「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

4月3日(金)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の提唱です。昨年の9月18日(木)以来、同書から抜粋してきましたが、残りは2章を残すのみとなりました。

 

本日は第9章「救済・自証・献身」の第1節「救済への希求と自証」の1回目で、「すべては“いのち”の自証の問題であって、この根本を離れては何事も真の本質的探究は不可能」と述べています。

 

前章で「時と永遠」の問題について多少の論究を試みたが、それは世上にいわゆる「時間と永遠」に関する哲学論とは、いささかその趣を異にする点もないではあるまい。わたくしの意図したものは、「時と永遠」という観点から、実は“いのち”の「自証」を試みようとしたに他ならない。

 

あるいは“いのち”の「自証」という立場から、「時と永遠」の本質に対して、いささかの微光を照射しようと試みたともいえようか。それというのも、「時と永遠」という問題ほど、“いのち”の内的構造を明らかにし得る問題は、他には容易には見出し難いと思うが故である。

 

かくしてわたくしにとっては、凡てが“いのち”の自証の問題であって、この根本処を離れては、何事も真の本質的探究は不可能というべきかと思われるのである。同時にこれこそが、実はこの書をつらぬく最根本的な立場と言ってよいであろう。

 

では、何故かような困難な問題をテーマとして採り上げるに至ったのであろうか。端的には、わたくし自身の心の最奥処より発する“いのち”の最根本的な希求であり、さらにはその要請だったと言ってよいからである。

 

ではさらに一歩をすすめて、わたくしの“いのち”は、何故にこのような最至難の問題と取り組むべく、わたくしを衝迫して止まぬのであろうか。想うにその最大最深の因は、今やわたくし自身が人生の終末に近づきつつあるがゆえであろうか。即ちこの地上における残り少なき“いのち”とて、この“いのち”自身の根本究明を、今や不可避の要請とするに到ったかと思うのである。