「全一学」提唱の「創造の形而上学」
2月11日(水)建国記念日。
昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の章です。本日は第6章「人間出現の意義」の第5節「人類における文化と自然」の3回目で、この地上における人間的営為は、有為転変を免れ得ないと述べています。
ここでわたくしの言いたいことは、二つあるといってよい。その一つは、「幕藩体制」というが如きものは、「文明」とか「文化」などの考察領域には入れるべきではない。真の文明文化と称せられるものは、宗教や芸術というような「観念体系」のみと考えるが如きは、実に狭小な見解に過ぎないということである。何となれば、宗教・芸術という観念的な文化形態も、その基盤としては、政治・経済的な組織ないし体制を予想すべきだからである。
今一つのより重要な問題は、徳川幕府のように、人知の限りを尽くしたとも言える政治体制すら崩壊のやむを得なかったのは、そもそも何故かという問題である。
それに対して、今卑見を述べるとすれば、そこには所謂宇宙的真理というべき「調和の真理」の具現全現に、精魂の限りを尽くしたにも拘らず、かかる「調和の原理」を越えるともいうべき、無常転変の理という大自然の「大法」の支配を免れえないことを証示するものというべきであろう。
かくして、人類史上にその興亡起伏の観ぜられる幾多文明文化の推移転変も、その最根本的な原因としては、この地上における諸々の人間的営為も、結局はいわゆる有為転変を免れ得ないということである。
最後に今一つ述べたいと思うのは、そのような有為転変の因は、もとより自然界の方にも無いとは言えぬとしても、その大方は、人間社会の有限性に基因するという点である。その点をさらに突き詰めれば、我々人間が、自らの知性の有限なることを忘れて、大自然の大法に従わず、さらにはそれに背くが故という他ないであろう。
現に我々が当面している、西洋文明がその限界に達しようとしつつあるというのも、根本的にはその故といってよい。かの原爆の出現という一事をとってみても、よくそれらの一切を象徴していると言ってよいであろう。