「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月23日(月)天皇誕生日。ふろしきの日。

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第3節「悪の根源性」の1回目で、悪は善以上にはるかにその根ざしの深さを痛感せしめられると述べています。

 

善・悪という問題は、刃物を以って果物などを二分したりするような簡単なものではなく、

そこには実に複雑な“からまり”合いが存するのである。では、何故人間の行為には、複雑な“からまり”合いがあるかというに、それは己れ一人では生きられず、幾多の複雑な人間関係の中にあるからである。

 

だが問題は単にそれのみには留まらないで、その間において我々はとかく自己に有利なように振る舞いがちだからと言えるであろう。それは組織という点からは、不当な「自己中心主義」といえるが、これは古来「悪」の一語で表現してきたものに他ならない。

 

かくして普通には善・悪は、一種の対立的な相対概念であって、ほぼ同様の比重を持つものであるかに考えられ易いが、心の内奥につき仔細にこれを省みる時、悪は善以上にはるかにその根ざしの深さを痛感せしめられるのである。ここに「根ざし」というのは、我々自身の“いのち”に対する根ざしの深さをいうわけである。

 

このように言えば、ある種の宗教を信じている人々は、「だからこそ、われわれの信じる宗教では、悪人こそ救われると説かれている」――云々というであろう。だが数ある宗教の中には、それとは正逆の立場に立つ宗教もないわけではなく、前者が他力宗と呼ばれるに対して、後者は自力宗と呼ばれているのである。

 

ここでわたくしが言いたいのは、これらの人びとは、真に自己の“いのち”の内観によってというよりも、卓れた古人の打ち建てた教説へ寄りかかって、ものを言っている場合が少なくないかに思われるのである。

 

では一歩をすすめて、何ゆえ「悪」は「善」と比べて、“いのち”に対してよりその根ざしが深いと言えるのであろうか。これは実に重大な問題だと思うが、何ゆえ大きく取り上げられていないのであろうか。

「バカ」を肯定する「ノーリスペクト社会」の到来

 

2月21日(土)

 

かつて「日本人」と「勤勉」はセットであった。しかし勤勉なる日本人は神話と化した。実態は学び嫌いな日本人である。なぜこのようになってしまったのか?その理由を明らかにしつつ、日本人の向学心を取り戻すための方策を提言するのが「なぜ日本人は学ばなくなったのか」(斉藤孝著、2008年講談社)である。

 

「バカ」を肯定する「ノーリスペクト社会」の到来

 

「バカ」とでも表現するしかない事態が日本を侵食している。ここでいうバカとは、学ぼうとせず、ひたすら快楽にふけるあり方のことだ。学ぶ意欲が内発的に起きてこない、学ぶ道があるのにゲームやメールに時間を注ぎ込んで疑いを持たない日本人が増えている。

 

では、なぜ学ばなくなったのか。それは「リスペクト」という心の習慣を失ったからである。かつての日本人には、何かに敬意を感じ、憧れ、自分をそこに重ね合わせていくという心の習慣が自然に身についていた。それを象徴するのが仏教の教えである「仏法僧の三宝を敬う」だ。

 

ところがある時期を境に、日本では「バカでもいいじゃないか」という空気が漂い始めた。そこには教養への敬意はないし、学ぶべき書籍の価値もわからない。先生への畏敬の念もない。つまり、「ノーリスペクト社会」」が到来したのだ。自分という核を持たないまま、ひたすら「何か面白いものはないか」と探し回っている。世の中はこれを「自分探し」と称している。こういう風潮は1980年代頃からだ。

 

こうした問題を見ると、今は「心の安定」を失いやすい時代なのではないかと思われる。こういう世の中になったのは、ここ20年のこと。これは「心の不良債権」だと言えよう。リストラが当たり前という殺伐とした社会のあり方が、心にまで影響を与えているのである。

 

現代日本人の心のあり方は、米国の若者のそれを反復している面がある。戦後のライフスタイルは、完全に米国文化に支配されてきた。「アメリカン・マインドの終焉」の著者、アラン・ブルームは分析している。「本には縁のない学生たちも、音楽となると彼らの情熱の対象であり、音楽ほど彼らを興奮させるmのはない。彼らが願っているのは、ただ自分だけの世界にひきこもることだ」。これはまさに、今の日本の若者そのものだ。

 

教養を身につけるーー哲学や教養が生きる力の根源となる

 

1950年まで国立大学の予科として存在していた、旧制高校の学生から学ぶことが多い。旧制高校では、文系理系を問わず、哲学が基礎教養として共有されていた。また第一外語は英語だけではなく、フランス語やドイツ語などを選択する学生も相当数いた。欧州の国がもつ思想の深さ、文化の豊かさに触れる人が数多くいたのだ。

 

哲学を「学ぶ」ということは、自分の思考の基本スタイルを作る作業でもある。旧制高校生の中には、大学卒業後に企業人、経営者になった人も少なくない。経営者に強靭な精神が求められる。哲学の基礎があったからこそ、その後の人生を揺らぐことなく歩めた人も多いはずである。

 

教養主義をくぐり抜けてきた最後の世代は、今80歳代になっている。日本経済が最も発展した時代に会社を経営してきた彼らが、日本の経済・文化をリードしてきたことは紛れmぽない事実だ。彼らは哲学や一般教養を学び、それによって精神的タフさや粘り強さ、勉強することを楽しむ向学心を身につけていった。

 

日本全体をレベルアップさせたのは、そういう若者時代を過ごした人たちであることを、現代世代は看過してはならない。教養に加え、もう1つ注目すべきは価値観の問題だ。だれもが自分の利益を優先させる傾向にあるが、旧制高校には、自分の成功より優先すべきものがある、という倫理観があった。

 

例えば、自分の置かれている状況を常に意識し、自分が日本に対して何ができるかを考える。こういう要請を、自分自身に課していた。今後の日本には、金儲けの才能を持つ人は多く出現するだろう。だが、自分が日本を支えるという気概や、多くの人を雇用して幸せにしたいという意識を持つ人は、どれだけ現れるだろうか。

 

教養をリスペクトする人が社会のリーダーとなり、成功していく。これが明治以降の社会だった。だが今は、就職にしても「学歴不問」を打ち出す企業が登場してきた。社会的に大学教育を軽視し、身につけた教養を無視する傾向が続けば、中高生は勉強しなくなるだろう。

 

日本人の最大の財産。それは脈々と受け継がれてきた「学ぶ心の伝統」である。学ぶ心は、ひとりでに身につくものだはない。学ぶ先人の姿に憧れを感じて、自分も学びたくなるのである。こうした「憧れの連鎖」が、世代から世代へと受け継がれて社会は幸福だ。

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月20日(金)歌舞伎の日。

 

昨年から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第2節「善の要請」の4回目で、人間は「善」への要請の内部の声を聴かざるを得ない存在だと述べています。

 

このように考えてくる時、そもそも我々自身、真に純粋に「善行」と言い得るものを、果たしてどの程度為してきたか否かを、改めて問題とせざるを得ないともいえるであろう。

 

少なくともその行為が対他的な行為の場合、果たしてどこまで純粋たりうるか否かは、大いに疑問と言えるのではあるまいか。同時にこのような点からして、やがては宗教への門が開かれるのである。

 

だが、それにも拘らず自己の内奥深きところから、「汝、善人たれ!」との「内なる厳しき声」を聞かずにはいられないであろう。尤もわたくし自身は、このような「内なる声」を充分には聴き得ない人間ではあるが、たとえ充分には従い得ないとしても、そうした声をわが内に聴くだけでも、そこに一種の内的緊張を覚え、思わず粛然として身内の浄められる想いがするのである。

 

我々人間は、その日々の実生活において、自らの行いつつある事柄はこれを深省する時、そのいずれもが真に純粋と言い得る場合は滅多になくて、多くは何ほどかの程度において、俗情や雑念の介入混入を免れ得ないにも拘らず、しかも「汝善人たれ! たとえ善人たり得ずとも、少なくとも善行を為せよ“」という「善」への要請としての、「内なる声」を聴くだけでも、その一瞬、自らの心の浄められる思いがすることであろう。

 

ここに人間存在のもつ最根本的な心性があり、それは我々の存在自体にとって、本具内在のものだと思うのである。かくして、内には常に「善」への志念を抱きつつ、その現実に行うところは必ずしも常に善たり得ず、かりに外観的には善と見える行為をする場合でも、ともすれば俗情の介入混入を防ぎ得ない底の存在でしかあり得ないのである。

 

だがそれにも拘らず、常に、ないしはしばしば「善」への要請の内部の声を聴かざるを得ない存在だといってよいであろう。

全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月19日(木)雨水。

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第2節「善の要請」の5回目で、善・悪という問題の根ざしがいかに深く、複雑かつ微妙であるかを説いています。

 

だが、さらに一段と抉(えぐ)ってみれば、日常生活のおける実状は、むしろ「善への要請」というよりも、「汝の今日為せる行為は悪ではないか。仮に悪とは言えぬまでも、少なくとも真の善行とは言えないのではないか」とか、

 

あるいはまた「汝が今日行った行為は、善意が足りなかったのではないか」とか、「汝はかくすべかりしに、汝の今日為せし処は不充分であって、その善意には混濁がありしならずや」等、内省・省察の内なる声を聞く方が、より多いと言ってよいではあるまいか。

 

かくして普通には、善・悪というような問題も、これを道徳・宗教というような包括的概念的な方法によって考察しようとしがちであるが、しかし如上わずかの事例によっても明らかなように、この善・悪という問題が、人間にとって如何にその根ざしが深く、かつそれが如何に複雑かつ微妙なのかの一端が伺えたかと思うのである。

 

尤もかかる人心の微妙さについては、所謂小説と称せられる特殊な領域があって、そこではある意味では、到らぬ隈なきまでに徹底して、人間の心理を拡大し展開していることは、今更言うを要せぬが、もしそこに欠けているものがあるとしたら、それは大観の明智によるそれの圧縮、さらに凝縮と言うべきであろう。そして学問と称せられるものこそ、実は如是の要請に応えるべきものかと思われるが、しかもこれは実に至難の業と言わねばなるまい。

 

けだし人間心理の無限拡大ないし展開も、もとより異常な資質と力量が要請されるが、同時にこれに反して、人間心理の真に大観的なる叡知の光を、現実界の大野に照射して、しかもその光が人間存在に対しても、ひとりその外面のみに留まらず、深くその内面的心性の奥底にまで照徹するような、真の学問的営為ということになると、これまた洵に至難の業というべく、到底わが身の到り得る処でないことを、改めて深省せしめらざるを得ないのである。

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月18日(水)

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第2節「善の要請」の3回目で、「善」への要請は「純粋に内発的なるをその本来とする」と述べています。

 

人間にとって、「善」への要請以前に、まず「悪」への抑止ないし禁止があるということは、極めて重要な問題かと思うのである。一言でいえば、人間生活においては、所謂宗教・道徳というような高次の領域に属する問題は、時間的には遅れて生起するということであって、これは「本質的に先立つものは、時間的には遅れる」と言われる一般的命題の一実証ともいえるであろう。

 

そこからして、総じて本質的なるものは、外から内へと内展するとの根本的示唆を与えられると言ってよい。即ち、人類は先ず外部からの抑止ないし禁止という、半ば法的規制により、精神的自覚の素地が用意され、やがてそれが基盤または踏み台となって、ようやく眼は内部に向けられるというわけである。

 

かくしてようやく、問題としての「善」への要請であるが、これは本質的には純粋に内発的なるをその本来とすると言ってよい。即ち誰一人見ている者はなくても、拾った金銭は正規の手続きを踏んで届出するというが如きは、そこに作用らく心意の動きには、深く内面的なものの動きの存することも看過し難いといえよう。

 

これに反して、例えば、親しい知人が入院して見舞うという場合には、もちろんその友への同情の念によることは言うまでもないが、同時に他の一面からは、「早く見舞わないと義理が立たぬから」とか、さらには、自分としては止むを得ぬ支障で遅れているが、先方にはそれが分からぬことゆえ、水臭い人間と思われてはいないか等というような、俗情の介入する場合もないとは言えまい。

 

如上の例を以ってしても、もしこれを単に「道徳」問題というような、一般的な考え方で済ませば問題はないともいえようが、これを「善」への要請という立場から考察すると、問題は必ずしも簡単自明とは言い得ないであろう。

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月17日(火)旧正月。

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第2節「善の要請」の2回目で、最初期的な道徳教育の萌芽は「善への要請」ではなく「悪への禁止」という形態だったと述べています。

 

その点について、今少しく立ち入って考察すれば、その際の対象がまだ成人でない場合には、部族集団の成人たちから発せられる場合もないではあるまいが、より多くは所属する家族集団、中んずくその両親並びに成人となった兄姉などからと言って良いであろう。

 

このような場合には、それは道徳というよりも、むしろ教育の問題だといってよく、そこに、後に“しつけ”と称せられる、教育の最原初的なるものの形成を見るといってよいであろう。人類における最初期の道徳教育は、実にかかる原初的な素朴の形態において、発生したものと見るべきかと思われる。

 

この際さらに注意を要するのは、そのような最初期的な道徳教育の萌芽は、「善への要請」と言う形態をとらずして、逆に「悪への禁止」という抑制の形態をとったものと考えられる。例えば“こうしてはいけない”とか“「ああしたらいかぬ”というふうに。しかもこの事たるや、実に重大な意味を持つかと考えられるのである。

 

即ち、我々人間の集団生活において、最初に要請されたものは、積極的な「善への要請」というよりも、むしろ「悪への抑止ないし禁止」だったということであって、この点は、いわゆる道徳や宗教の問題について考察する上で、一つの根本的なものを示唆しているかに思われるのである。

 

というのも、そこには一面からは、人間存在における悪性の限りなき根深かさが考えられると共に、集団生活においては、その集団生活が円滑に支障なく行われるということが、何物にも優先して要請されるわけであって、これ実に基盤的要請というべきことを示唆するものといってよいであろう。

 

同時にかく考えてくると、所謂「善への要請」という問題は、それらと比べる時、一段高次の領域に属する事柄だとも言えるわけである。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月16日(月)

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第2節「善の要請」の1回目で、善・悪という問題は、人類にとっても、尽きる期なき永劫の課題と述べています。

 

我々が肉とからだを持っている限り、悪の根絶の期は無いともいえるであろう。それが現実だとしたら、その現実を踏まえながら、一体善・悪という、おそらくは人類の歴史とその始源を等しくしているとも言うべきこの問題に対して、如何に考え、対処すべきであろうか。

 

これはひとり我々自身にとって、終生尽きる期なき永遠の課題であると共に、さらに人類そのものにとっても、恐らくは尽きる期なき永劫の課題と言ってもよいであろう。このように、自身について自省し内観する時、とかくに善の為し難くして、悪念の兆すを留め難いにも拘らず、善に対する厳しい要請が、わが身の外からも又内からも、されつつある事態に対して、深い感慨を禁じ得ないともいえるであろう。

 

今図らずも、「外からも又内からも・・・」といったが、一見何気なく使われているこの「内外」というコトバ自身が、実は我々にとっては、善・悪、特に善の問題の根本性格に触れているのではあるまいか。

 

すなわち、善への要請について人間にあっては、ひとり内からの要請であるばかりでなくて、また外からの要請でもあるという点が、善への要請という問題の考察上、ひとつの重要な点というべきであろう。

 

否、この問題を時間的観点から考えるとしたら、善への要請は、内部からという以上に、外から発するものと言えるのではあるまいか、もしこの善への要請を道徳の問題としたら、道徳問題について考察する上での、一つの重要な点というべきであろう。

 

ところで、善への要請が、時空的には外から発するというのは、個人が集団の一員として属している特、その所属集団に基づくものといえるであろう。即ち、人間集団の発生の早期において、その成立の見られた部族的小集団から、かような最初の善への要請は為されたと言えるであろう。

解決のヒントは現場の中にある!

 

2月14日(土)バレンタインデー。

 

ただの農民でありながら、農村再建の指導者として、600に及ぶ農村の復興を果たす。「薪を背負って本を読む」像で知られる二宮金次郎の考え方、生き方を分かりやすく紹介したのが、七代目直系の孫、中桐万里子著「二宮金次郎に学ぶ生き方」(致知出版社)。

 

金次郎が生まれた二宮家は比較的裕福な農家だった。ところが14歳で父親、16歳で母親を亡くし、無一文の孤児になる。それは同時に、どのように生きていくべきかという人生の指針を失うことでもある。その指針を手に入れるため、金次郎は父親が遺した本を読むようになる。両親が自分に教えたいと思っていた道を見いだすためである。

 

16歳から20歳まで、金次郎は叔父(父の兄)の万兵衛の家で養われる。この叔父について「勉強なんかせずに働け」、「夜は油がもったいないから勉強なんかするな」など、様々の逸話が残され、まるで意地悪爺さんのように描かれているが、それは事実と異なる。

 

当時、村人はお金がない、困ったことが起きた時には、金次郎の両親に泣きついた。両親は他人の借金のために田畑や家財を売り払い、二宮家は財産を失うことに。弟は学問などをかじったせいで、人助けなど身分不相応なことにまで精を出した。農民は農民らしく、地道に農業をしていればよかった。

 

金次郎が学問をしたら、弟と同じ運命をたどるのではないか、そんな不安から叔父は金次郎に「勉強ではなく農業をしろ」と訴えていたのは、深い愛情からだったのである。

 

幼い頃より、金次郎の像――薪を背負って本を読みながら歩くーーについて言われてきたことがある。あの姿は勉強が大事、本を読めということではない。どんな時も行動すること、実践の大切さを忘れてはならない、というメッセージなのだと。家の者がそう語るのは、金次郎の「わたしの名をのこさず、おこないをのこせ」の遺言があるからである。

 

金次郎は自らの実践について説明している。自分は「水車」みたいに行動しているのだ。くるくる廻る水車として、その下を流れる川を思い浮かべてほしい。水車は自分、川を相手と捉えてみる。相手は自然、人間、社会状況など、「現実」のことだ。

 

金次郎は、水車と川が互いに無理をせず、自然体で動きながら「活かし合い」をしている点

に注目してほしいと言う。川がなければ水車は廻らない。同時に水車が川を活かしている点も大事に考えた。川は水車との関わりでエネルギーを生み出し、農業を助けるパートナーとして働き始める。そんな共存共栄の関係こそが理想だと考えた。

 

20歳で独立した金次郎は猛烈に働き、32歳の時には村で2番目の大地主になる。この業績が藩主の目にとまり、農村再建の指導者の任を受ける。35歳で生まれた故郷を離れ、各地の農村の再建に携わることに。北関東一円を中心に600以上の村の再建に関わったとされる。

 

新しい土地で初めての指導で、大いなる挫折を味わう。猛烈な反対に遭ったのである。指導を依頼された時、彼はこれまでの実績を踏まえ、10年で再建できると藩主に約束した。だが、7年間はほとんど実績をあげられなかった。8年目に入ろうとするある日、金次郎は運命的な出会いをする。

 

ある村で、村民たちの熱烈な「不動尊信仰」の様子をみかけるのだ。彼はその足で不動尊信仰の大本山である成田新勝寺へ向かい修行を申し入れ、21日間の断食修行に入る。ここで彼は、2つの気づきを得た。1つは自らの「半円の見」である。彼は自分が復興の主役で水車なのだと。しかし、村人の立場になれば、村人こそが水車で、金次郎が川である。

 

2つ目は、加害者はだれか、復興がうまくいかないのは、反対者が悪いと思っていた。だが、半円の気づきから、相手を責めていたからその責めがはね返ってきたにすぎない。自分は被害者ではなく、加害者だった。自分の心が全て失敗の原因だった。

 

相手が自然であれ、人間であれ、「わたし」ということにこだわり過ぎると、自分の理想論を手放そうとせず、「自分が自分が」と固執することは、時にみんなを疲れさせる。しかし「現実」はどんな時でも私たちに力をくれる。体験を通じて得たのは、そんな想いだった。

 

それ以降、困った時ほど、壁にぶつかった時ほど、怖れずに相手を「知る」ことにしよう。相手に飛び込むことを大事にしよう。例えば、苦難に出会い、どうやって前に進めばいいか分からなくなって途方に暮れる時、金次郎は言う。「人間に無力な者は1人もいない!」

 

無力なのではなく、「無知なのだ」。現実を知らないから、道が見えてこないだけだ。だから困った時ほど現場に戻り、もう一度目の前の現実をよく見よう。その時、自らに生まれてくる感覚や体験や知恵を大事にして判断することである。(「TOPPOINT」から抜粋) 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月13日(金)

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第1節「人間における『善・悪』の問題」の2回目で、悪への芽生えは容易に根切りすることは難しいと述べています。

 

まず痛感せしめられることは、そもそも善という事柄が、少なくとも一般的な常識の立場で考えていたほどに、容易ならぬものでないことを知らしめられるであろう。即ち我々は己がいささかの善を行うにさえ、まことに容易ならぬ心づかいを人知れずしなければならず、これに反して悪というものがまた、これまで常識的な立場で考えていたほど、たやすく避け難いものだということを知らしめられるのである。

 

少なくとも現実に、外面に現われる行為にまでならぬとしても、自己の一念の奥深く「悪」念の根ざしは深くて、その根絶の容易ならぬことを痛感せしめられるであろう。

 

かくして人間は、ひとたび己が“いのち”の内的自証の立場に立てば、善はいささかの善行すら、これを為すには、意外なほどの努力を必要とするにも拘らず、これに反して悪の方は、“いのち”の奥底深くその根ざしがあり、これを根絶することの如何に容易でないかに驚き恐れ、かつ呆れる他なしとさえ言えるであろう。

 

同時に、かくの如きものが、“いのち”の内的自証の鏡面に映現するとしたら、これまで道徳・宗教という概念によって考えてきたところとは、“いのち”の次元を異にする象面が現出するといってよいであろう。

 

かくしてわたくしも、先に提出した善・悪の相対性という問題に対して、自らの見解を述べるに先立ち、いわば序説的見解の一端に触れた次第であるが、改めて問題の至難さを痛感せしめられるわけである。

 

同時に、以下“いのち”の内的自証の立場に立って、善・悪の相対性の問題を究明するとすれば、そこではかの半ば文化現象的とも思われる宗教および道徳も、切れば血の滴るような、“いのち”の内的自証の世界の消息として、いわば一如の相において、それぞれの象面から光を照射せしめ得るかと思うのである。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月12日(木)

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第1節「人間における『善・悪』の問題」の1回目で、宗教・道徳の問題を「善・悪」の観点から考察する理由を説いています。

 

かくして人類の前には、所謂文明ないし文化の問題よりも、さらに一段と深遠かつ深刻な問題の存することが、改めて問題となりつつあるといえよう。ではそれは何かというに、結局は心の問題としての、道徳及び宗教の問題だといってよい。かかる宗教及び道徳の問題を、

ここでは「善と悪」の観点から考察してみたいと思うのである。

 

これから取り扱う道徳及び宗教の問題も、「文化の問題として扱われるべきではないか」と考える向きもないではあるまい。だが、この立場は、道徳及び宗教をいわば外部から、文化現象の一つとして考察する立場であり、深き“いのち”の内面的体験として自証する立場とは言い難いと言わねばなるまい。

 

宗教や道徳的体験は各自がそれぞれ自らの“いのち”の内的自証に徹して、初めて真の消息の一端に触れうるものというべきであり、これを文明ないし文化の現象と同一次元において扱うことは、許されないものだということを、まず以って認識する要があるであろう。

 

それと関連して今一つ、この章を「善・悪の問題」として掲げ、道徳および宗教という名称を表面に打ち出すのを避けたが、この点についても、予め自分の立場を明らかにしておく必要があると考えるのである。

 

思うに、宗教・道徳という問題は、我われ自身の“いのち”の最奥底における「自証」の問題ゆえ、それを文化現象でもあるかに考えられやすいコトバの使用は、これを避けたいと念じるわけである。

 

今、この自分にとって絶対不可避な、唯一無二の“いのち”の内的自証の立場に立って、善・悪の問題を考えるとしたら、そこには如何なる心の象面が現出するであろうか。まず痛感せしめられることは、善という事柄が、少なくとも一般的な常識の立場において考えていたほど、容易なものではないことが知らしめられるであろう。