「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月11日(水)建国記念日。

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の章です。本日は第6章「人間出現の意義」の第5節「人類における文化と自然」の3回目で、この地上における人間的営為は、有為転変を免れ得ないと述べています。

 

ここでわたくしの言いたいことは、二つあるといってよい。その一つは、「幕藩体制」というが如きものは、「文明」とか「文化」などの考察領域には入れるべきではない。真の文明文化と称せられるものは、宗教や芸術というような「観念体系」のみと考えるが如きは、実に狭小な見解に過ぎないということである。何となれば、宗教・芸術という観念的な文化形態も、その基盤としては、政治・経済的な組織ないし体制を予想すべきだからである。

 

今一つのより重要な問題は、徳川幕府のように、人知の限りを尽くしたとも言える政治体制すら崩壊のやむを得なかったのは、そもそも何故かという問題である。

 

それに対して、今卑見を述べるとすれば、そこには所謂宇宙的真理というべき「調和の真理」の具現全現に、精魂の限りを尽くしたにも拘らず、かかる「調和の原理」を越えるともいうべき、無常転変の理という大自然の「大法」の支配を免れえないことを証示するものというべきであろう。

 

かくして、人類史上にその興亡起伏の観ぜられる幾多文明文化の推移転変も、その最根本的な原因としては、この地上における諸々の人間的営為も、結局はいわゆる有為転変を免れ得ないということである。

 

最後に今一つ述べたいと思うのは、そのような有為転変の因は、もとより自然界の方にも無いとは言えぬとしても、その大方は、人間社会の有限性に基因するという点である。その点をさらに突き詰めれば、我々人間が、自らの知性の有限なることを忘れて、大自然の大法に従わず、さらにはそれに背くが故という他ないであろう。

 

現に我々が当面している、西洋文明がその限界に達しようとしつつあるというのも、根本的にはその故といってよい。かの原爆の出現という一事をとってみても、よくそれらの一切を象徴していると言ってよいであろう。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月10日(火)観劇の日。

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の章です。本日は第6章「人間出現の意義」の第5節「人類における文化と自然」の2回目で、人知を絶するかの徳川幕府の政治体制さえ、永続し難かったことを指摘しています。

 

そもそも文明または文化と呼ばれるものは、すでに述べてように、大自然に対して人間自身がこれと取り組み、これに挑んだ所産だといってよいであろう。それ故その永続性を期し難いものがあるというのも、怪しむに足りない。このような観点に立って考える時、問題は自然そのものの側よりも、人間の側により多いとしなければならない。

 

今そのような側面に考察の光を当てるとすれば、一箇の文明ないし文化を支える主体としての民族、ないし人種に盛衰があるということである。それ故今それらの詳細について知ろうとする人は、すべからくトインビーの「歴史の研究」に就くべきであろう。

 

かの「奢る者は久しからず」との言は、ひとりわが国平家の運命のみならんやであって、この地上における人間的営為にして、この不変の宇宙的真理より免れ得る一物もないことは、ここに贅するまでもないことであろう。

 

ひとつの事例を求めるとしたら、それは徳川幕府である。かくいえば、徳川幕府の政治体制が、いかに水も漏らさぬような、人知を絶するに近いほどに周到なものだったかを、真に即実的に想起するを得ず、そこには「力」のバランスのもつ現実的な真理が、心憎さまでに組織化して実現せられていたかを知らねばなるまい。

 

ここでわたくしの言いたいことは、かような徳川幕府の問題ではなくして、そこまで周到に「我意」の抑制に上に立てられた徳川幕府すら、ついに永続し難かったということが言いたいのである。おそらく徳川幕藩体制の創始者たちはーー家康から家光に到る間の将軍、およびその補佐役たちと見てよいであろうがーーその持続の永続性を確信していたかに思われるのである。

 

何となれば、あらゆる点から見て、宇宙的真理ともいうべき「調和」の真理が、心憎いほど周到に考慮され、実現されていたからである。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月9日(月)

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第6章「人間出現の意義」の第5節「人類における文化と自然」の1回目で、「文明の没落」を唱えたシュペングラーを紹介し、讃えています。

 

人類史上を大観する時、文明ないし文化と呼ばれるものは、何ら固定したものではなく、常に死滅を免れぬものだということであった。それらが人間的営為の所産であるかぎり、常に盛衰興亡を免れえぬ運命にあるということである。

 

そもそも、文明といい文化というも、その根底に立ち還って考えれば、それがいかに雄大壮麗にして人目をそば立たしめようとも、畢竟それは自然に対して加えられた人為的努力の成

果に他ならぬわけである。その際、素材となるべきものは、結局大自然の提供したものであり、それに対して、造作を加えるのは人間の努力という他ないであろう。

 

この点は、例えば最近の石油ショックにより、石油産出国を除けばほとんど全世界が震撼させられたことの上にも明らかであろう。やがて問題は、世界的規模における燃料問題となるのは必至というべく、さらに根本的には、世界資源の問題として、人類を衝迫しつつあることは周知の事柄である。

 

この種の見解を初めて主張した一人として心に浮かぶのは、かの「文明の没落」を唱えたシュペングラーであるが、この書において「文明」と呼んだものは、他ならぬ西欧文明だったわけである。しかもかの書の出現した時代は、まだ西欧文明は、その最盛期の絶頂にあった時であるがーー

 

かかる天才的な洞見を抱いたところに、彼も人類史上にその名を刻んだ天才的思想家といえるであろうがーーほとんど何人もこれを首肯せず、いわば西欧文明に対する呪詛者、ないし弾劾者視せられたと言ってよいであろう。

 

そのような時期に、田舎新聞の一ジャーナリストに過ぎなかった彼の、この書によって「開眼」され、「歴史の研究」は成った、と率直に告白して毫も隠すところのなき点に、トインビーの世界的碩学との感を深くしたのである。

人間の間でなぜ不平等が生じるのか?

 

2月7日(土)

 

昨年の12月、無事に卒寿を通過しましたが、坐骨神経症で左脚の痛みから、毎日整形外科のリハビリへ通う日々が続きます。とは言え、与えられた望外のいのちに感謝しつつ、一日を大切に生きて行きたいと念じます。この「れいけいブログ」も、いのちの許す限りは続けたい!の心意気です。

 

目下は恩師である森信三先生の晩年の大作、「全一学」(日本人にふさわしい哲学)提唱の「創造の形而上学」の抜粋紹介です。できるだけ多くの方々に、森信三先生の「全一学」を伝えたいの一念から、難解な内容ながら理解できる範囲で紹介を続けたいと思います。

 

さて、本日の「土曜雑感」はフランス革命の先駆けとなった、ルソーの「人間不平等起原論」(本田喜代治、平岡昇訳、岩波文庫)です。人間の間で、なぜ不平等が生じるのか? 本書は社会の発展と共に不平等が生じ、発展していく過程を明らかにしています。第一部と第二部に分かれています。

 

第一部 人類には2種類の不平等がある

 

人類の中に2種類の不平等がある。その1つを「自然的または身体的不平等」と名づける。これは年齢や健康、体力の差と、精神あるいは魂の質の差から成り立っている。もう1つは、富裕さ、勢力などによる「社会的あるいは政治的不平等」と名づけることができる。

 

人間にとって恐るべき敵は、生まれながらの病弱とあらゆる種類の病気である。生活様式における極端な不平等、ある人々には過度の余暇,他の人々には過度の労働、富者を不消化で苦しめる美食、貧者の粗食、情念の過度の激発、精神の疲労困憊など、魂が永遠に蝕まれる無数の悲哀と苦痛である。

 

これこそ、我々の不幸の大部分は我々自身の仕業である。我々が自然によって命じられた簡素で一様に孤独な生活様式を守っていたとしたら、これらはほとんど避けられていたであろう忌まわしい証拠である。以上、身体的な人間を考察したが、次に形而上学的および道徳的側面から眺めてみよう。

 

自然はすべての動物に命令し、禽獣は従う。しかし、人間は自分が承諾するも抵抗するも自由であることを認める。この自由の意識において、魂の霊性が現れるのである。選択する力は、純粋に霊的な行為に他ならないからである。

 

もう1つ、両者を区別する極めて特殊な特質が存在する。それは自己を改善する能力である。周囲の事情に助けられ、すべての他の能力を次々に発展させ、我々の間では種にもまた個体にも存在するあの能力である。しかし、人間はこの改善能力によって老衰やその他の事故のため獲得したすべてのもの失い、禽獣より低い状態になり下がる。

 

第2部 不平等の到達点

 

人間の最初の感情は自己の生存の感情であった。その最初の配慮は自己保存の配慮であった。土地の産物は人間に一切の必要な援助を提供し、本能によってそれを利用した。生まれたばかりの人間の状態とはこのようなものであった。ところが、色々の困難が現れてきて、それを克服することを学ばなければならなかった。

 

富を表す記号(貨幣)が発明されるまで、富は土地と家畜とからしか成り立ちえなかった。それが人々の所有できる唯一の財産であった。ところが、相続財産の範囲が増大し、互いに接触するほどになった時、ある者は他の者を犠牲にしなくてはもはや拡大することができなくなった。

 

そこから支配と屈従、暴力と掠奪が生まれはじめた。富める者も支配する快楽を知るようになると、隣人たちを征服し、隷属させることしか考えなかった。このようにして平等が破られ、それに続いて最も恐ろしい無秩序が到来した。

 

富める者の横領、貧しい者の略奪、万人の放縦な情念が人々を強欲に、野心家に、邪悪にした。強者の権利と最初の占有者の権利との間に、果てしない紛争が怒り、それは闘争と殺害によって終熄するほかはなかった。

 

こうした不平等をたどってみると、法律と所有権の設立がその第1期(富者と貧者)であり、為政者の職の設定が第2期(強者と弱者)、最後の第3期(主人と奴隷)は合法的な権力から専制的権力への変化であり、これが不平等の最後の段階である。

 

不平等は我々の能力の発達と人間精神の進歩によって、その力をもつようになり、増大してきたのであり、最後に所有権と法律との制定によって、安定し正当なものになるということになる。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月6日(金)抹茶の日。

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第6章「人間出現の意義」の第4節「世界史と文明の興亡」の3回目で、ヨーロッパ文明の変容の方向は、大自然への復帰と指摘しています。

 

ではそのような変容を不可避とするかは、何故と考えたらよいであろうか。それについて強いて言うとしたら、やはり「時」という、ある意味ではこの地上における最冷厳な威力という他ないであろう。

 

ところで如上ヨーロッパ文明の前途であるが、何人も予見し得る者はないであろうが、この際一つ言い得るものがあるとしたら、それは西洋文明と称せられているものの特質は、いわゆる合理主義と、それによる自然の征服性に成立していると言えるであろう。

 

その点よりして、将来何らかの変化変容が迫られるとしたら、この点にその端を発するのではあるまいか。もし端的に言うとすれば、極限に達したともいうべき、その「反自然性」の反作用としての変容ということであって、これこそ先に述べた「易」の哲理からする必然というべく、否、その絶対必然的不可避性だということである。

 

現在のヨーロッパ的機械文明が、いかにその唯一絶対性を誇示しようとも、必ずいつかは、変化と変容を免れ得ないというのは、正に宇宙的真理と言ってよく、古来それを漢民族は「易理」と呼んだのであり、釈迦の菩提樹下の自覚といわれる、縁起法としての無常観も、この点ではほとんど符節を合するものがあるともいえるであろう。

 

しかも、かかる変化変容を導くのが、これまでの「反自然」への反作用だとしたら、その方向は大自然への復帰であり、「回帰」といって良かろうが、その予見は何人にも全く不可能という他なく、唯々、徐々なる「時」の示現に待つ他ないといえよう。しかもそれを導く「力」は、人間を通して作用らく他ないことは、改めていうを要しないであろう。

 

即ち所謂「天・人の合一」であって、けだしまた、わたくしのいわゆる「第二の創造」の問題というべきであろう。

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月5日(木)

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第6章「人間出現の意義」の第4節「世界史と文明の興亡」の2回目で、トインビーの出現により、ヨーロッパ文明が唯一絶対の文明とは言えないのではないか、との懐疑と反省を述べています。

 

個人の生には、その有限性の限界を越えるものとして、わが身の分身ともいうべき、子孫への“いのち”の断続的継承の可能が許されているわけであって、宗教的には、ここに絶対者の大愛の最も深厚な、一顕現を見るといってよい。

 

かくして、人間的生の持続は、いわゆる直線的持続ではなくて、断続的持続であり、延長というよりも持続という方が当たるといってよい。即ち、非連続の連続である。この理はひとつの民族についても、一箇の生命体、即ち“いのち”の集団的存在である以上、その妥当する趣は、一種の類比的妥当性が見られぬわけではない。

 

しかるに、トインビーが唱えるまでは、かかる自明以前というべき歴史的真理即事実が、何故人々によって明確に認識されなかったのであろうか。かくは言っても、例えばエジプト文明、ないしギリシャ文明の消滅死滅ということは、何人もこれを知らないわけではない。にも拘わらず、いわゆる文明にも盛衰興亡があることが、重大な問題として取り挙げられなかったのであろうか。

 

それについて、考えられることは、トインビー自身もオックスフォード大学を出て、そこで研究を続けつつ学生を教えていた間は、かような大問題にも何ら気づくところがなかったという事実である。しかるに駐英トルコ大使付きの研究員となり、彼は愕然として驚いたのである。

 

即ちこの地球上には、所謂ヨーロッパ文明とは異種の文明が存在しており、その根本性格において全く異なる種類の異種の文明の存することを、躯を以って体験したのであり、後年大成した世界文明の興亡に関する、巨大な研究への受胎が行われたのである。ここでわたくしが言いたいのは、彼のお陰でヨーロッパ文明が必ずしも唯一絶対の文明とは言えないのではないか、という懐疑と反省である。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月4日(水)立春。

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第6章「人間出現の意義」の第4節「世界史と文明の興亡」の1回目で、存在する一切の事物は、「時」の破壊力に抵抗しうる期間だけが存在期間だと述べています。

 

トインビーは、古来の人類文化の中から、主立ったもの十四種を選んで、それらの盛衰興亡の幾変遷を明らかにしようとしたが、これはかつて何人も試みなかった事柄だけに、人類の将来に対しても、幾多の示唆と教訓を与えていると言ってよい。その中には、現在当面している、西洋の自然科学的な機械文明の将来に関しても、幾多貴重な示唆と教訓が含まれているかに思われるのである。

 

そもそも歴史とは、ひとつの民族の創造的意志のあゆみであり、その所産を文明文化と称するともいえよう。随って、当該民族の創造的意志が希薄化したり、ないしは脆弱化すれば、その民族の文明文化の衰退するのは、当然にして不可避というべきであろう。

 

そもそも、この地上に在りとし在るものに対して、生(いのち)ある物に死滅の期あるは、まさに不可避の必然というべく、これかの釈尊の菩提樹下の悟りの内容と伝えられる、縁起法の真理に外ならない。否、ただに生ある者が死滅を免れぬばかりか、生なき物とされる鉱物その他無生の物象にしても、「時」の破壊力の前には、いつまでもその存在を保持しうる物はないはずである。

 

このように考える時、この地上に存在する一切の事物は、この巨大なる「時」の破壊力に対して抵抗しうる期間だけが、その物の存在期間だといってもよいであろう。否、かかる「無常」の真理は、ひとりこの地球上の一切物に対して不可避なばかりか、かの無限の天空にかかって、永劫の存在とさえ思える太陽その物すら、ついには免れ得ない運命というべく、厳密には時々刻々に消滅に向かいつつあるべきというべきであろう。

 

今このように考えて来る時、人間的営為の一つである「文明・文化」に盛衰興亡のあるが如きは、まさに自明以前の自明事というべきであろう。けだしそれは、有限存在たる人間存在自身の生み出したものだからである。・・・個人における絶対的有限性とは、その生死にほかならない。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月3日(火)節分。冬の土用明け。

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第6章「人間出現の意義」の第3節「人間の出現と歴史のあゆみ」の3回目で、「人間」の出現による変化は、社会や文化というより、「歴史」という概念の方がふさわしいと述べています。

 

互いに相関連する三種の概念のうち、歴史という概念はもっとも包括的であり、社会という概念は、かかる歴史的展開の主体、ないし基盤としての人間集団を意味すると言ってよいであろう。ではこれらの二者に対して、「文化」と呼ばれるものは如何かといえば、それはかかる人間集団によって生み出された精神というか、むしろ精髄というべきであろう。

 

以上三種の類縁概念のうち、それらを包括させる概念を選ぶとすれば、やはり歴史という概念を選ぶ他ないであろう。何となれば、文化という概念はもとより、社会という概念すら、そこにはある種の内容的なものを指示されてはいるが、これに反して歴史という概念が直接意味しているものは、内容よりもその展開であり流転だからである。

 

それ故、「人間」の出現によって、この地上に招来せられる変化を、しいて一言で現わすとすれば、社会や文化という概念よりも、むしろこの「歴史」という概念のほうがふさわしいと言えるであろう。何となれば、歴史という概念は、そのままその内容である社会、文化の内容を予想させるものだからである。

 

この節の名称として「人間の出現と歴史の歩み」と題したゆえんである。人間の出現によって初めて、そこに歴史の歩みが始まるとの謂いである。即ち、人間の出現と歴史の開始とは、概言すれば同時相即だとの意である。

 

ついでに、歴史の開始と歴史意識の成立とは、必ずしも同時相即的とは言い難いという、現実的真理の一面に言及しておく必要があるであろう。このような処にも、現実というものの持つ深さと複雑さがあると思うのである。・・・総じて歴史的意義というものは、過ぎ去った過去に対する回顧と反省によって成立するということである。

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月2日(月)

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)です。本日は第6章「人間出現の意義」の第3節「人間の出現と歴史のあゆみ」の2回目で、「人間の出現=文明の開始=社会集団の成立という、三而一体的なる文化構造を概言し得る」としています。

 

我われにとってより重要な関心事は、「ヒトと人間」との中間段階から、ある種の文化を生み出した人間の出現したのは、現在からいかほど以前のことかという問題だといえるであろう。

 

「人間」というコトバは、和辻哲郎博士がいみじくも分析されたように、「人と人との間柄」的存在であり、ある程度の文化をもち社会生活をしている存在を意味するようになり、随って、それ以前の人間存在に対しては、人と動物との中間的存在として、「ヒト」と名づけて「人間」存在と区別することにしたかと思われる。

 

「人間」の出現は、同時に文化の出現を意味して、両者はほぼ同時相即といってよいであろう。随って、かかる意味における「人間」の出現は、いわゆる人間社会の出現を意味するが故に、その成立の時期をいかに考えるかは、これまた重大な難問だといえるであろう。

 

この点については、ヒトの出現時期の推定の困難さに比べれば、はるかに容易といってよく、大体今から七千年ほど以前のことと考えられているようである。それは人類最古の文明といわれるエジプト文化、中国最古の文明と考えられている殷時代の文化を考えての推定といってよいであろう。

 

以上わたくしは易解を念として、「人間出現は文明の始源」といったが、しかしこれは同時にまた、そのような文明を創生せしめた人間集団、ないしは小規模「社会」の出現を意味するといってもよいであろう。かくして、人間の出現=文明の開始=社会集団の成立という、三而一体的なる文化構造を概言し得るわけである。

 

しかるにこれら三者を、さらに包括する概念としては、一応「歴史」という概念を以ってすることもできるであろう。

 

土曜雑感 「1メッセージ」――究極にシンプルな伝え方

 

1月31日(土)

 

結果を出す人は、一行にすべてを込める。自分のメッセージを1つに絞って一文で伝える。プレゼンや会議、面接など、あらゆる場面で効果を発揮する「1メッセージ」の極意を伝授しするのが「1メッセージ――究極にシンプルな伝え方」(杉野幹人著、ダイヤモンド社)である。

 

メッセージとは何か?

 

そもそもメッセージとは何か?メッセージとは相手に意味のある意見だ。定義すれば、「メッセージとは、相手の論点に対する自分の答えを言葉にしたもの」である。「1メッセージ」とはメッセージを1つに絞って一文にしたもの。

 

それではなぜ、1メッセージで伝えるのか。それはより伝わりやすいからだ。伝わりやすい理由は、「SN比」が大きいことにある。SN比は主に情報通信の分野で用いられるが概念。

Sはシグナルで、相手にとって意味がある情報。Nはノイズで、相手にとって雑音。SN比とは、SとNの強さの比を意味する。

 

 ・SN比=相手に意味がある情報の強さ(S)/それ以外の情報の強さ(N)

 

SN比が大きいと相手に伝わりやすく、SN比が小さいと相手に伝わりにくくなる。1メッセージはあらゆる伝え方の中で、最もノイズを減らし最もSN比を大きくできる伝え方。

 

だが、1メッセージをつくるのは簡単ではない。メッセージの絞り方、言葉の磨き方を最大限に工夫する必要がある。そのための技術が「焦点化」「先鋭化」「結晶化」の3つである。

 

⚫️「焦点化」――論点を絞り込む

第一の技術は、メッセージを1つに絞る時の「焦点化」だ。

*焦点化のコツーー伝えたければ、ます「傾聴」する

人を動かす1メッセージを伝えたければ、メッセージを一番大事な論点に向けて絞り込む。まずは、相手の立場になって考える。ただし、いくら考えても想像できない場面もある。そんな時には、相手の話を聞くとよい。

 

*焦点化のコツはストレートに「質問」する

傾聴しても相手が論点を明示してくれないこともある。そんな時には、相手にストレートに質問するのが一番」だ。相手が何を一番気にしているかを質問し、一番大事な論点を教えてもらい、それ1つに絞って自分のメッセージを届ける。

 

⚫️「先鋭化」――答えを尖らせる

第2の技術は、メッセージを一文にまとめる「先鋭化」の技術だ。

*先鋭化では、尖った答えにこだわる

「先鋭化」とはメッセージを否定に開かれた尖った答えにまとめること。否定に開かれていること、すなわち否定が可能であることが大事だ。尖った答えだからこそ、興味をもって考えやすくなり、相手にも伝わる。

 

*先鋭化のコツ――「反論可能性」を高める

先鋭化の最初のコツは、自分の答えの「反論可能性」を高めることだ。反論可能性とは、議論によって反論できる余地である。反論可能性がないメッセージを伝えると、当たり前で相手にとって意味のない情報になる。

 

⚫️「結晶化」――生々しい言葉を使う

第3の技術は、メッセージの言葉を磨き固める「結晶化」の技術だ。結晶化では、メッセージを「生々しい言葉」に磨き上げる。生々しい言葉とは、相手が具体性をイメージできる言葉のこと。

 

*結晶化のコツは、迷ったら「小さな言葉」を使う

小さな言葉は具体的である。会社の面接で、応募者が次の1メッセージで答えるとする。

「地方を活性化させたいと思って、日々活動しています」。同じ人が「松山のため、松山城の紹介を毎日インスタに投稿しています」。後者の方が直感的で生々しい言葉として伝わるのではないか。こう言われたら。相手が具体的に何に関心をもって、どんな1日を過ごし、どんな価値観の人か、より伝わってくるだろう。

 

*結晶化のコツーー「数字」でピンポイントに伝える

数字にできるところは数字に置き換えて伝えると、生々しくなり、相手が具体的にイメージしやすくなる。数字で伝えるなら、「約」は抽象的だから、端数にこだわろう。たとえば、「様々の場面でリーダーをしてきました」。もう一つは「6つの集団で計百147人を率いるリーダーをしてきました」の方が生々しい言葉になり、相手が具体的にイメージできる。(「TOPPOINT」から抜粋)