日蓮上人――仏僧③
12月27日(土)
内村鑑三(1861年〜1930年)により1908年(明治41年)に刊行された英文著「Representative Men of Japan」の鈴木範久よる翻訳「代表的日本人」(岩波文庫)から、新日本の創設者としての西郷隆盛、封建領主の上杉鷹山、農民聖者の二宮尊徳、村の先生の中江藤樹、仏僧の日蓮上人の5名を紹介しています。本年の最後は日蓮上人の最終回です。
日蓮の生涯は世の権力、支配者との絶えざる戦い
そのころ国土を襲った多くの災難を契機にして、今なお代表的名著とみなされる「立正安国論」を著しました。その救済の道は、最高の経典である法華経を信奉することにあります。その賜物を拒んだ結果が、内乱と外敵の侵略であると指摘したのです。
「立正安国論」はそのまま鬨の声であり、決然とした宣戦布告でありました。名君の一人北条時頼は、この熱狂徒を首府から放逐することで弾圧をはかろうとしました。小さな仲間は力づくで解散させられ、その指導者は流人として遠国に追放されることになりました。
「立正安国論」以後の十五年間は、日蓮の生涯にとりこの世の権力、支配者との絶えざる戦いでありました。まず伊豆に追放されましたが、その地で過ごした三年の流刑生活の間にも改宗者をつくりました。
鎌倉に戻ってからも、その頭上にふりかからんとする破滅をものともせず、頑固坊主に復したのです。ある日の暮れ、数人の弟子を従え布教して回っていると、突然、剣を手にした一群の男たちの攻撃を受け、三人が殺され日蓮は額に一つの傷を負いました。
本当の危機は1271年に訪れます。これまで僧侶の死刑は禁じられ、日蓮の生命は失われるまでには至らなかったのです。しかし、わが国の既成宗教、また聖俗を問わず権力者に対して浴びせかける日蓮の悪口を抑えきれず、北条氏は例外的な非常処置として、日蓮を死刑執行人の手に渡す決意をしました。
これが宗教史上名高い「辰の口の法難」事件です。泰然自若として祈りながら最後の太刀を受けんとする、威厳に満ちた日蓮の態度を見たなら、首切り役人が怯えたことは想像できます。異例の死刑を決めた為政者も恐怖に襲われ、急ぎ死罪に代わり流刑に処するとの使者を走らせたのです。
日本人のなかで最高の独立人
今度は最重罪悪人の流される地として知られる、日本海の孤島佐渡に流されました。この島にあって五年もの期間を生きのびた事実は奇蹟でありました。以来、佐渡と島に隣接した多くの人たちが住む越後は、日蓮の教えの熱心な信奉国になりました。
1274年、日蓮の不屈の勇気と忍耐は、今や鎌倉幕府の恐怖と共に尊敬をも招きました。あわせて外寇(がいこう)の予言が当たり、蒙古来襲のあったことが日蓮を首府に帰還させる許可をもたらしたのです。日蓮の精神はその後七百年間にわたり、勢力を保つことになります。
この人物も今は五十二歳、一生の大半を世との戦いに過ごしてきました。「インドの尊師」にならい、静かな瞑想と弟子の教育で余生を終わりたく、富士山の西方、身延山に居を定めました。南の方には壮大な眺めの太平洋、近くには崇高な山々がつらなる地でありました。
恐れをもっとも知らぬ人間、この人の勇気は自分が仏陀の、この世への特別の使者であるという確信から生じたものでした。日蓮自身は「海辺のいやしい身分の子」でありましたが、法華経の伝道者たる能力においては、天地全体に匹敵するほど重要でありました。
日蓮の私的な生活は、この上なく簡素でありました。鎌倉の草庵に居を定めて以来、三十年後の身延でも同じような建物に住んでいました。裕福な弟子もでき、望めば思いのままに安楽な生活を送ることできたのです。
「仏敵」と呼んだ者には苛烈でありましたが、貧しい人たち、虐げられた人たちに対しては、まことに優しい人物でありました。弟子たちに宛てた手紙には、あの記念すべき「立正安国論」の炎のような烈しさとはうって変わり、実にやさしい気持ちがこめられています。
日蓮から十三世紀という時代の衣裳と、批判的知識の欠如、内面に宿る異常気味な心(偉人にありがちな)を除去してみましょう。私どもの眼前には、世界の偉人に伍しても最大級の人物がいるのがわかります。日本人のなかで、日蓮ほどの独立人を考えることはできません。
その創造性と独立心とによって、仏教を日本の宗教にしたのであります。他の宗教がいずれも起源をインド、中国、朝鮮の人に持つのに対して、日蓮宗のみ純粋に日本人に有するのであります。(「代表的日本人」了)