「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

12月3日(水)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は第3章の4節「世界創造における主体と客体の問題」の2回目で、神の自己分身が「愛」の原型であることを述べています。

 

この際改めて問題となるのは、それが「創造」である以上、やはり能生と所生の別があるわけで、これを人間の立場に移して考えるとしたら、そこには主体と客体との別が考えられるわけである。旧約の「創世記」神話は、もっとも端的にその趣を語っていると言ってよい。

 

神の大業、万物の生成を絶対的生命の自己限定などと表現することは、他面で重大な欠損の生じる恐れがあることを知らねばなるまい。即ちいのち“による”いのち“の分身的創生という、パトス的な情味の損失することである。けだし万物の創造とは、これをロゴス的にいえば、絶対者の絶対的自己限定といえるのである。

 

現に西田哲学では、その論理的性格からして盛んにこの種の表現が用いられているが、それはパトス的にいえば、神の自己分身であり、そして分身とは己が身を割いて与えるとの謂いに他ならない。分身とは己が身を割いて相手にその全存在を与える意であり、そこで行われるのは、“いのち”の全的贈与と言わねばなるまい。

 

これこそが「愛」の原型であり、その至高形態たることを知らねばならぬ。けだし神の「大愛」とは、その身を割いて相手の全存在的“いのち”の賦与というべく、これ絶対者にして初めて可能なことであって、有限なる一被造物に過ぎぬ人間には、絶対に不可能事たることを知らねばならぬ。この一事によって人間存在が、自己の裡に流入している神の“いのち”に対して、改めてこれを承受し自証しうるが故であろう。

 

「自証」という語については、そこには論理の媒介を必要とはするが、しかしその根底というかーーむしろ母胎という方がより相応しかろうがーーパトス的な“いのち”が予想されていなければなるまい。かくあってこそ初めて「自証」の作用きは、宗教と哲学の両者に共通して、“いのち”の最深奥処を照らす作用とも言い得るわけである。

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

12月2日(火)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は第3章の4節「世界創造における主体と客体の問題」の1回目で、「世界創造」の大業について、主体と客体という観点から考えたいとしています。

 

この節において意図する処は、いわゆる「世界創造」と呼ばれている神の大業について、これを主体と客体という観点から、一つの照明を試みたいわけである。げに「世界創造」というのは、これぞまことに「神の御業」という他ない、絶大無窮の壮大、否、絶大なる神の営みという他あるまい。

 

しかしかかる営為の構造というか、むしろその内容の動的展開は、いわば絶大無限のドラマともいうべく、それ故これに対して、世界史の神曲性を説いたわけであるが、世界史は神曲なりということは、そのまま神の世界創造に当てはまるかというと、完全な同一性を保し得ないと言わねばなるまい。

 

何となれば、「世界史は神曲なり」という時、その力点は事実としての人間史の開始以後に置かれていると言わねばなるまい。然るに今、「世界創造」という時、そこには天地の創造という、世界史成立以前の絶対的事実というか、むしろ超絶的世界の創生の方に、よりその力点は置かれると言ってよいであろう。

 

かつて「世界創造」を無始無終とする仏教的世界観と、それに対して旧約聖書「創世記」の世界創造観とを対比せしめて考えたことがあるが、両者は根本的には同一なことを、異なった立場から表現したものと言えるむねを一言したことがある。

 

世界創造を無始無終とするのは、時間概念を予定しての把握、ならびに表現だということに気づかねばならぬわけである。言いかえれば、「始めなくして終わりなし」とは、世界創造という神による絶大無窮の大業は、実は「時間」という相対的範疇によっては把握し得ないことを表示するものに他ならない。

 

旧約における「創世記」の記述は、まさに絶対者の無窮なる世界創造という絶対的事象を、永遠なるものを時間的範疇の上に投影して記述したというべきであろう。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

12月1日(月)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは」を考える手がかりになれば幸いです。本日は第3章の3節「創造における客体の問題」の3回目で、「主体的“客体”」、「“客体的”主体」を説明しています。

 

自己に対するものは、たとえ人間であり、しかも一個の主体だとしても、これを主体というわけにはゆかず、それゆえこれを一種の客体とすることは不可避の必然といってもよいであろう。かくして、ここに考えられる解決策として、一個の主体たりうる場合には、これを「主体的“客体”」ないし「“客体的”主体」と呼ぶことにしたら如何であろうか。

 

「主体的客体」と「客体的主体」の二種のコトバは、何れがより適当かという問題である。その際、誤解を招かないためには、客体というコトバに圏点をつけることにしたらと思うのである。それにより根本的には、主体に対するものだとういうことを根本的に明らかにしておく必要があるであろう。

 

「“客体的”主体」という場合には、自己に対しては客体であるが、それは単なる自然物ではなくて一人の人間であり、さらに一個の主体的存在である点に力点を置くわけである。今一つの「主体的“客体”」という場合は、相手はたしかに人間として主体的存在であるが、それは自己にとり客体的存在だという点に力点を置こうとするわけである。

 

最後に今一つ言いたいことは、このように主体も客体も共に人間的主体の場合は改めていうまでもないが、たとえ“客体が自然物の場合でも、主体と客体との関係は、東洋人の一人としては、”いのち“と”いのち“との連関的関係と思われるのである。

 

西欧的な分別的知性の立場に立つ時、主・客の関係はとかく、互いに対立する者同志という色調を帯び易く、東洋の天地においてのように、主体と客体とは、相手と相和し相互に相手を補完し合うというよりも、さらには相手と戦い相手を克服せんとするが如き色調を、帯び易いことを憂えているが故である。

 

かかる処にも我われは東西文化の基本的な特質がおのずから浸透しているかに思われるのである。

 

法華経に「永遠の真理、仏陀の本然と悟りの力の秘技」

 

11月29日(土)

 

内村鑑三(1861年〜1930年)により1908年(明治41年)に刊行された英文著「Representative Men of Japan」の鈴木範久よる翻訳「代表的日本人」(岩波文庫)から、新日本の創設者としての西郷隆盛、封建領主の上杉鷹山、農民聖者の二宮尊徳、村の先生の中江藤樹、仏僧の日蓮上人の5名を紹介しています。今回は最後の日蓮上人の1回目です。

 

なぜ多くの宗教や分派に分かれているのか?

 

貞応元(1222)年の春、太陽が波高き水平線に上り、地上の国々の最東部にバラ色の日光を最初に投じたときのことです。安房の国の東端、岬に近い小湊村の漁師の家に一人の子供が生まれました。父はある政治的理由で世を逃れ、この地に流れ住んだ人でありました。

 

母もひとかどの身分の出身で、熱心な日輪の信者であり、長い間の願いがかない、まさに日輪から子供を授けられたのでありました。その子供は授けた神にちなみ、善日麿(ぜんにちまろ)と名づけられました。

 

その年は仏陀の入滅後2171年、すなわち最初の「正法千年」が終わり、第二の「像法千年」も過ぎ、第三の「末法千年」が到来を告げたばかりの年でありました。善日麿が十二歳になったとき、信心深い両親の考えで僧侶になることが決まりました。

 

生地から遠からぬところに清澄という名の寺がありました。住職の道善は学徳の誉れ高く近辺に聞えた人物でした。少年善日麿はその寺に引き取られました。四年の修行ののち、十六歳で得度して正式な僧侶となり、蓮長(れんちょう)と名のりました。

 

道善は若き弟子のすぐれた才能を認め、寺の後継者にしようと考え始めていました。若者は親には希望、師には自慢の種でありました。だが、心の中では内的葛藤が進行していたのです。蓮長は解決の灯を求めて諸国遍歴の旅に出ることになります。

 

蓮長が基本的知識の習得に没頭している最中、いくつか解決を迫られる問題が生じました。明らかな課題は、仏教に無数の教派が存在する問題でした。「一人の思想と生涯から始まった仏教が、多くの宗教や分派に分かれている。仏教は一つではないのか」。

 

「依法不依人」(真理の教えを信じて人に頼るな)

 

ある夕、仏陀が入寂する直前に語ったという涅槃経(ねはんきょう)の、次の文が若き僧を捉えました。「依法不依人」(えほうふえじん)、真理の教えを信じて人に頼るなとの言葉であります。「仏尊」によって遺された経文こそ頼るべきである。心は安らかになりました。

 

経典に示された順序では、仏陀の初説法を含むとみなされる華厳経で始まり、(1)伝道最初の十二年間の教えを収めた阿含経、(2)次の十六年間の教えである方等経、(3)三番目の十四年間の般若経、最後の八年間の妙法蓮華教、またの名は法華経であります。

 

この順序から教えられる結論は、最後に語られた経典が仏陀の全生涯のエッセンスを含んでいることになります。蓮長の言葉を借りると、その中にこそ「万物の原理、永遠の真理、仏陀の本然と悟りの力の秘技」があるのです。

 

この結論に達したとき、蓮長には喜びと感謝の気持ちが心の底から湧きあがり、目には涙が溢れました。蓮長はついに思いました。「父と母をすてて、このすばらしい信仰に身を捧げることにした自分である。仏陀自身の金言を尋ねずにいてよいであろうか」。

 

この聖なる志が生じたとき、年は二十歳、田舎の寺院にひき篭もっていることは、もはや許されません。道善と仲間の僧侶たちに別れを告げると、広く真理を探究するため、勇をふるって世に乗り出したのです。最初の目的地は将軍のいた首府鎌倉でした。

 

一人の田舎僧侶の目には、見るもの、耳にする教えはことごとく異様でした。町には巨大な寺院と華美な僧侶があり、虚偽そのものに充ちていました。上流階級は禅僧が、下流階層は浄土真宗が支配し、前者は無益な思弁の泥沼におちいり、後者はいたずらな阿弥陀への信心に我を忘れていました。

 

五年間、鎌倉で目撃した事実から蓮長は、奉ずる「聖経の尊師」によって予言されたように、すでに「末法」が世に到達していること、新しい世をもたらすためには、新しい信仰が必要であり、その機会の到来していることを深く確信しました。

 

「我こそが、この国に教えをよみがえさせる永遠の使命を帯びているのではないか・・・」このような思いを抱いて、「首府は法を弘めるにはよき地でも、法を学ぶにはよくない」との断を下して鎌倉をあとにしたのです。知識を探究する旅、向かったのは京都の叡山です。

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

11月28日(金)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は第3章の3節「創造における客体の問題」の2回目で、「客体」という概念で呼ばれているものの中に自然物の他、人間主体が存在することの重要性を説いています。

 

二つの立場はどうして分かれるかというに、主体という概念には、何時しか自分本位的なもの(我)の忍び込むことを、どこまで鋭く、厳しく自省し警戒するか否かによって、岐かれるといってよいであろう。この点の考察は、今後も哲学思想の上で主要な問題の一つといってよい。

 

以上において問題の概観が了ったかと思われる。次にどの点から考察を入れてみるかという

こと自身が、一つの重要な点といえるであろう。わたしの考えは、先ず普通に「客体」という概念によって呼ばれているものの中に、単なる自然物の他に、人間主体が存在するということへの認識である。

 

このように重大な区別、即ち人間と自然物との相違が無視されながら、多くの人々がその不当さに何ゆえ気づかなかったかというに、結局は西洋人の主我的な性情から来たものかと思うのである。ヒューマニズムというコトバのもつ原意も、人間本位論ということであって、この地上の万物のうちで貴いのは人間だけで、人間と動植物などの生物界との間には、厳しい一線が劃されていたのである。

 

これに対して東方の天地にあっては、人間とそれら動植物との間には、“いのち”の共通性を認めるというのが、古来東方人の考え方だったわけである。随って、自己と相対する人間に対してすら、これを「客体」と名づけることの裡には、自己以外の存在は、たとえ人間でも根本的には自然物と同一視しかねないと言われても、仕方がないのではあるまいか。

 

そこで一歩を進めて、相手も一個の主体的な人間である場合、そういう人と相対した際、それを一体何と名づけたらよいのであろうか。相手の人間は、自ら主体的人間だと考えているからとて、その人間を自己と同じく主体とするわけにはゆかぬであろう。何となれば、自己に対して存在するものに対しては、一応すべて「客体」と呼ぶというのが、すべてに優先する根本想定だからである。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

11月27日(木)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は第3章の3節「創造における客体の問題」の1回目で、主体をどう考えるかで、哲学上の大きな分岐点があるとしています。

 

この世の中は、「人と人」との関係、「人と物」との関係、及び「物と物」との関係に大別できるが、それらのうち最も重大なのは、結局「人と人」との関係、即ち人間関係という他なく、しかも人間関係というは、「主体と主体」との関係であて、そこには主体における相対性の一面の免れ得ないゆえんがある。

 

人によっては、真に主体と言い得るものは自己だけであって、自己に対して存在するものは、結局客体に他ならぬという考え方もあるわけである。こうした考え方自体の中に、個人本位的な西欧思想の誤りがおのずから忍び込んでいるのではないかと思われるのである。

 

自分だけが主体であって、相手もまた人間でありながら、それを単に客体としてという思考態度は、実はそれと気づかずにいるが、一種の自己本位的立場に立つ思考様式に他ならぬのではあるまいか。

 

その場合、自己とはいわずに「主体」というような抽象的な哲学的概念を使用するためにその点に気づかず、自他共に単なるコトバの上のキレイゴトにごまかされて、現実内容の生々しさを、つい看過しがちなのではあるまいか。

 

まず取り上げなければならないのは、主体を一体どう考えたらよいかという問題で、この点を如何に考えるかによって、そこに哲学上一つの大きな分岐点が画されるのではあるまいか。つまり主体の根底に「超主体」を認めるか否かによって、哲学体系の上に一つの重大な相違が生じるのと似ていると思われるのである。

 

これら両者の間には、実は本質的な関連があるというのが、わたくしの考えである。即ち自己だけが主体ではなくて、自己と相対している相手もまた一個の主体たることを認める立場と、主体の根底に「超主体」があると考える立場とは、共通な立場に立つと言ってよいであろう。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

11月26日(水)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は第3章の2節「創造における主体と超主体」の3回目で、主体性の概念だけでなく、「超主体」的な大用を認めざるを得ないと述べています。

 

第三のケースのような場合、すでに「超主体」ともいうべきものが出現して作用らいているかに思われるのである。人々は主体性の概念を以って、これを絶対視して、そこに何らかの疑問も挟まず、随って主体といっても、現実には無量多の主体が存在するわけであり、そこには常に相対的な一面の介入を免れないなどの諸点の存することが、看過されがちだと思うのである。

 

わたくしには、単なる主体性の概念だけでは、真の絶対性は保しえないと思うのであって、その背後に「超主体」的な大用を認めざるを得ないのである。かくして初めて「主体」という概念に、我身の潜入しやすいのを防ぐことができるかと思うのである。すなわち単なる「主体」が絶対なのではなく、「超主体」に裏づけられることによって、主体は一面からは依然として相対性を包有しつつ、真の絶対性を帯びてくるやに思われるのである。

 

では「超主体的」という、その特色はいかなる点にあるかというに、それは意識を「超え」ている点であろう。即ち「超主体」の根源的特質は、主体としての意識を超えているということでなければなるまい。この点こそ、この「超主体」なるものが、個人的私意を超えると共に、さらに一切の人為の計らいをも越えるとされるが故だと言ってよいであろう。

 

人々の多くは、神の第一次創造において作用らくものを、「超主体的」大用とすることに対しては、容易には肯んじ難いであろう。その因由について、被造物の一たる人間の有限知によっては、絶対的全一者については充分には知ることを許されていないということである。

 

かくして絶対的全一者の第一次創造は、神の「超主体」的創造作用という他あるまいが、しかしそれがそうと受け取れないのは、人間的知性の宿命的制約として、これを対象化し分析的に思考するが故であって、かかる神の絶対的創造の秘儀については、おのがじし自己の“いのち”の限りを究尽して、しかる後これを承受し信受し、証受する他はないというべきであろう。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

11月25日(火)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は第3章の2節「創造における主体と超主体」の2回目で、主体には一面で相対性のあることを免れぬと述べています。

 

このように主体の無量性の問題を提起している思想家には、未だ出逢ってはいないのである。

だが、「一つの主体が他の主体と相対する」ということは、日常生活において常に当面している、いわば日常の茶番事というべきではあるまいか。

 

そのような主体 Aと主体 Bとが相対する場合、AとBが一つの事柄に関して、その見解が一致する場合もあれば、一致しない場合もあり、また行動を共にする場合もあれば、共にしない場合もあるわけである。しかも後者の場合も、行動は共にしないが、互いにそれを立場の相違からくるものとして、双方が快く認め合う場合と、然らざる場合とがあるであろう。

 

かくして、主体ないし主体性といえば、あたかもトランプにおけるオールマイティのように、すべてが無条件に解決されうるようなマスターキー的なものではないということである。すなわち、一口に主体といっても、「主体と主体とは相対する」のであり、そこには如何なる主体にも、少なくとも一面には相対性のあるのを免れぬということである。

 

念のために上掲の場合について解明してみれば、主体Aと主体Bとが、一つの事柄に関してその見解が一致して、行動を共にするような場合、現実的には二人の主体が存在しているのであるが、その場合には相対的な対立面は消え、共通するもの、すなわち相対するものを超える意味からは、超個の絶対面が顕現していることを共にするというわけである。

 

現実界にあっては、事は必ずしもこのような場合のみとは限らず、主体Aと主体Bとは、一つの事柄に対して意見が合わず、その結果、二人は行動を共にしないという場合も決して少なくはないであろう。

 

第三のケースとして、主体 Aと主体Bとは、行動を共にすることはしないが、しかし互いに相手の立場を認めるが故に、行動を共にしないことを諒として、了解する立場もあり得るわけである。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

11月24日(月)振替休日。二の酉。和食の日。

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は第3章の2節「創造における主体と超主体」の1回目で、主体性ブームの風潮へ一つの疑問を提示しています。

 

前節で述べたところによれば、主体という概念の特質として、そこには何らかの意味における、身体性が予想されるといことで、それは人間主体によって行われる第二次創造の場合は、当然の自明事として何人もこれを認め得る。

 

しかし、神の直接的創造作用というべき、第一次創造作用の場合、そうした創造作用に果たして“創造主体”と言い得るものの有無という問題は、甚だ微妙且つ幽深な問題というべく、これが解明の容易でないことは、最初から予感していた事柄である。

 

しかし、これを回避しては、創造論、世界創造の問題は、いわゆる仏作って眼睛を点ずることを怠るものとの“そしり”を免れぬであろう。それ故いかに不十分であろうとも、何ほどかの解明のメスを入れてみなければなるまいと思う。

 

そこで、いわゆる天地の創造に見られるような、神の第一次的な生成作用にあっては、なるほど生成作用そのものは行われているが、しかしかかる神的生成作用の場合には、いわば「生成主体」ともいうべき一種の生成力が存在し、かつそれが作用らいていると見るべきではないかーーと思うのである。

 

この問題の考察に入るに際してわたくしには、主体という概念そのものについて、実はかねてから一つの重要な疑問があるのであって、いわば主体性ブームともいうべき、主体性のいわば絶対視されている学界の風潮の只中にありながら、かかる流れには同調しかねてきたのである。

 

その疑問というのは、如何なるものかというに、主体は単なる主観とは違うという点であるが、この点については前節で一応の解明はしたつもりである。そこでさらに一歩をすすめて、根本的な疑問があるわけで、一個の主体は自己の主体と相対する無量の主体の存在を認めるべきではないかという問題である。

中江藤樹――村の先生③

 

11月22日(土)小雪。

 

内村鑑三(1861年〜1930年)により1908年(明治41年)に刊行された英文著「Representative Men of Japan」の鈴木範久よる翻訳「代表的日本人」(岩波文庫)から、新日本の創設者としての西郷隆盛、封建領主の上杉鷹山、農民聖者の二宮尊徳、村の先生の中江藤樹、仏僧の日蓮上人の5名を紹介します。今回は中江藤樹の最終回です。

 

謙譲の徳から一切の道徳が生じる

 

藤樹の学問上の歩みは、明らかに二期に分けられます。第一は、同時代の人と同じく、保守的な朱子学のなかで育てられた時期です。朱子学により何よりも自己自身の内部への不断の探究が求められました。過度な自己探究の結果は、初期の著述に明瞭に反映しています。

 

もし藤樹が進歩的な王陽明の著作に出会うことで、新しい希望を抱くことがなかったとしたら、悲観的な朱子学の圧迫のもとで、不健全な隠遁生活に追い込まれていたことでありましょう。聖人孔子その人は、すぐれて進歩的な人間であったと認めているところであります。

 

王陽明は孔子の内にあった進歩性を展開させ、わが藤樹がその聖人を新しい目でみることを助けました。近江聖人は今や実践的な人になり、創造的な人間でした。ただ本来の謙遜な性格のために、自分を表す代わりに学問によったのでした。古典に対して、まったく自由な態度をとったことは、門弟への言葉からも明らかであります。

 

「いにしえの聖賢の論著には、現在の社会状態には適用できないことが沢山ある」。もし藤樹が今日生きていたとしたら、「異端裁判」の典型的な対象になっていたでありましょう!人為の「法」(ノモス)と外在的「真理」(ロゴス)を明確に分けています。

 

「道と法は別である。法は時により変わる。しかし道は、永遠の始めから生じたものである。徳の名に先立って、道は知られていた。人間が出現する前に宇宙は道をもっていた。人が消滅し、天地が無に帰した後でも残り続ける。しかし聖人の法も世に合わなくなると、道のもとをそこなう」。

 

倫理体系でもっとも注目されるのは、謙譲の徳に最高の位置を与えていた事実です。謙譲の徳とは、そこから一切の道徳が生じる基本的な道徳でした。これを欠けば一切を欠くにひとしくなります。この徳を高さに達するための藤樹の方法は簡単でした。

 

「徳を持つことを望むなら、毎日善をしなければならない。一善すると一悪が去る。日々善を成せば、日々悪は去る」。この心の虚(精神的であること)に最高の満足を覚えて、まだ利己心から免れていない人々をあわれみ、次のように言っています。

 

「獄の外に獄があり、世界を入れるほどに広い。その四方の壁は、名誉、利益、高慢、欲望への執着である。悲しいことには、実に多くの人々が、そのなかにつながれ、いつまでも嘆いている」。

 

藤樹は無神論者ではありません。わが国の神々に対して深い敬意を表していたことでもよくわかります。ただ、その信仰は正しくありたいとの願いは除き、他のあらゆる「願い事」に対しては、めずらしいほど無縁でありました。

 

しかし藤樹は長命を授かりませんでした。妻に二年前に先立たれた後、四十歳になった1648年の秋、その人生にふさわしい最期を迎えました。最期が訪れたのを知ると、門弟を呼び集め、ふだんのように正座して告げました。「世を去る時がきたが、どうかわが道の、国から消え果てることのないようにしてもらいたい」。

 

近隣に人々はそろって喪に服しました。諸大名からは名代が送られました。葬儀は国をあげての行事となり、徳と正義とを愛する人々はこぞって、国にとり大きな損失である死を悼みました。

 

何年か後、藤樹の居住していた家屋は、村人の手で修理を施され、今日まで保存されています。藤樹の名をもつ神社も建てられ、年二回の記念の祭りが行われています。三百年も前に生きていた人が、どうしてこれほどの尊敬を受けるのでしょうか。問われれば村人は次のように答えるでありましょう。

 

「この村の近くでも。父は子にやさしく、子は父に孝養をつくし、兄弟は互いに仲良くしています。家では怒声は聞かれず、だれもが穏やかな顔つきをしています。これはすべて藤樹先生の教えと後世に遺された感化の賜物です。私どもはだれもが、先生の名は感謝をもって

崇めています」。

 

かつて藤樹は言ったことがあります。「谷の窪にも山あいにも、この国のいたるところに聖賢はいる。ただ、その人々は自分を現さないから、世に知られない。それが真の聖賢であって、世に名の鳴り渡った人々は、とるに足りない」。