全一学」提唱の「創造の形而上学」
12月25日(木)クリスマス。
森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日から第5章「陰陽論――東方的動的二元論」の第1節「“いのち”の自証の形而上学」の2回目です。
華厳経の「重々無尽論」(世界の実相は個別具体的な事物が相互に関係し合い、無限に重なり合っている)とライプニッツの「単子論」は同一の原理に立つ世界構造論であり、本質的には全く相似の世界観体系が東西の思想史上にいかにして出現したかは、文字通り「奇跡」という他は考えようがないと述べています。
では、何故このようなことがあり得たかというに、ひとえに“いのち”というもの自身の本質に根ざすものというべきであろう。それというのも、“いのち”そのものが相互に相呼応し、互いに影響し合うところに、その根本本質があるが故である。
“いのち”というものは、自己と相対するものとの間に、生命呼応の現象を生じるのであって、常に他物を触媒としつつ、自らの内面を展開するのである。即ち自発・自展・自開というのが“いのち”の本質といえるが、それには他の“いのち”がその触媒として要せられるのである。
かくして、“いのち”と“いのち”は、互いに主体となり客体となり、さらに互いの触媒となりあって他の“いのち”の内容を引き出し、展開する作用らきをするのである。これは“いのち”の相互呼応というべく、“いのち”が“いのち”と響き合い、互いに影響し合うといってよい。
以上は主として二つの“いのち”における、相互相照性を考えてみたわけであるが、世界においてはその数は真に無量多であるゆえ、それら被造物の間に作用らく相互相映性は真に無限であるが、それに対して無尽というのは、無限という語によって、直線的なる無限延長性の如きものと、誤り解せられるのを防がんがためだといってよい
本来的な意味において無限と無尽との間には、さまで相違もあるまいに、何ゆえ無尽という語を用いるかというに、「無尽」の方が“いのち”の無限なる相互相照・相映性を表現するのに、やや相応しいかと思われるが故である。何故そうかというに、無尽という語はその本来的用途において、最厳密義において用いられたのが、華厳の重々無尽縁起説においてだからである。