「全一学」提唱の「創造の形而上学」
4月9日(木)
森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の提唱です。昨年の9月18日(木)から同書を抜粋してきましたが、いよいよ最終段階へ入ってきました。
本日は第9章「救済・自証・献身」の第2節「いのちの救済とその自証」の1回目で、「人間は不完全存在なるが故に苦悩を免れない」と述べています。
人間はその“いのち”の奥底においては、何人もつねに救いを求めていると言ってよいであろうが、しかしそれが常に“いのち”の自覚的希求となっているとは、実は言い難いのである。それというのも、多くは苦悩よりの離脱への希望という程度が、大方だと言ってよいからである。
救いないし救済を求めるということになると、そのような希求は、“いのち”の根底への根ざしが深きが故と言ってよいからである。だが、如何なる人間も何らかの苦悩は免れ難く、それは人間が被造物としての有限なるが故という外なく、不完全存在との謂でもある。
人間は不完全存在なるが故に苦悩を免れないのであり、その苦悩とは、かかる制約からの離脱を欲しながら、しかも容易には叶えられない処から生ずると見てよいわけである。即ちお互い人間は、自己並びに自己の周囲が、わが意のままにならぬことを以って、悩み苦しむのである。
しかるに、「神がもし全治全能だとしたら、何ゆえ人間をかくも不完全に造ったのか、という輩も時にないでもないようである。それにしても、かようなコトバは、何ゆえ背理なのであろうか。それは人間の出現ということは、絶対的自己限定として、人間は神の分身に他ならないからである。
では一歩進めて、「何ゆえわれわれ人間の知性は、かくも有限なのであろうか・・・」と問う人も無いとはいえまい。だがこの点について、考えなければならないことは、我われに賦与された知性は、自己の対象について知り得る知性が恵まれているのであって、万一これが恵まれなかったとしたら、一日といえどもその「生」を維持し得ないであろう。