「全一学」提唱の「創造の形而上学」
12月15日(月)
森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は第4章「全一生命の秩序と体系」の2節「生命の根本原理としての『調和』」の2回目で、大宇宙原理ともいうべきものとして「調和」の原理を強調しています。
もしこの一語を以って万物を支配しつつある、これを支えている根本原理として、この「調和」の原理が最も妥当性があり、その妥当領域が最も広大ではないかと考えるのである。
試みに、これを大にしては、天体における無量の星辰の存在は、物理的には一応引力と斥力によって説明できるであろうが、さらに大観の立場に立つとすれば、そこには更に巨大な、否、絶大なる動的原理即ち法則として、「調和」の原理ないし法則が支配していると言えるのではあるまいか。
さらにそれとは正逆に、我々自身の脚下に眼を転じる時、そこでも到るところで作用らいているのは、この調和の原理だといってよい。例えば植物は人間の吐く炭酸ガスを吸収摂取し、その代わりに人間に必要不可欠な酸素を大量に放出して供給しつつある。
ここにも大宇宙原理ともいうべきものとして、この「調和」の原理の現成を見るといってよい。かくしてこの大宇宙を貫いている諸もろの真理・原理及び諸法則などのうち、その適用の範囲が最も広大であり卑近なものとして、この「調和」の原理を以って第一と考えたのである。
かねて思うことは、わが国の哲学界の用語の難解さであろうか。用語が難解だということは、その内容が未熟なことの何よりの証左といってよいであろう。その難解さの一因は、明治以来今日まで哲学界を支配してきたもの、結局はドイツ哲学といってよいであろう。
そのドイツ哲学は、西欧の哲学思想の中でも最もロゴス的なものであって、心情的(エモーショナル)な日本人には、その理解を最も難とするものだといえるであろう。かくして今やわれわれ日本民族は、まずその哲学用語から根本的な再検討を要するというべく、それにはーーこの書で盛んに“いのち”という語を用いたのはその一つの試みといってよいがーー通常のコトバのからの援用を試みるべきであろう。