人生いかに生きるべきかの「修身教授録」を読む

 

11月16日(金)

 

第29講 対話について

 

 (大意)

 

 人間生活は話すことと、行うことの二つ以外にはありません。話すというの

 は相手が人間であり、これが「対話」です。対話の要点は相手に話させる、

 話を聞こうとする態度、聞き役に回ることです。

 

数人以上で話すのが「座談会」。この場合も「聞き役」に回る根本の心がけに変わりはありません。もう一つ大事なことは、一座のうち誰か一人が話をしていたら、他の人々はそれに耳を傾けることです。

 

もう一つは一人の人が話しかけたら、他の人は自分のそばにいる人を相手に、コソコソと話したりしないことです。この一事が守られるか否かによって、人々の教養というか、たしなみの程度が分かると思います。

 

さらに注意すべき二、三の点です。ます第一に、偶然に相手と一緒に口を切る場合には、まず先方に譲ることです。同時に、自分がこれまで話していた事柄が一度中断せられた場合は、もう自分の話は葬ってしまう外ないでしょう。

 

次に対話でも座談会でも、注意すべきことは自分の考えを述べる場合、なるべく断定的な言葉を慎むように心がけることです。特に年長の人とか、婦人などと話す場合は、「私はこう思いますが」「・・だと聞いていますが」というふうに、一種の緩衝地帯をもうけて話すようにします。

 

もう一つ関連した注意点として、相手が知らないらしいと思われる事柄について話す場合は、「ご存知のように・・・」という前置きをして話すことです。

 

人生いかに生きるべきかの「修身教授録」を読む

 

11月15日(木)七五三、きものの日。

 

第28講 一人一研究

 

 (大意)

 

 すべて人間はその顔が違うもので、性質の相違に基づいて受け持ちとすると

 ころも違います。すなわち何人もそれぞれ唯一人者であります。しかし唯一

 性を実際に発揮するには深い基礎的教養が求められます。

 

「一人一研究」も基礎的教養を背景として、初めて意味のあるもので、基礎的教養を欠いて、ただ一つの問題だけに頭を突っ込むというのは感心したこととは言えないでしょう。

 

諸君らにとり自分独自の研究を持つというのはやはり卒業後の問題となりましょう。もし諸君らにして自分の選んだ一、二の研究を生涯貫いたら、ある意味では教育界の一隅に貢献することになるでしょう。

 

もとよりその人の好みにより、いかなる方面でもよいわけですが、この大阪という土地にゆかりのある問題について言えば、その一つは、懐徳堂(江戸中期の学問所)、その二は心学、第三は慈雲尊者の研究です。

 

懐徳堂については、明治の碩学、西村天囚による「懐徳堂考」があり、学会でも珍重されているようです。「心学」というのは一般庶民階級の子弟を憐(あわれ)まれた石田梅岩先生の大慈悲心から生まれたものです。

 

慈雲尊者は中の島で生まれ、日本仏教の締め括りをされた方で、道元、親鸞、日蓮などと比べても遜色ないと思います。諸君ら自身の好まれる方向で、それぞれの道を開いていかれるのがよいでしょう。

 

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11月14日(水)

 

第27講 成形の功徳

 

 (大意)

 

 「形成の功徳」とは、すべて物事は形を成さないことには、十分にその効果

 が現れないということです。このことは有形である現実界のあらゆる方面で

 当てはまる事柄であり、根本理法の一つと言えます。

 

われわれ日本人は何事も理論から入るのは不向きなようで、最初は事例から入り、実行から入り、しかる後に初めてその理を知るという順序が分かりやすいのではないかと思います。

 

すなわち実例実行によって、初めてその理が分かり、かくして得た力によってさらに新たなる実行に出るというのが日本人の性情のようであります。・・・

 

たとえば諸君らのとっている「渾沌」などについても言えることであって、同じく一カ年分十二冊を取っていながら、月々眼を通すだけで、バラバラにして散逸させてしまう人と、ちゃんと表紙をつけて目次までつけて製本しておくのとでは、同じ雑誌でありながら、その実際に及ぼす効果は、決して同じではないわけです。

 

この不可思議力とも言うべき「成形の功徳」が諸君等を取り巻いている一切の日常生活の上に、実現するか否かによって、諸君らの人生の行手が、大きく分かれると言ってもよいでしょう。

 

たとえば掛物などを書いて戴いても、すぐにそれを表装しておかないと、せっかく書いて戴きながら、それが生きて来ないのです。

 

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11月13日(火)二の酉。

 

第26講 仕事の処理

 

 (大意)

 

 人間の生活は仕事から仕事の連続だと言ってよいでしょう。真の修業はこの

 仕事の処理が中心であると言えるほどです。仕事の処理をもって、自分の修

 養の第一義と深く自覚することです。

 

一般に優れた人ほど仕事が多く、またその種類も複雑になってきます。すなわち何を先にしてどれを後にすべきかという判断を、明敏な頭脳をもって決定すると共に、断固たる意志をもってこれを遂行しなければならぬからです。

 

人としての偉さは、仕事の処理いかんにあるとさえ言えるほどです。これが修養上の一つの大事な点であろうなどとは、気づきがたいのであります。事実は

真の修養というものは、仕事の処理が中心であると言えるほどです。

 

今このような立場に立って、第一に大切なことは仕事の処理をもって、自分の修養の第一義と深く自覚することでしょう。この根本の自覚なくして仕事を雑務だと考える程度では仕事の処理はできないでしょう。

 

次に大切なことは、このような自覚に立って、仕事の本末軽量をよく考えて、それによって事をする順序次第を立てることです。大切なことを先にして、比較的軽いものは後回しにすることです。

 

次には真先に片付けるべき仕事に思い切って着手することです。「とにかく手をつける」は最大の秘訣です。ヒルティは「幸福論」で力説しています。次は着手した仕事は一気呵成にやり遂げる、拙速主義と言ってよいでしょう。

 

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11月12日(月)

 

第25講 質問(今日は質問時間です)

 

S 小学生は頼りないような気がするんですが・・・。

 

森 小学生を教えるということは、頼りないものではありません。私の考えで

 は、人間の一生の基礎は大体十五才までに決まるものです。したがって、そ 

 の頃までの教育は、相手の全人格を左右して、その一生を左右する力を持つ

 わけです。ところが、それ以後の教育は、相手の一部分にしか影響しないと

 いってよいでしょう。

 

M この間、澤木興道和尚のお話を聞きに行った際、お経の本を読んだのです

  が、外にあのような本はないでしょうか。

 

森 「修証義」ですね。これは道元の「正法眼蔵」の中から分かりやすくて立

 派な言葉を抜き出してつくった、「正法眼蔵」の圧縮版です。君の家の宗旨が

 真宗なら、やはり「歎異抄」です。親鸞上人のお言葉を、弟子が筆記して残

 されたものです。

 

 しかし、本文だけでは分かりにくいかも知れませんから、始めは講義本を手

 がかりにするとよいでしょう。私は金子大栄という方の「歎異抄講義」が好

 きです。

 

O 私は万葉集をやって見たいと思うのですが、どういう本がよいでしょう。

 

森 万葉集は国語の先生の畠でしょうが、最初の入門は赤彦の「万葉集の鑑賞

 及び其批評」がよいでしょう。

 

O あれはもう読みました。

 

森 ああそうですか。すると今度は国語畠の方で当代の一流のものと、古典的

 な注解書でしょうね。前者としては井上通泰博士の「万葉集新考」があり、

 後者には「略解」と「古義」が有名です。

 

K 少し歌をやりたいのですが、どんなものから始めたらよいでしょうか。

 

森 初心の人にはやはり啄木から入るのがよいでしょう。そうして仕上げは何

 と言っても赤彦です。啄木から入って、どのように赤彦に抜けるかが問題だ

 と言えます。

 

 なお歌をつくるには、最初は立派な人の歌集をよく詠むことです。とくにそ

 の中から自分の最も好きな歌を五首から八首選んで、毎日暇さえあれば朗々

 と声を出して暗誦するんです。そうしているうちに自分もちょっと作ってみ

 たくなります。作った歌を先輩に直してもらうのです。

 

 歌や俳句をやることは、リズム感を磨く上で最もよい方法です。つまり無形

 の生命が文章の上に現れたとき、それがリズムになるわけです。生命の真の

 趣にふれるという意味で、人間修業の一助として大切なことです。

 

N 小説で何か紹介してくださいませんか。

森 さあ、小説となるとむずかしいですね。君はどんな小説を読みましたか。

 

N ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」とパール・バックの「大地」です。

 

森 いいですね。諸君らのような若い人が読むと、大いに勇気づけられるでし

 ょう。・・・小説というものは、何と言っても一種の力がありますね。若い間

 に西洋の小説を読んでおくことは、他日人間に幅と弾力がでます。日本では

 漱石とか鴎外などは地味ではありますが、味わいがありましょう。

 

 

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11月9日(金)

 

第24講 性欲の問題

 

(大意)

 

 性欲は人間の根本衝動の一つで、性欲の微弱な人間が真に偉大な仕事をする

 ことはできません。同時にみだりに性欲を漏らすような者も大きな仕事はで

 きません。性欲を自己の意志で慎むところに人間の偉大さがあるのです。

 

性欲という問題は事柄の性質上、諸君も正面から聞いたことはなかろうかと思います。この問題は最も大切な問題の一つであって、この問題を抜きにする時、生活の現実は把握できないといって良いでしょう。

 

まず根本的に考えなければならぬことは、性欲は人間の根本衝動の一つだということです。これを生理的に言っても、性欲は人間の生命を産み出す根本動力だと言えます。

 

その意味から、性欲はわれわれ人間にとって最も貴重なものであって、断じておろそかに考えてはならぬと言えましょう。結論的に言うと、性欲の微弱なような人間は、真に偉大な仕事をすることはできないということです。

 

一方でみだりに性欲を漏らすような者にも、大きな仕事はできないということです。人間の力、偉大さというのは、その旺盛なる性欲を、常に自己の意志的統一のもとに制御しつつ生きるところから生まれてくると言ってよいでしょう。

 

かくして初めて人間としての真の内面的な弾力を生ずるわけです。古来独り慎むことが大切とされていますが、ある意味ではこの性欲を慎むところに、最下の基盤があると言ってもよいでしょう。

 

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11月8日(木)

 

第23講 鍛錬道(2)

 

(大意)

 

 加藤博士は二十四、五年にわたり三宅先生に厳しく鍛えられました。その間

 褒められたのはただの一回だけ。学を求める昔の師弟関係がいかに厳しいも

 のであったかということです。

 

三宅先生の加藤博士に対する鍛錬は週四晩までをもってしても、なお尽きないというものです。残りの三日の日、加藤博士の下宿している家へ押しかけ、「君そんな本を読んでいては駄目だ。まずこういう本を読まなくちゃ」と。

 

その頃加藤博士は四千冊くらいの本を持っていたようです。さすがの加藤博士も三宅先生が言われる本がどこにあるか、すぐには思い出せないことがあると、「これくらいの本で、どの本がどこにあるか分からぬようで、どうして学問ができるかね」といった調子。

 

三宅先生は当時すでにその十倍以上に当たる四万冊の書物を、座敷の周りにぐるりと天井まで積んでいられたそうですが、それでも収まり切らず、三十六個の竹の梱(こおり)におさめて真中へ積み重ねていたそうです。

 

ところが三宅先生はそれだけの蔵書を所蔵しながら、いざどの本が欲しいとなると、加藤博士に命じて「どの列の、下から幾つ目の梱の中の、上から何冊目にあるから取り出せ」と命じて間違わなかったということです。

 

三宅先生は精力絶倫、若い頃は殆ど毎晩夜を徹して読書され、何時休まれるか分からなかったのです。日中5分でも暇があればすぐに眠られたそうです。

 

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11月7日(水)立冬。

 

第22講 鍛錬道(1)

 

(大意)

 

 加藤虎之亮博士(武蔵高等学校教授)は広島高師で三宅正太郎教授に見出さ

 れ、徹底的な鍛錬を受けます。その厳しさ、猛烈さは今日の学校教育では想

 像もできない類のものでした。

 

加藤虎之亮という方に初めてお目にかかり、それ以来ちょいちょいお話を伺いぜひ諸君たちにも聞かせたいという話があります。学歴は広島高等師範を出られただけですが、最近文学博士の称号を得られた方です。

 

専門とする儒教方面の実力に至っては当代一流といってよいでしょう。現在は武蔵高等学校(現・大学)の教授をしておられますが、その実力と人格は一部具眼の士の認めているところです。

 

話は加藤博士の師匠に当たる三宅正太郎という先生にいかに厳しく鍛錬されたかということです。三宅先生は独学で勉強された方で、若狭中学(現・高校)の漢文の教師から金沢四高(現・金沢大学)の教授へ。

 

ついで北条時敬先生に抜んでられて広島高等師範の教授として始終された方です。加藤博士は最初歴史科に入ったそうですが、三宅先生に見出されて、国漢に転じたそうです。

 

三宅先生の加藤博士を鍛えようとする意思は厳しく、卒業後は研究科に残ったところ、夜は一週間のうち四晩まで三宅先生、正味六時間から七時間の間、天下の碩学に鍛えられたのです。

 

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11月6日(火)

 

第21講 血・育ち・教え

 

(大意)

 

 人間が出来上がる要素は「血・育ち・教え」の三大要素です。なかでも血と 

 育ちが根強い力を持っています。自分の醜さに気付かしてくれるのが教えで

 あり、その人の心を照らす光だということです。

 

人間が出来上がる上で最も重要な三大要素が「血・育ち・教え」です。こうした尺度に照らして自分を考えると、自分の姿がよく分かるだろうと思うのです。

人間お互いに自分の姿はつかみにくいものですから。

 

ここに血というのは血統のことであり、さらに遺伝と言ってもよいでしょう。また、育ちというのはその人の生い立ちをいうわけです。そして教えというのは、その人の心を照らす光というわけです。

 

これらの三要素はそれぞれ大切ですが、とくに前の二つは根強い力を持つと思うのです。それ故、この血と育ちに対して、よほど立派な教えを聞き、自分として努めたつもりでも、人間のアクというのは、容易には抜けないのです。

 

人間もこの辺りのことに気付きそめるに至って初めて、修業の第一歩を踏み出したものと言えましょう。自分の言動の上における血や育ちからくる卑しさに気付く手がかりは気品のある人々の言動によるがよいと思います。

 

自分の親しくしている人の優れた点に気付くのは、根本において教えの力によらねばならぬでしょう。教えの光に照らされなければ、自分の醜さが分かり出す深い自覚には至りがたいのであります。

 

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11月5日(月)

 

第20講 雑話

 

(大意)

 

 修養とは人間的威力を鍛錬すること、つまり真の内面的な自己を築くことで

 す。自己を築くには道具やコツが必要です。道具は読書であり、コツは実行

 です。二つの呼吸がぴったり合うところに真の人間ができ上がります。

 

諸君はすべからく大志大望を抱かねばなりません。しかし、真の大望は私利私欲の立場であってはならぬのです。その意味からは、「真志正望」といってよいわけですが、若い諸君らには大志大望という方がピッタリするでしょう。

 

学校を卒業するということは、人生という長旅への出発点ということです。人生は二度ないですからね。勝敗はただ一回の人生の終わりにあるだけです。マラソン競走ではなく、短距離競走と分かってくると凄みが加わります。

 

学問の目的は「国家のためにどれだけ真にお役に立つ人間になるか」ということです。どれほど深く、またどれほど永く__。人間も自分の肉体の死後、なお多少でも国家のお役に立つことができたら本懐というものでしょう。

 

極端に言えば、小・中学では尊徳翁の「報徳記」と「夜話」を読ませれば、修身書はいらぬとも言えるほどです。教育者は命がけでこの人生を突っ走る覚悟が必要です。この力があってこそ生涯を貫く志の種まきができるのです。

 

諸君の学問は真の人格的統一を得たものにならねばなりません。したがって学者先生になるのとは根本から方向が違うのです。その努力の目標は、差し当たっては今後十年でしょう。それが読書と実行です。