中江藤樹――村の先生②
11月15日(土)七五三。きものの日。
内村鑑三(1861年〜1930年)により1908年(明治41年)に刊行された英文著「Representative Men of Japan」の鈴木範久よる翻訳「代表的日本人」(岩波文庫)から、新日本の創設者としての西郷隆盛、封建領主の上杉鷹山、農民聖者の二宮尊徳、村の先生の中江藤樹、仏僧の日蓮上人の5名を紹介します。今回は中江藤樹の2回目です。
藤樹の名が世間の注目を引くことに
評判になることを嫌っていた藤樹は、「積善」について述べています。「人はだれでも悪名を嫌い、名声を好む。小善が積もらなければ名はあらわれないが、小人は小善のことを考えない。だが君子は、小善をゆるがせにしない。大善も出会えば行う。ただ求めようとしないだけである。
大善は名声をもたらすが、小善は徳をもたらす。世の人は、名を好むために大善を求める。しかし名のためになされるならば、いかなる大善も小さくなる。君子は多くの小善から徳を
もたらす。実に徳にまさる善事はない。徳はあらゆる大善の源である」。
真の学者とはどういう人か、藤樹の考えです。「“学者”とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。無学の人でも徳を具えた人は、学識はないが学者である」。
センセイとして仰ぐべき聖人を求めんとして、一人の青年が岡山を旅立ちました。青年は聖人に出会えるものとして、都のある東の方へと道を急いでいました。近江の国で一夜を田舎の宿で過ごしたとき、隣の部屋の二人の会話に惹きつけられました。
一人のサムライが、次のような出来事を語っていた
主君の命で首府に上がり、数百両の金を託されて帰る途中だった。肌身離さず所持していたのだが、この村に入った日のこと、財布をその日の午後に雇った馬の鞍に結びつけておいた。宿に着き鞍につけた大事なものを忘れたまま、馬子と一緒にその馬を返してしまった。
しばらくして、はじめて大変な忘れものをしたことに気づいた。馬子の名は知らず、捜し出すのは不可能だった。・・・不注意は弁解の余地はない。主君に詫びて許される道はただ一つしかない。私は手紙を、一通は家老にあて、他は親族に宛ててしたため、最期を迎える決意を固めたのである。
真夜中遅くになって、だれか宿の戸を激しく叩く者があった。その男は、馬に私を乗せた馬子本人であった。「おサムライさん、鞍に大事なものを忘れていませんでしたか。お返ししようと戻ってまいりました。これでございます」。嬉しさのあまり我を忘れたが、我に返って告げた。「あなたは私の命の恩人である。代償としてこの四分の一の金を受け取られたい」。
しかし馬子は聞き入れなかった。最後には一両を渡そうとしたが無駄だった。馬子は言った。「私は貧乏です。家から四里の道をやって来たので、わらじ代として四文だけお願いすることにしましょう」。私はたずねた。「どうして、それほど無欲で正直、誠実なのか」と。
貧しい男は答えた。「私のところの小川村に、中江藤樹という人が住んでいまして、私どもにそういうことを教えてくださっているのです。先生は、「利益を上げることだけが人生の目的ではない。それは正しい道、人の道に従うことである、とおっしゃいます。村人一同、そんな教えに従って暮らしているだけでございます」。
次の日、青年はただちに小川村に行き、聖人を訪ねて弟子にして下さるよう嘆願しました。藤樹先生は驚き、ただの村の教師にしかすぎません。遠方から来た立派な人に頼まれるほどの人間ではないと、ことわりました。しかしサムライは聖人の謙遜にうち克つのだと決意しました。
玄関のそばに外衣を拡げると、姿勢を正し、大小の両刀をかたわらに、膝に両手を置いて坐りました。道行く人々の噂にのぼっても、姿勢を崩さず三日三晩の間、坐りとおしました。
このとき、全能の母親がその青年のために仲介の役を果たしました。母が正しいと思うなら正しいに違いない。師はついに屈服しました。これが熊沢蕃山の話です。
蕃山はのちに大藩岡山の財政および行政にたずさわる役人として、後世に影響を与える改革を数多く導入した人物です。岡山藩の家臣となった蕃山が、師の人格の偉大さを伝えたことで、岡山藩主(池田光政)がみずから訪ね、相談役として仕官してほしいと頼みます。
師は自分の使命は村にあり、母との暮らしにあると言って辞退します。藩主が異例の訪問でえた成果は、その名を師の門人の一人として加えることの許可を得たことと、長男を代わりに岡山に派遣する約束でありました。