「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

12月15日(月)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は第4章「全一生命の秩序と体系」の2節「生命の根本原理としての『調和』」の2回目で、大宇宙原理ともいうべきものとして「調和」の原理を強調しています。

 

もしこの一語を以って万物を支配しつつある、これを支えている根本原理として、この「調和」の原理が最も妥当性があり、その妥当領域が最も広大ではないかと考えるのである。

 

試みに、これを大にしては、天体における無量の星辰の存在は、物理的には一応引力と斥力によって説明できるであろうが、さらに大観の立場に立つとすれば、そこには更に巨大な、否、絶大なる動的原理即ち法則として、「調和」の原理ないし法則が支配していると言えるのではあるまいか。

 

さらにそれとは正逆に、我々自身の脚下に眼を転じる時、そこでも到るところで作用らいているのは、この調和の原理だといってよい。例えば植物は人間の吐く炭酸ガスを吸収摂取し、その代わりに人間に必要不可欠な酸素を大量に放出して供給しつつある。

 

ここにも大宇宙原理ともいうべきものとして、この「調和」の原理の現成を見るといってよい。かくしてこの大宇宙を貫いている諸もろの真理・原理及び諸法則などのうち、その適用の範囲が最も広大であり卑近なものとして、この「調和」の原理を以って第一と考えたのである。

 

かねて思うことは、わが国の哲学界の用語の難解さであろうか。用語が難解だということは、その内容が未熟なことの何よりの証左といってよいであろう。その難解さの一因は、明治以来今日まで哲学界を支配してきたもの、結局はドイツ哲学といってよいであろう。

 

そのドイツ哲学は、西欧の哲学思想の中でも最もロゴス的なものであって、心情的(エモーショナル)な日本人には、その理解を最も難とするものだといえるであろう。かくして今やわれわれ日本民族は、まずその哲学用語から根本的な再検討を要するというべく、それにはーーこの書で盛んに“いのち”という語を用いたのはその一つの試みといってよいがーー通常のコトバのからの援用を試みるべきであろう。

土曜雑感 卒寿!生かされて90年②

 

12月13日(土)正月事始め。

 

予期せぬ肺炎に襲われる!

 

次に健康管理です。持病の肺気腫は今までの内科から専門医に代わってから、3ヶ月に一度の検診。治療は点滴のみで、飲み薬はすべて中止し、吸引薬のテリルジーを一日一回吸引するだけ。「よほど薬との相性がよかった」(医師談話)とのことです。排尿障害の改善には朝食後タダラフィル1錠、就眠前にハルナール1錠。

 

歯科医は3ヶ月に1度の定期検診。50歳頃に虫歯が痛くなるとつい我慢ができず、「抜いてください」と歯医者さんへ飛び込んだのが実態で、奥歯はすべて入れ歯へ。歯医者さんは「20―80」を目標にしているようです。すなわち「80歳で20本の歯」が理想とか。この目標は何とか突破できました。

 

昨年の5月、左足が散歩でシビレを感じて整形外科へ。40日間の腰椎、頸椎を温めるリハビリ。今年は4月頃から右太腿に痛みを感じ、エレベーターの停止までに治さなければと整形外科へ。週に一度の注射4回で治しました。目下の気がかりは体重の大幅な自然減少。

 

ところが人生はまさに無常!何が起きても不思議のない下り坂の真っ只中。エレベーター更新工事が終わりホッとしている間もなく、6月26から不明の熱!風邪かと思い、念のため医師の診断、レントゲン検査の結果は肺炎とのこと。食欲はなく毎日点滴の日々を一週間。

 

1ヶ月ほどで完治となったものの、その後も咳に悩まされる日々が続き、減少していた体重をさらに3キロ減らすことに。一旦減少した体重を元に戻すことは絶望的です。さらに11月へ入り、坐骨神経症で左足のシビレが再発、連日整形外科のリハビリへ。これが老いという現実と諦めざるを得ない日々。卒寿への壁は予想以上に高かったのです。

 

親鸞なくして「恩の形而上学」の誕生はなかった!

 

学生時代から何度も挑戦し、挫折を繰り返しているのが「歎異抄」と「「正法眼蔵」です。森信三先生の処女作「恩の形而上学」にみる「絶対必然即最善」の根底には、親鸞の「他力」による「自覚体系」があります。親鸞なくして「恩の形而上学」の誕生はなかったのです。

 

森信三先生「一日一語」の8月29日、次のコトバを残しています。「親鸞は『歎異抄』の冒頭において、『弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて』という。その不思議さを、親鸞と共に驚きうる人が、今日果たして如何ほどあるといえるであろうか」。

 

先生の言われる冒頭の「弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて」が、歎異抄の真髄のようですが、冒頭の第1章から極めて難解です。金子大栄先生の解説(岩波文庫)では、「念仏する者を、光明の中に摂(おさ)め取りたもう。それを阿弥陀仏と名づく。これ即ち阿弥陀仏は念仏者にその徳を現し、念仏者は阿弥陀の光明の中に自身を見出すのである」。

 

念仏者を救うのが阿弥陀さまの誓いです。作家の五木寛之は「すべての人びとをひとりのこらずその苦しみから救おうというのが、阿弥陀仏という仏の特別の願いであり、誓いである。その大きな願いに身をゆだねるとき、人はおのずと明日のいのちを信じ、念仏せずにはいられない心持ちになってくる」と(歎異抄の謎)。

 

本年2月から、かつての「実践人」の同友、安徳陽一さんが主宰する「ひよこの会」、月に一度「歎異抄」に学ぶ会に参加しています。肺炎の後遺症で3回ほどの休みを余儀なくされましたが、安徳さんが人生をかけた「歎異抄」研究を参考に、残された最終コースの生き方、死に方を学びたいとの念です。

 

そんな中、「実践人の家」の前理事長、廣瀬童心先生と同志3名(1名は鬼籍)が発行している「まなざし」(昭和40年5月から月刊で発行、現在485号、題字は坂村真民先生)で紹介されていたのが空外上人の「無二的人間」、すなわち「相手を生かし、自分も生かさせてもらう」という生き方です。

 

これはまさしく道元の「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」に通じるかと。「無二的人間」というコトバに出逢った時、今日まで試行錯誤を続けながら求めてきたのは「まさにこれだ!」との衝撃的な感動を覚えたのです。90年の永い歳月を通して出逢えた最高の真理です。

 

空外上人は述べています。「阿弥陀さまの慈悲のふところの中でなければ、われわれは生きられないし、死ねない。生死の原点、根本が阿弥陀さまです」(いのちの讃歌)。今日までお逢いした数知れない多くの方々の温情にただ感謝するのみです。

 

 

 

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

12月12日(金)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は第4章「全一生命の秩序と体系」の2節「生命の根本原理としての『調和』」の1回目で、「調和」こそ現実界の最普遍的な原理と説いています。

 

世界創造は、絶対的全一生命による“いのち”と“いのち”を生む大用であり、したがって絶大な“いのち”の動的統一体系というべきである。今や問題となるのは、“いのち”と“いのち”との相互関係を、抽象と具象との間にあって、両者を包摂しうるような概念、考え方はないものであろうかを問題とせざるを得ないのである。

 

かくしてわたくしの到達した概念こそ、実は「調和」といってよい。この調和の概念こそ、否、原理そのものこそ、実はこの現実界裡にある一切の事物の間に作用らいており、一切の存在を貫いて行われている、最普遍的な原理といってよいかと思う。

 

図らずも“存在”という語を用いたが、「存在」とは事物に関していうコトバであるが、わが国ではそれを絶対的存在の意に用いる傾向が多くなり、何ら疑わないところにその弊が生じつつあるかと思い、わが国の学会の西欧的従属を免れ得ない感がするのである。

 

これに対して、わが国の独創的な二大哲学者たる西田幾多郎、西晋一郎博士が、いずれもその哲学的思索の出発点において用いた「実在」という語のほうが相応しきを思うのである。「実在」というコトバの復活的使用を主張したいと考えるゆえんである。

 

この書において、絶対的全一生命というように、生命という語を多く用いるのは、この書の中心課題が創造、とくに世界創造の大用に対する哲学的解明にあるが故である。即ち神による世界創造とは絶対者の全一的な絶対生命の立場に立つものだからである。即ち創造の大用とは、これを端的には神が世界と共に、諸もろの万有を生む絶対的大用の謂いに外ならぬが故である。

 

さてここまで辿り着くことによって、改めて一切の存在を生む、絶対的全一生命を貫く根本原理の一つとして、先にも述べた「調和」というコトバが、比較的にふさわしいかに考えるのである。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

12月11日(木)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は第4章「全一生命の秩序と体系」の1節「世界創造と動的統一体系」の2回目で、哲学徒の任務は“いのち”の全一性“を自証することにあると説いています。

 

だが執拗なる人間の知性は、これが解明を求めようとするかも知れない。自己という極微な“いのち”を持てる存在が、いかにして此処にその存在を可能ならしめているかという、この根本的に一事実を徹底的に究尽する以外にないと答える他あるまい。

 

かかる追求究尽の果てに撞着するのは、ついに絶対的なる全一生命の他なく、わが身はかかる絶対無限なる全一生命の絶対的能生作用の、一極微作用の末端において、今ここに「自己」と称するものの全存在が賦与されているわけである。

 

かくして、かかる無限なる絶対生命との直接は、常持続であってその絶えることなきが故に、かかる無限なる直接性を捉える時、これを“一挙的”創造と解する立場を生むゆえんである。世界創造を一挙的と解する立場は、素朴な宗教的信の立場といえようが、その素朴性を軽んじるとしたら、これいみじき過誤といわねばなるまい。

 

何となれば、素朴的立場と称せられるものは、つねに内に素朴であるが、生命の全一性を内在せしめているが故である。かくして哲学徒の任務は、その素朴性を軽視し否定することではなくて、そこに明るい“いのち”の全一性“を自証し、さらに展開するところにこそ、その任務と使命のあることを知らねばなるまい。

 

かくして世界創造の一挙性というのは、神意の絶対性への信ということだと言えるであろう。今仮にこれを人間界にその比喩を求めるとすれば、何か物を造ろうとすれば、最初に先ず制作の意図が生まれるが、その中にすでに完成した場合の全体像が心裡に宿るわけである。

 

かかる制作の意図を抱くことは、すでにその物への愛がかかる意図を為さしめたといってよいであろう。愛とはともすれば既存の物象に対するものの如くに考えやすいが、至深の愛とは、ついに生むことの意であり、それは生命を生むに到って極まるのである。かくして母親がその子を生むことこそ、この地上における絶対者の大愛の模造といってよいであろう。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

12月10日(水)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は第4章「全一生命の秩序と体系」の1節「世界創造と動的統一体系」の1回目で、世界創造は“いのち”の動的統一体系と呼ぶべきだと述べています。

 

哲学的思索、特に形而上学的努力というものは、極大と極少とを併せ用いる特殊な知的作用ともいうべきである。試みに比喩的にいえば、無限大なる倍率をもつ天体望遠鏡と、無限小の極微生命の構造までも拡大して観察しうる電子顕微鏡という、これら両種の装置をわが心の中において、一瞬裡に交互に転換しうるような、特殊資質の習熟を要するともいえ、それの操作訓練だともいえるからである。

 

人間にとって真の安立とは、自身がその中に置かれているこの全現実に対して、一方には極大的大観を施すと同時に、他面それとは正逆にどこまで安心立命が得られるかという問題だといってよいであろう。

 

それというのも人間は、自己を取り巻く無量の事物に対して、正しい認識と定位、それによる正しい働きかけと処理ができ、一切の齟齬が消失するとき、これを安立と呼んでいいからである。

 

かくして世界創造という時、これをいわば神話的に、一挙的な作用ででもあるかに考え、これを思議不可能として回避し、放棄、断念する人もあるかと思うが、現実にはそうではなくて、創造とは実に無限連続の無窮なる営為というべきであろう。

 

では、かかる無窮性はどこからくるかというに、それは絶対能生者たる全一生命の絶対性における生命の無窮性、並びにそれによって生み出される被造物の中に、絶対全一生命を分身として分有内在せしめられているが故である。

 

かくして神の世界創造とは、いわゆる神話的な惑迷の中で、一挙的に行われるものではなくて、絶対的全一生命により、生命の無量種の階層を通して行われる大用というべく、生命の無限なる動的統一と呼ぶもまた可である。生命の統一とは、即ち能生と所生との統一だからである。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

12月9日(火)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は第3章の5節「創造における“いのち”の体系」の最終回で、大宇宙は無限絶大なる大生命そのものだと説いています。

 

体認の困難さを克服するため、その導きの星というべきものが、古来「師」と呼ばれた、真理の具体現者、真の指導者といって良いであろう。随って、古来真に道、真理を志す者は師を択び、謙虚に道を学のである。では道を学ぶとは如何なることであろうか。

 

道を学ぶとは、自らが真に生きんがために人として生きる筋道を学ぶということであり、この現実界を貫いて行われている生きた理法を学ぶことと言えるであろう。そのような真理の探究は、この現実界が無量多の“いのち”によって成立していることを、身をもって体認することだと言えるであろう。

 

この問題を考えるに際して、今一つのカギというべきものは、我々自身が一個の“いのち”を持った存在だということである。そのような観点から、自己そのものが一個の“いのち”であることを確認し、確信するに到ること。それは自己の裡に作用らいている超個の生命に目覚めることだといえるであろう。

 

では、かような“いのち”の開眼に導かれるためには、それぞれの所縁によって、「師」を選んでこれに就く他ないであろう。かくして開かれる世界は、この絶大なる天地宇宙が、すべて無量多なる“いのち”の極大無限にして、かつ複雑極まりなき、生ける体系として観ぜられるに到るであろう。

 

かくてこの大宇宙の内面本質は、如何なるものかというに、絶対的全一生命の自己限定(分身)として、無量多なる“いのち”の動的体系という他ないであろう。言い換えれば、この大宇宙は無限絶大なる大生命そのものだというわけである。その特色は相互照応的呼応生である。

 

これを再端的には、“いのち”というもの自体が、互いに相照応し相呼応して、互いに影響し合うものだということである。端的には近くは自らを中心とする心通う人々の上に観ぜられる“いのち”の呼応性を考えれば、容易に肯われる真理だといえるであろう。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

12月8日(月)針供養。御事納め。

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は第3章の5節「創造における“いのち”の体系」の2回目で、人間は「知」によって迷いもするが、その要因は物事を比較するからだと述べています。

 

脚下の現実に立ち還って、何ゆえ物と心とはとかく分裂して考えられるのであろうか。この問題は人類の思想上において、最も重大な問題の一つといえるであろう。その一因として、人間知性に免れえないその分別的性格のゆえであって、ここに分別的というは、事物を観察し考察するにあたり、つねに対象を分析的に見るのを免れぬ傾向である。

 

しかもこのように事物を二元に分析しようとする傾向の根源は、自らの知性が主観と客観とに分裂するところにその根因はあるというべきであろう。かかる二元への分裂的傾向は、人間の“いのち”に深く内在して、そこに根を下ろしていて容易に抜け難く、全く宿命的ともいうべく、その点からはいわば「根源悪」の知的側面への顕現といってもよいであろう。

 

かの「旧約聖書」の創世記における人祖たるアダムとイブの楽園追放の悲惨事は、人間の知性にその根因のあることを端的に教えるものとして、その教訓的意義は深刻といってよい。即ち人間の不幸の深因たるや、実にその知性に基づくわけであるが、結局は分別とは知性だからであろう。

 

では知性は人間にとって、一種の宿命というべきなのであろうか。それというのも、人間に知性が無かったとしたら、我われは何事についても知るところなき愚者に了るであろう。だが同時に人間はこの「知」によって迷いもするのである。迷うとは畢竟するに物事を比較する故であって、もし比較を知らなかったとしたら、人間に迷いはないはずである。

 

では人間は如何にしてこの迷いから脱することが出来るであろうか。迷いから脱するとは、事物の真相に目覚めることであろう。さればこの点については、古来幾多の先賢が自らの体験に基づいて教えを残しているわけである。その残された教訓を単に文字の上で学んだというだけは、その真は解しかねるのである。それらの「真」を知らんがためには、その真実について自ら体解し体認するのでなければなるまい。

 

土曜雑感 卒寿!生かされて90年①

 

12月6日(土)

 

エレベーターの更新工事で3週間の運行停止

 

「年々死を覚悟して真の生となる」(森信三先生)を実感として受け止めつつ、望外の卒寿を迎えました。与えられたいのちにはただ感謝するほかはありません。しかし年齢と共に急速に衰えゆく身体に抵抗の術はなく、下り坂人生の最終コースには体力維持を図る日々の運動努力が欠かせません。

 

永年続けている朝の散歩とテレビ体操、さらにスクワットなどを「南無阿弥陀仏」のリズムで取り組む習慣化のなか、予期せぬ試練がやってきました。マンションのエレベーターが更新工事で5月末から3週間の運行停止。これは一大事!住んでいるのは10階です。

 

持病の肺気腫を考えると、階段を降りるのは問題ないとしても、上りは絶望的です。一時はウィークリーマンションでの生活を考えたものの、結論としてマンションでの籠城生活を覚悟。その対策として、停止期間中は新聞を停止し、郵便物は毎日の入手を諦め週一度に。

 

中学時代からの阪神フアンで、本年はリーグ優勝!無念にも日本シリーズは優勝を逃がしましたが、ドジャースの大谷翔平選手などの活躍もあり、一喜一憂しながらの楽しい日々を過ごせてもらいました。勝敗の結果は分かっていても、スポーツ欄は迫力ある写真と活字で余韻を楽しむ必需品。新聞のない味気ない生活は初めての体験でした。

 

定期的に届けてもらう郵便物には、「返事はスグ書く」を続けてきましたので、返事が遅れることを事前に了解してもらうことに。中には返信を楽しみにハガキを書くハガキ仲間たちも。ハガキ道の坂田道信先生は2年前に亡くなりましたが、「ねがい 坂田道信の世界」を発行した奥様の宣穂さんが各地の「ハガキサミット」に参加しておられるとか。

 

さて、エレベーター停止対策の中心は食料品で、米、冷凍食品、インスタント食品、缶詰類、麺類、レトルトカレーなどを事前購入。卵、牛乳、バナナ、納豆、果物、パンなどの必需品は週に一度だけの買い物。結果的に事前に購入していた2割ほどの品を残して無事に終了しました。

 

6時起床、10時就眠の生活リズムで

 

哲学者のカントに習い(笑)、日々の生活リズムを大切に!が退任後のモットー。起床は6時で就眠は10時。夏のシーズンは気温が上がる前の5時起床の早朝散歩。近くに片道2キロ弱の緑豊かな緑道コースがあり、四季の草花や鳥の囀りを楽しみながらの散歩です。しかし、エレベーターの停止期間中は諦めざるを得ない状態へ。これが結果的に体調不良の要因になったのではないかと。

 

洗濯は3日サイクル、掃除は4日サイクルで、共に午前中に実施。トイレ掃除は毎週水曜日、土曜日。スーパーの買い物は4日から5日サイクルで午前中。午後は継続中の「れいけいブログ」の発信準備や手紙、メールの返信、さらに読書タイムから休息の昼寝。

 

毎日のブログは2001年8月6日(原爆の日)の「社員メッセージ」から始まり、今日に至っています。近年のブログは仕事を離れ、人としての生き方で最も強い影響を受けた、恩師森信三先生の「人生二度なし」の主要著作をできるだけ多くの方々に読んでいただきたく、抜粋して紹介しています。

 

現役時代のお客様から、「読んでいますよ」の連絡をいただくことがあります。本年の9月18日から紹介している「創造の形而上学」は、同先生が80歳を境に世界観、人生観の学として、「哲学」に代わり提唱した「全一学」誕生へ新たに書き下ろした書です。

 

論理的な西欧哲学とは異なり、「情緒的な日本人の体質にあった生き方」を考えるヒントとなる大作で、全体で第10章、各章は5節から成立しています。21世紀の重大な課題として、自然科学を基本とする欧米文化と日本文化の融合が最大テーマだとしています。

 

2020年のコロナ感染症から出勤が難しくなり、そこで近況報告を兼ねた交流の場として、週に一度の「土曜雑感」を始めました。しかし、近年は「本の要約」が多くなり、年間で40冊~50冊を紹介しています。今まで読んで共感した、面白かった、あるいは注目すべき本の紹介です。(つづく)

 

 

 

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

12月5日(金)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は第3章の5節「創造における“いのち”の体系」の1回目で、人類文明の将来は東西文明の融合統一にあると説いています。

 

人々が物を粗末にしがちだと言われるのは、その底に“いのち”の存在を認め得ないからだと言えよう。さらに言えば、物がそこに存在するということ自体が、実はそれらの物に本具内在している“いのち”の自己表現といってよいわけである。

 

このような立場には、そこにまた物・心の相即観が横たわっているといってよい。分析知を重んじる西洋哲学においては、物と心とは根本的にその性質を異にする二元的存在として相対せしめられる場合が多いのである。

 

物・心相即、身・心一如の立場に立つ東方的思惟にあっては、物を離れて心なく、心を離れて真に物たりえないとするのであって、すべて差別に即しつつ、その背後ないし根底には、一如の“いのち”を観ずる世界観といってよい。

 

事物の背後ないしは根底に、かく一如の“いのち”を観ずるということは、事物の根底に一如なる“いのち”の存在を観じ、否、それらの事物を、実はその根底にある根本的な“いのち”の、それぞれの角度における顕現と観ずる立場だというべきであろう。

 

事物についてその差別の面を重視するのは、物質的側面を重視する立場といってよく、これに反して事物の背後に一如なる“いのち”の相を観じる立場は、“いのち”を重視する立場だといえるであろう。前者の立場に立つ西欧的世界から、物質を重視する自然科学的文明が発生し、後者に精神を重視する東方の精神文明の発生したのは、けだし当然の結果というべきであろう。

 

即ち、物と心、身体と精神――それらが相即一体なところに、この地上的現実の真があるが、かかる一如なるものが、人類の文化史上、西と東に岐れてきたのであり、随って人類文明の将来は、これら両者の融合統一にあるといえるであろう。

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

12月4日(木)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は第3章の4節「世界創造における主体と客体の問題」の3回目で、地球がいかに神の恩恵に恵まれた天体であるかを説いています。

 

次に問題になるのは、残された今一つの側面たる客体的側面であるが、この場合問題になるのは、それが文字通り真に無量種無限量だということである。・・・神によって生み出された無量種の客体であって、これが文字通り全天全地に溢れているわけで、その事の一端は、かの米人の月世界への探検旅行により、月の世界の構造的一端を伺い得たことの上にも証せられるであろう。

 

だが、人類が月の表面に立ってみて、改めて知らされたことは、地球自身の自然的豊かさと、今一つはこの狭い地球の表面上において、相争うことのいかに至愚なる業かということの徹底認識でなければならないのに、まるでノド元過ぎればの感あるのは何故であろうか。

 

この地球が天与の事物によって豊富に恵まれている事は、天文学者たちにより、教えられていなかったわけではないにしても、幾人かが月世界の地表に起ったことによって、われわれがその「生」を享けている、この地球という天体がいかに豊かに神の恩恵に恵まれているかを痛感せしめられると共に、それに比して人間の感謝の念のいかに乏しきかを、改めて痛省せざるをえないのである。

 

かくして世界創造に作用らいている、能生的絶対主体は、神とでもいう他ないであろうが、同時にこれに対して、そこに生み出されるところの無量の客体は、いわゆる万象万有であって、世界創造における能造主体は絶対的に唯一であるが、これに反してその所造的対象物たるや、真に無量多という外ないであろう。

 

即ち絶対的な「一」と、絶対的な「多」とが、唯一絶対の神の世界創造の大業における、主・客の両面というべきであろう。最後に今一つ看過できない一重要事であるが、それは神の世界創造においては、その能生主体たる神が絶対的全一生命なるが故に、その無量多なる万象万有も、一つとして神の絶対的分身ならぬはないわけであって、すべてこれ神の絶対的生命をその分身として分有しているわけである。