講演「人間の生き方について」(7)

 

8月7日(金)立秋。

 

人から言われて気づくようでは!

 

実は一番はじめに申したいと思っていたことは、「人生二度なし」ということです。これが私の人生観の根本信念です。こうしたことは、分かりきったことだと言う人が多いと思いますが、私は三十三歳の年に初めてこのことが分かったのです。

 

何とまあ間の抜けた奴だと思われるかも知れません。小学校の時代から分かっていたという人があるかも知れませんが、なぜ私は三十三歳で分かったのか。これは先程いった通り、分かったと言うことは、人から言われてなる程と気づくようでは、本当に分かったのではないのです。

 

ご馳走を見せてもらっただけで、食べないのと同じことです。人生は二度とないことが分かったということは、それが心の底に焼きついて離れんようになったことである。人から言われてなる程というようでは、鏡に自分の顔を映すようなもので、鏡を動かすか、自分が動けばすぐに消えてしまう。

 

欲しいものとか、いわんや初恋の人などというものは、いっぺん写ったら、それからずっと消えないものです。いつでもパァと思い出せます。「人生二度なし」が、そういうように何時でも何処でも出てくるのでないと、本当に分かったとは言えません。

 

私はどこへ行っても一番短い白墨から使うようにしている。どれが一番短いかを探して使うのです。ここはさすがに修養団です。短く使っていますね。今日もそのように短いのを探していると、修養団の中山先生が気を使って下さり、長いのを探しているのだと思って、新しいのを5本持ってきて下さったのです。

 

私は大学に二十三年おりましたが、この間新しいチョークを一本も使わずに授業が出来ました。人の残した白墨で授業ができたのです。禅僧は昔から水を節約しました。むろん井戸の水です。タダのものを極力節約する、これが修行です。坐禅の結論はここまで来なければならんのです。足のしびれを我慢しているようでは何にもならない。日常生活にそれが応用できなければならないのです。

 

講演「人間の生き方について」(6)

 

8月6日(木)仙台七夕まつり〜8日。

 

「れいけいブログ」は26年目へ

 

2001年8月6日(広島原爆の日)から始めたブログが昨日満25年となりました。最初は社員さんと「専門店のマーケテイング」のアレコレを勉強することを狙いとしていました。3年目から「メンバー店」さんが加わり、一緒に研究し合える態勢へ。さらに5年後には一般に公開してきました。近年は恩師である森信三先生の著作から紹介しています。

 

幸福とは自分で満足すること

 

幸福感というものは外側から見るものではないのです。満足感ですからね。幸福というものほど、分かったような分からないものはないでしょう。幸福とは自分で満足することです。どうしたら満足するかというと、感謝の念をはっきり身につけることでしょう。

 

感謝の念がなければ、出世街道をまっすぐ歩いていても、幸福感を味わうことはできません。犬の背中に棒をつけ、その先に肉をぶらさげ、その肉を追いかけている犬のようなものです。いくら走っても、鼻にペタンペタンと肉が当たるだけで、口には入らんのです。

 

感謝の念のない人は、世間の人から羨ましがられても、本人は不平たらたらで毎日を過ごしているのです。人生を噛みしめ、噛みしめる生き方が出てくると、大体人生の終わり頃になり、一つの幸福感の心境に到達するものです。

 

学歴があろうがなかろうが、社会的にどんな位置に着こうがつくまいが、あるいは財を成そうが貧乏暮らしをしていようが、一切そんなことにかかわらず、幸福感で満たされるのです。すなわち幸福というものは、ある意味から申しますとバランスということです。

 

バランスが取れるということはどういうことかと言うと、不平不満がなくなるということです。感謝の念で不平不満がなくなるということはお分かりでしょう。感謝するということは、バランスがとれている状態ということです。

 

そう考えれば、人生の幸福ということは、ある面から言うと、心のバランスだということが分かります。一つの不幸に出会って、一時は動揺することがあったとしても、すぐにバランスのとれた正常な状態に戻る。それは先ほど言ったように精一杯努力するのです。

 

トップの成績をあげるように、周囲の嫉妬の矢を受けないよう、人のためになることをする。人に親切にする。これで初めて人生を生きる一つの態度ができたと言えるのであり、人生の軌道にのったということができるのです。

 

講演「人間の生き方について」(5)

 

8月5日(水)山形花笠祭り〜7日。

 

七十歳位になると幸福感は同じ

 

嫉妬心を消すためには、人のために直接、間接を問わず、人知れず尽くすことが出来なければなりません。このようなことが人生を渡ってゆく上で大事なことです。そこまで気配りをすると、上司とか神様が、その人を引き上げてくれるのです。

 

こうして引き上げられていく者に対して、どこまで栄進しても誰も文句を言わないのです。このようなことを一年でも早く分かるということが大切なのです。小突き回されてから分かるというようでは、気の毒なことです。

 

いい年をしながら、小突き回され、ひんまがって、うさばらしの仕様がないから、時に縄のれんで一杯やろうかといって、酒を酌み交わしながら、上司や同僚の悪口をいって気炎をあげている。その悪口が、また筒抜けだということが分からんのだから、おめでたいという他はないのです。

 

いい年をしながら何も分からず、落伍者同志が愚痴や不平をこぼし合っているのである。これが私の見た、人生の断面の縮図であります。私の考え方から言えば、皆さんのお仕事の一つ一つを理解して、その仕事のコツの三つ位は知っておいて、その急所にピタリと焦点が当らないとお話が出来ないのだが、不幸して皆さん方の仕事については分からないので、一般論から話しただけです。

 

人生二十歳の後半で、いま私が言っていることが多少でもわかり、なる程と思って実行できれば相当なものです。大学でも出ていると甘やかされるから、それが多少遅れるので、大学を出ている人は二十七、八歳で分かればまあまあということでしょう。

 

二十五歳以前に分かって実践に移れば相当なものです。そう言う意味で話しますが、本当にこの人生の生き方を自覚して取り組むと、学歴はともかく、どんな道を歩いていても人生の終わりを七十歳とみて、その位になると幸福感は同じになります。

 

課長でやめようが、係長、平社員で辞めようが、自覚的に人生を噛みしめて生きていくと、世間的な序列などにかかわりなく、同じ結論に到達してくるのです。

講演「人間の生き方について」(4)

 

8月4日(火)

 

営業成績が良いだけでは責任ある地位につけない

 

人から言われたり、本を読んだ時だけ、なるほどと感心している程度では、ほとんど消えてしまうのです。嫉妬がいかに恐いかということが常に頭の中にあるようにして、同時にそれを消すように努力しなければなりません。

 

まず自分の仕事で第一位の成績をあげるように努力する。そうしなければ人生の生き甲斐はない。なぜ生き甲斐がないのか。全力投球ではない、全能力を発揮しておらないからです。全能力を発揮する為の客観的な基準としては、セールスなら同じ職場で第一位を占めることです。

 

これで始めて悔いのない全力投球の生活に入ることが出来る、そこに生き甲斐というものを感じるのです。ただ努力するというような程度のことを言っているからダメなのです。第一位を狙うのです。初めからはなれないけれども、常にそれを狙って努力するのです。

 

しかし、第一位になっても傲慢は敵です。人から嫉妬されるのは社会で一番恐いことです。嫉妬がいかに恐いかということを書いた人生論は少ないといってよい。書く人にその怖さが分かっていないからです。本を書く位の人だから、分かっていそうなものだが、それを力説しないところを見ると、本当に分かっていないのですね。

 

そこで人の嫉妬を消すことを考えなければなりません。それを人から教わるようではダメで、自分からその方法を生み出さねばなりません。一般論でいうなら、人に親切にするということになりましょう。

 

特に嫉妬心の深い人に対しては、心をこめ陰になり日向になり、嫉妬を消すよう努力せねばなりません。これが大事なことです。これが出来ないと、いかによい成績であっても、ある程度のところまでは抜擢されても、それ以上には行けないのです。

 

なぜなら皆んなから嫉妬を受けるような人をただ営業成績が良いくらいで、責任ある地位につけることは危険だからです。同僚の目に見えない嫉妬心を消すことを考えるようになって、本当の大人の知恵をもつことになるのです。

講演「人間の生き方について」(3)

 

8月3日(月)秋田竿燈まつり〜6日。

 

成績がよいだけでは傲慢になる

 

ついでだから申しあげますが、話というものは、予定通りきちんとやっていくから面白くないのです。丁度マムシが穴から出てきて、どこへ行くかわからんようなのが面白く、棒切れや石を並べるようでは面白くないのです。要点を筆記するのには便利でしょうが、それでは実感が湧かないのです。

 

それで今申しあげておきたいことは、自分の職場において常に最上位の成績をあげるように決心していないと、先に行くほど落伍して行くということです。そしてその裏が大事なのです。成績が最上位を占めたら、反対に人の為に尽さなければいかんのです。これを忘れてはいけません。

 

仮にセールスなら、同じ会社で最高位の成績を残して行くことに必死になり、風呂に入っていても、寝ていても、常にセールスのことを考えていなければいけない。それ位でないと最上位を占めることは出来ません。ところが最上位を占めるだけで得意になっていたのでは、これまたいけないのです。

 

最上位でなくても平均の水準を抜いていたら、抜いた分だけこれをプラスとしますと、その分を人の為に尽くすのです。大方はこのことが欠けやすいのです。ここらが欠けると、せっかくのプラスがマイナスに変わってしまうのです。

 

成績はあくまで上げていかねばならない。しかしそれだけでは同僚や友人の為に尽くすということをしないと傲慢になる。人間というものは成績がよいだけでは、傲慢になるのです。傲慢になると人から嫉妬される。だから傲慢にならないでください。

 

人間の世界で一番恐いものは嫉妬だと思います。嫉妬の恐ろしさが分かりかけて、初めて大人になるのです。分かるというのは、人から聞かされた時だけ、「なるほど」というのでは、本当の分かり方ではありません。何故かというと、人に言われて分かったと思っても、すぐに消えてしまうからです。日頃の生活の中で打ちこんでおくのです。これが大事なことです。

 

「佐藤優の古典攻略法」③

 

8月1日(土)弘前ねぷた祭り〜7日。盛岡さんさ踊り〜4日。

 

“知識の積み重ね型”の古典を読むには

前提条件としての基礎知識が必要である

 

難解でなかなか頭に入ってこない本に2種類ある。一つは内容がデタラメで理解できないもの。こうした本は読むべきではない。1960年代から70年代にかけて、新左翼のさまざまな党派が出した機関紙のなかには恐ろしく難解な文章があるが、それらの多くは思いつきで書いているだけのものが多く、読むに値しないと言っていいだろう。

 

もう一つは知識の積み重ね型になっている本である。このような本はある程度の基礎知識がなければ理解することはできない。たとえば、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」は箇条書きで書かれており、薄い本なので一見簡単に読めそうに思えるのだが、その背景にある論理実証主義や記号論などがわかっていなければ、まず理解できないだろう。

 

あるいは宇野弘蔵の「恐慌論」は、資本主義の限界について知るうえで重要な一冊であるが、「資本論」を前提としており、その基本についての理解がなければ読み込むことは難しい。そのようなときには遠回りのように思えても、やはり必要な知識を身につけてから読むことをおすすめしたい。

 

ヒックスの「価値と資本」を読むならば、巻末の数学附録は大学教養課程レベルの微積分についての知識がなければ理解できない。そこで西村和雄氏の経済数学の入門書などで3ヶ月から半年ほど勉強してから挑んだほうがいいだろう。

 

高校の教科書もとてもよい古典の手引書になる。筆頭は「倫理」と「政治経済」。この2冊は強い味方になってくれる。歴史に関しては「日本史A」と「世界史A」をおすすめしたい。「A」というのは、進学校ではなく実用学校用であり、この先、歴史は勉強しないであろう生徒が学ぶことが前提となっているため、内容が完結しているのだ。

 

理数系であれば、講談社の新書シリーズ「ブルーバックス」の独壇場と言えよう。高校数学から物理、地学、生物、化学までブルーバックスシリーズで学べば間違いないだろう。

 

一方で「漫画で読む〜」というタイトルの、古典を漫画で読みやすくした本がしばしば人気を得ているが、これらの本の選び方に気をつけたい。というのも、特定の見方に基づいて、かなり荒っぽく描いているものが少なくないからだ。

 

たとえば「資本論」は、革命の書としてとらえた本に出合ってしまうと、本当に読むべき部分が見えないまま理解してしまうことになる。資本主義はあたかも永続するかのごときものだという前提のもと、資本主義の内在的論理をとらえたものとして読むことが本来的な「資本論」の読み方である。

 

書き込む本とまっさらな本、2冊用意するのが理想

 

気になった部分に線を引いたり、本の余白に書き込みをしたりしながら読むことが好きな人もいれば、ノートに重要と思われる部分を書き写していく人、あるいはパソコンに文章を打ち込んでいき要約リストをつくっていくという人もいる。

 

どれが正解ということはないため、自分の頭に一番定着しやすい方法を見つけていけばいいだろう。大事なことは、すぐに「取り出せる」状態にしておくこと。なんでもかんでもクラウドに突っ込んでしまうのは考えものだ。いざという時に取り出せないようでは、まったく意味がない。

 

もしも本に直接書き込んでいくタイプの人であれば、同じ本を2冊手元に用意したい。1冊は書き込んでいくための本、もう1冊はまっさらな状態のままにしておく。なぜなら書き込んでしまうことで、読み直したときにすべてを読んでいるつもりでも、どうしても線を引いたところを中心に読み進めてしまいたくなってしまうからだ。

 

つまり、先入観に支配されて新しい発見ができなくなってしまうのである。本当に大切だと思う本は2冊、用意したい。(つづく)

 

 

 

 

 

 

講演「人間の生き方について」(2)

 

7月31日(金)

 

急所を押さえる人間にならなければ・・・

 

今この上着を脱いだでしょう。脱がないでもよいとお思いでしょうが、それでははっきりと腰骨を立てているところが見えないから、少しでもはっきり見ていただくために脱いだのです。こういうことに対して億劫がらないということが、真理を身につけることの一つです。

 

たとえて言うなら、私が皆さんの会社の社長室にお伺いした時、珍しい額が掛かっていたり、写真が掲げてあった時に、これはどなたのですかと聞いた時、「これこれの方です」とお答えになる。その時、「ああ、そうですか」と腰をかけているようでは大したことの出来ない人ですね。

 

一番つまらない人は聞こうともしない。そんなことでは目があっても何も分からないのと同じです。「あれはどなたのですか。ああ、そうですか」の程度で済ますようでは、中くらいです。「ああ、そうですか」と言って、そこまで行き、それを確かめるようにならなければいかんのです。

 

億劫がるようでは物事にとどめを指すことは出来ないのです。そういう意味で私は上着を脱いだのです。一枚くらい脱いだのでは大したことはないけれども、脱がんよりはよいのです。これを億劫がるようではダメなのです。急所を押さえるという人間にならなければ、大した仕事は出来ないのです。

 

あくまでもダメ押しをして止めを刺すということが大事なのです。億劫がらない人間になる一つのコツは、行動を機敏にするということです。皆さんが仲間の人達と何かやる時、機敏にして、遅れをとらないことが大事です。ノロノロしたりせずに、心も頭もきちんとすることが、ひいては身体にきざみを入れてゆくことなのです。

 

朝礼なら朝礼に遅れないようにする。そんなことが出来ないようでは、落伍者です。そのようなことを面倒がるとき、人は人生の落伍への道が始まったと思うべきです。同輩が抜擢されたりすると嫉妬したり、不平不満を持ったりし、その辺の縄のれんで一杯やってうさばらしをしているようでは、「ひかれものの小唄」というものです。

 

人間の土台とは何か

 

7月30日(金)

 

昭和49年2月23日

修養園主催 社員教育研修会

茨城県西山研修所

 

四六時中、腰骨を立てる

 

まず、私は皆さんが座っている前の机を動かしてみますよ。この位置では、中心がずれておりますからね。柱のそちら側に二列は、何かはみ出た感じがしますから、不公平になるのです。光も少ない。したがって、少しでもこちらに動かすことによって丁度よいのです。こういうことが大事なのです。

 

まず座り方から話そうと思いますが、大体座り方については、皆さん習っておられましょう。ここで座ってみましょう。なぜ座ることが大事かと申しますと、座ることが出来ないと土台ができないからです。したがって、シャンとできないのです。座ることが根本で、それに水増ししたのが腰かけです。したがって、座ることが出来なければ、腰かけることも出来なくなるのです。

 

ここでいっぺん座ってみましょう。まず、男はひざとひざの間に握りこぶし二つがゆうに入るように。男と女は開き方が変わります。女の人でも握りこぶし一つが入るように開けなければなりません。足を深く組む。そうすると、しびれが切れるのに長くかかる。

 

なぜかと言うと、お尻の位置が上にくるから、ふくらはぎのところに重さがくる。体重の圧力が下にくる。そうするとピシッと決まるのです。手を握りしめて堂々として、そうして心持ち下腹の力を抜かないようにしている。すると肩の力が抜けてスッキリしてくる。

 

腰骨をシャンと立てて、お尻を後ろの方へうんと引く、これで土台ができたことになるのです。腰骨を前に出し、お尻をうんと後に引くことが秘訣です。そこで下腹に心持ち力を入れる。すると肩の力が池の中に降った春の淡雪のようにすっと消えてゆく。

 

朝、起きてから夜眠るまでこの姿勢が一番楽であるというところまで自己を鍛えてゆく。私は十五歳からやっておりました。こうしていないと気色が悪いのです。自宅に一日中いる時でも、こうして座って勉強している。これだけのことを申し上げましたので、あとはご自由にして下さい。

 

 

講演 「性根のある人間に」(6)

 

7月29日(水)

 

躾の第一は朝晩の夫婦のあいさつ

 

丸めれば両指の中にも隠れてしまいますが、目つぶしに使ったら、相手を倒す力を持っている。いわゆる理論体系と呼ばれるものは、金箔みたいなもので、豪華絢爛たるものですが、しかし一たん現実の問題に直面したら、それは直ちに一つの金粒になって相手に目つぶしを喰らわすように、眼前の問題を強力に解決しうるものでなくてはなりません。

 

新しいハイカラなことばも、使わぬわけにはいきませんが、しかし言葉だけに満足しないこと、溺れないことが大切であります。「主体性」などという言葉も、土臭い民族の庶民的用語でいえば、「性根」「根性」ということでしょう。ところが主体性とは、つまり根性ということだということが、これまで分かっていません。

 

そこからくる戦後二十年のブランクの結果、日本の教育には「根性」が欠けてしまいました。このことが分かってきたのは、「何とかしてわが子を根性ある人間にしてほしい」という日本庶民の願いが凝り固まってきた結果で、自然にここに来たというべきでしょう。

 

それでは子どもたちに根性を入れるには一体どうしたらよいか。子どもたちの躾はどこから始めたらよいのか、どうもその手だての方法が一般にわかっていないようです。では躾の第一石は一体どこから打ったらよいでしょうか。

 

この間の消息をヘリーゲールは、「種子だけ与えても、種子の蒔き方を知らぬものには種子を与えることは出来ない」。「無我にならないで、的に当てることだけを考えるのは芸人になるだけである」、と言っております。この言葉は口で言うのは容易ですが、本当にそこまでゆくのは大変なことです。

 

具体的に一つだけ申しましょう。それには夫婦が朝晩のあいさつをすることから始めてください。真理は直ぐに始めることです。待ったなしです。主人が主婦に対して「おはよう」「おやすみ」と先手が打てたら、一家に波風は立ちません。すべてこの調子です。こういう所が大切です。(引き続いて質疑応答、座談会になり、大略次のようなお話があった)。

 

「敵に勝たんと欲する者はまず己に勝て!」

 

しつけの方法は何といってもまず第一に「腰骨を立てること」であります。日本の武士は一生あぐらをかかなかった人種であります。第二に小学五、六年の頃、即ち性の意識が目覚める頃に偉人の伝記を読ませます。第三には親に起こされずに一人で起きる子どもにする。以上の三つで性根が出来ます。

 

さらに第四にはテレビの誘惑に打ち勝つ人間になること。その方法はまず連続テレビを見ないで勉強ができるかということです。これが出来たら将来収賄を退ける力となりましょう。テレビに勝つことは己に勝つことです。教育の窮極は己れに勝つことである。具体的にはニチボーの大松監督であります。大松監督は宮本武蔵に源流を発する日本の鍛錬道を身を以って実践された方であります。その最後の原理は「敵に勝たんと欲する者はまず己に勝て!」すなわち「無我」であります。(了)

 

講演 「性根のある人間に」(5)

 

7月28日(火)

 

子どもを背負った婦人や老人には必ず席を譲る

 

具体的にはバスや電車に乗って、子どもを背負った婦人や老人が乗り込んだら、必ず席を譲ること。それがやれるかどうかが人間のわかれ目です。こうして常に自分を鍛えるのです。今日、こうした物の考え方が抜けているから、物事のすべてがはっきり致しません。

 

私は今年数え年七十歳ですが、この問題をこうして力をこめて語り得るのは、及ばずながら自分がこのことを実行しているからであります。今回、大阪から福井へ参ります車中、ヘリーゲルの「弓と禅」という本を読み返してきました。

 

ヘリーゲルは西洋人でありながら、真面目に弓道の修業をし、ついには免許皆伝を得た人でありまして、その体験を書いたのがこの「弓と禅」という本ですが、これほど東洋の道の修業を詳細にわたって書かれたものはありません。インテリの外人で東洋の鍛錬道への探究は大したことだと思います。

 

かえって私どもの方が、道はるかなるかなとの感を抱かざるを得ませんが、こういう趣が現在の受け売り民主主義のムードで吹き払われてしまったのであります。民主主義というものは、一つの生活の間理です。さらには様式の一つといってもよいでしょう。だが日本の民主主義は、西洋を受け売りしただけで、画餅に過ぎません。

 

ことはがきれになればなるほど、実は抜けてきます。このことを孔子は「巧言令色鮮牟仁」と申しました。学問の仕方もこの通りで、言葉がきれいであればあるほど、我々の血とつながらず、きれいなことばに溺れ、満足してしまいます。たとえば人間像とか、ヒューマニズムという言葉もそうです。

 

ヒューマニズムということを、自分自身のことばで自分の体で理解しなければならない。そうするとヒューマニズムとは、「忍びざるの心」(むごいことが出来ない人)ということでしょう。これらの新しいことばの中で、もっとも実体の分からないのは「主体性」ということばであります。

 

学問というものは、それを人様にお目にかける場合には、金箔として展示します。それは一見いかにも豪華絢爛ですが、しかしちょっと人差し指で触っただけでも破れてしまいます。だがそれを丸めて金の粒にすれば、もしそれを目つぶしに使ったら、相手を盲にすることもできます。真の学問とは、こういうものでなくてはなりません。