法華経に「永遠の真理、仏陀の本然と悟りの力の秘技」
11月29日(土)
内村鑑三(1861年〜1930年)により1908年(明治41年)に刊行された英文著「Representative Men of Japan」の鈴木範久よる翻訳「代表的日本人」(岩波文庫)から、新日本の創設者としての西郷隆盛、封建領主の上杉鷹山、農民聖者の二宮尊徳、村の先生の中江藤樹、仏僧の日蓮上人の5名を紹介しています。今回は最後の日蓮上人の1回目です。
なぜ多くの宗教や分派に分かれているのか?
貞応元(1222)年の春、太陽が波高き水平線に上り、地上の国々の最東部にバラ色の日光を最初に投じたときのことです。安房の国の東端、岬に近い小湊村の漁師の家に一人の子供が生まれました。父はある政治的理由で世を逃れ、この地に流れ住んだ人でありました。
母もひとかどの身分の出身で、熱心な日輪の信者であり、長い間の願いがかない、まさに日輪から子供を授けられたのでありました。その子供は授けた神にちなみ、善日麿(ぜんにちまろ)と名づけられました。
その年は仏陀の入滅後2171年、すなわち最初の「正法千年」が終わり、第二の「像法千年」も過ぎ、第三の「末法千年」が到来を告げたばかりの年でありました。善日麿が十二歳になったとき、信心深い両親の考えで僧侶になることが決まりました。
生地から遠からぬところに清澄という名の寺がありました。住職の道善は学徳の誉れ高く近辺に聞えた人物でした。少年善日麿はその寺に引き取られました。四年の修行ののち、十六歳で得度して正式な僧侶となり、蓮長(れんちょう)と名のりました。
道善は若き弟子のすぐれた才能を認め、寺の後継者にしようと考え始めていました。若者は親には希望、師には自慢の種でありました。だが、心の中では内的葛藤が進行していたのです。蓮長は解決の灯を求めて諸国遍歴の旅に出ることになります。
蓮長が基本的知識の習得に没頭している最中、いくつか解決を迫られる問題が生じました。明らかな課題は、仏教に無数の教派が存在する問題でした。「一人の思想と生涯から始まった仏教が、多くの宗教や分派に分かれている。仏教は一つではないのか」。
「依法不依人」(真理の教えを信じて人に頼るな)
ある夕、仏陀が入寂する直前に語ったという涅槃経(ねはんきょう)の、次の文が若き僧を捉えました。「依法不依人」(えほうふえじん)、真理の教えを信じて人に頼るなとの言葉であります。「仏尊」によって遺された経文こそ頼るべきである。心は安らかになりました。
経典に示された順序では、仏陀の初説法を含むとみなされる華厳経で始まり、(1)伝道最初の十二年間の教えを収めた阿含経、(2)次の十六年間の教えである方等経、(3)三番目の十四年間の般若経、最後の八年間の妙法蓮華教、またの名は法華経であります。
この順序から教えられる結論は、最後に語られた経典が仏陀の全生涯のエッセンスを含んでいることになります。蓮長の言葉を借りると、その中にこそ「万物の原理、永遠の真理、仏陀の本然と悟りの力の秘技」があるのです。
この結論に達したとき、蓮長には喜びと感謝の気持ちが心の底から湧きあがり、目には涙が溢れました。蓮長はついに思いました。「父と母をすてて、このすばらしい信仰に身を捧げることにした自分である。仏陀自身の金言を尋ねずにいてよいであろうか」。
この聖なる志が生じたとき、年は二十歳、田舎の寺院にひき篭もっていることは、もはや許されません。道善と仲間の僧侶たちに別れを告げると、広く真理を探究するため、勇をふるって世に乗り出したのです。最初の目的地は将軍のいた首府鎌倉でした。
一人の田舎僧侶の目には、見るもの、耳にする教えはことごとく異様でした。町には巨大な寺院と華美な僧侶があり、虚偽そのものに充ちていました。上流階級は禅僧が、下流階層は浄土真宗が支配し、前者は無益な思弁の泥沼におちいり、後者はいたずらな阿弥陀への信心に我を忘れていました。
五年間、鎌倉で目撃した事実から蓮長は、奉ずる「聖経の尊師」によって予言されたように、すでに「末法」が世に到達していること、新しい世をもたらすためには、新しい信仰が必要であり、その機会の到来していることを深く確信しました。
「我こそが、この国に教えをよみがえさせる永遠の使命を帯びているのではないか・・・」このような思いを抱いて、「首府は法を弘めるにはよき地でも、法を学ぶにはよくない」との断を下して鎌倉をあとにしたのです。知識を探究する旅、向かったのは京都の叡山です。