4月14日(火)春の高山祭〜15日。
森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の提唱です。本日は第9章「救済・自証・献身」の第2節「いのちの救済とその自証」の4回目で、「我見」からの離脱に仏教界に生まれた「自力」、「他力」を説明しています。
かくして人間存在にとって、最根本的というべきこの「我見」を、いかにして離脱するかに、古来大別して二種の宗教的方便があるといえよう。
わが国の仏教界に生まれた用語としての自力及び他力という語を、便宜上ここでも借用するとすれば、このような罪深きこの自分という人間は、自己の力だけではとうてい救われないゆえ、唯一念の念仏唱名によって、絶対者たる弥陀の本源力に打ち委せようというのが、いわゆる他力の立場である。
これに反して、「只管打坐」に徹して、この肉の体に根を下ろしている根深い我見も、それによって根切りにしようとするのが、いわゆる自力教の教えといえるであろう。だが、この際看過の許されない一事は、以上の二者は共に“いのち”の立場を離れていないという点である。否、いずれもその途こそ違え、“いのち”の徹底究尽というべき点であろう。
それにつき、わたくしの常に思うて忘れ難いのは、かの易行道を称せられる他力教においても、「易行にして難信」の語があるということである。この点に対してわたくしの疑問を裏づけるものとしては、篤信の妙好人の言動を録したものを読んで、いつも驚かされるのは、「易行」と言いながら、真の救済に到り着くのにいかに長い歳月を要しているかということへの驚きである。
しかもかかる長歳月が、一体何のために過ごされているかというに、いわゆる「聞法」の一事のために他ならない。即ち聞きに聞いて、聴きぬかなければならぬという「易行の法」だということである。
かくしてわたくしの感慨からいえば、真の他力の教法も易行とは言いながら、その難信たる点では自力による坐りに坐り抜く、「只管打坐」と、その方便の外面的な形態こそ違え、根本的にはほとんど異なるところなきを覚えしめられるのである。