深の「トリック」といってもよいであろう。同時に

その無限の深さこそ、古来「知者も学者も踏み迷う」と言われるゆえんである。」

 

「全一的世界」からの「自著自解」

 

  一言蛇足を加えるとすれば、恋愛をもって造物主が我々人間に対して加える

  一種のトリックだとした点については、時に異論があって、恋愛軽視という

  かどで苦情を言われる向きもあるが、・・・それはその人がまだ、この人生を

  真に深く透察していないが故と言いたいのである。

 

  即ちこの地上の人生というものは、真にこれを大観洞察したら、結局は、「神

  聖なる喜劇」以外の何物でもないというべきであろう。・・・けだしここに述

  べられている事柄は、それだけを切り離して見れば、確かに心ある人なら何人

  にも自明の事であって、その意味からは、これを常識論というに何の不可もな

  いといってよい。

 

  ・・・ただ問題は、この一片だけを切りとれば単なる常識論だとしても、それ

  が全体系の中に整合的に収まっているか否かこそが、問題といえるであろう。

 

全一学ノート」に学ぶ

 

5月3日(月)憲法記念日。博多どんたく〜4日。

 

「本ブログ」は一昨年から森信三先生の学問と実践の精髄を網羅する「不尽叢書」

(全5冊、寺田一清編緝)を紹介しています。「不尽叢書」の全5冊は下記のタイト

で、門下高弟の寺田先生が2年近くの歳月をかけて編輯した名著です。「不尽叢書」

の「不尽」は森信三先生の雅号です。

 

・第1集 「一日一語」(昭和52年8月初版)

・第2集 「生を教育に求めて」(昭和53年6月初版)

・第3集 「女人開眼抄」(昭和53年8月初版)

・第4集 「全一学ノート」(昭和54年3月初版)

・第5集 「不尽片言」(昭和53年6月初版)

 

寺田一清先生は本年3月31日、享年94歳でご逝去。森門下の高弟として生涯を

を通して「全一学」の普及に尽力されました。特筆すべきは、森先生が亡くなられ

てからの活動により精力を傾注されたことです。

 

全国各地で読書会」開設のお手伝い、著書刊行からご講演、「たねまき文庫」の刊

行、絵本による「偉人伝シリーズ」の発行、個人誌の序文など、枚挙にいとまが

ありません。

 

弊社(PR現代)の創業25年(1991年)の「政策発表会」では「日常平凡行」と

して「あすこそは」の実践を提案していただきました。あいさつ、スマイル(笑顔)、

腰骨を立てる、掃除(整理整頓)、ハガキの頭文字からなる「あすこそは」です。

 

以来弊社では「和道経営の会」「JMG」のメンバー店共々に実践してまいりました。

「あすこそは」は実践人の同友はもとより、「日本を美しくする会」「全国ハガキ人

の会」など数多くの人々へ浸透しています。

 

同先生からのハガキは平成30年3月27日が最後でした。在りし日の笑顔に励まさ

れた日々に感謝しつつ、心からご冥福をお祈りします。

 

さて、ブログは昨年から難解な森「全一学」(哲学)の真髄を集約する「全一学ノ

ート」を紹介している途上にあります。「全一学ノート」は「人間とは何か」「人は

いかに生きるべきか」についての根本を問う哲学であり、人生論です。

 

森信三先生は述べています。

 

「わたくしが生涯を通して求めてきたものは、実は『われら如何に生きるべきか』」

という人生の根本問題であって、それが哲学にもせよ、はたまた宗教にもせよ、こ

の『如何にいきるべきか』という人生の根本問題に対して無関係な学問は、まった

く無縁の存在だといってよいでしょう。」(不尽片言)

 

先月は「生命の創生」から「東西文化の違いと宗教」、「人間形成の三原則」、「“いの

ち”の呼応」など、「生命の展開」から「陰陽の世界観」、「“いのち”の生成継承」な

どを紹介しました。

 

「世の中の事はすべてが一長一短で、両方良いことはない」は生き方の最終的帰結

だとしています。したがって、「良いこともあれば、悲しいことも起こる」のが私た

ちの人生です。

 

今月は「生命の展開」から儒教の根本経典と言われる「易」の陰陽的世界を紹介し

ます。「易」は国や企業の栄枯盛衰から庶民の吉凶禍福に到るまで、わが国でも広く

滲透しているものです。

 

 

 

 

今一度、石川洋先生の「自戒」から④

 

5月1日(土)

 

「つらいことが多いのは、感謝をしらないからだ」

「苦しいことが多いのは、自分に甘えがあるからだ」

「悲しいことが多いのは、自分のことしか分からないからだ」

 

本日の「自戒」は四つ目です。

「心配することが多いのは、今をけんめいに生きていないからだ」

 

「心配ということと、心配りということは、ちょっと違うんだと思います。私たち

は心痛みをします。でも、『心配りは大事だけれども、心痛みをするな。私が死ん

でからいろいろな問題が起きるけれども心を痛めてはいけない』と天香さんが仰

いました。

 

『心配りは大事、心配して心を失ったり、心を痛めてはならない。みんなのため

に心を配りなさい』と、仰ってくださったんです。天香さんはよく、『今何をして

るか?』と、お尋ねなすった事があります。

 

安田青風という歌人がおられました。その方にもね、『あなたは何をしているので

すか?』、『詩をつくっています』と言うと思ったけれども言えない。詩だけじやな

いよなぁと思った。『今という時間は永遠の時間だ』と、仰ったですね。

 

私は天香さんのお言葉を、『心配することが多いのは、今をけんめいに生きていな

いからだ』と受けとりました。大事なことは人生いつでも今からだと思うこと。今

からだと思ったら、いつでも再出発、そして再出発に遅い早いはない。

 

でも人間、過去を引きずり、明日を心配し、今という時間をヘドロの溜まった水

にしているのではないですかねぇ。今を懸命に生きなければ、過去はお陰さまに

変わり、明日は明るい信じられる明日が生まれてくるんじゃないですかね。そう

思っております。」

 

何事であれ、今に集中していれば心配している余裕のないのが真実。大切なこと

は今を懸命に生きていくことでしょうか。ただ心配りは欠かせないでしょう。「人

生はこれから」は広瀬童心先生(実践人の家理事長)の合言葉です。

 

松下幸之助翁も出会った人には「今何をしていますか」と尋ねたとのことです。

そう言えば森信三先生も同じだったようです。