「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

11月12日(水)酉の市。

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。極めて難解な内容と思いますが、「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は2章4節の「創造への人間参加」の2回目で生命体における生と死を分ける根本的起因は、環境への適応だと指摘しています。

 

近時自然科学的文明の一種の行きづまりからして、人々が自然界の意義に注目し始めたのは、悦ぶべきと言えるが、この場合にも、単に「自然」というだけでは、単に対象界としての自然科学的な自然を意味するに過ぎない。先の「大宇宙」と同じく「大自然」の語を用いて、単なる対象的自然とは区別すべきだと考えるのである。

 

かくして真の絶対的観点に立つとき、「世界創造」は、単にその外的一面としての、天文学的宇宙の創生しか人間には分からぬわけであり、否、それすらも「膨張する宇宙」などの語が示すように、我われ人知が現在把握しているのは、その一微小部分に過ぎず、真の「絶対的全一」というべき「大宇宙」そのものの、内面構造なり創造的展開のプロセスなど、人間の有限的知性には、永劫に閉ざされた絶対神秘の領域という他ないであろう。

 

世界創造は神による絶大無窮の神的戯曲ともいうべく、人間の有限的知性にとっては、永遠に神秘であって不可把促という外ないであろう。随ってその表現もまた神話的象徴的手法による外ないわけである。

 

以上がマクロ的方法というのに対して、ミクロ的手法を取り入れてみるとすれば、天体の極微の一小部分としての地球が派生され、やがて次第に冷却を開始し、ついにその地表面上に、無生物とも生物とも判定しえないような、極微存在の発生が始まり、やがてそれらが一個の極小統一を内具する細胞として生長したのが、地球上に生物的生命の最初の出現とみるのが、現在の定説になっているようである。

 

極微の生命体における、その生と死と盛衰の転変を生じさせる根本的起因は、環境への適応の如何だといってよいであろう。やはり適者生存の理法がその全領域をつらぬいて、妥当する真理なしは法則というべきであろう。これを知性の観点からいえば、環境との適応において、その選択を誤らなかったものほど、よりよく生きたと言ってよいであろう。

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

11月11日(火)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。極めて難解な内容と思いますが、「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は2章4節の「創造への人間参加」の1回目で、ダンテの天才をもってしても、「神曲」は世界創造ではなく、地獄編から始まっていると述べています。

 

神の世界創造の大業は、いわば絶大無窮なる神曲というべきであって、我われ人間の有限的知性からすれば、文字通り無始無終という他なく、この一事のみでも、人が真剣にそれを考えようとしたら、気が狂うほどの荘厳無窮な、超戯曲という他ないであろう。

 

されば、「神曲」と名づけられているダンテの戯曲にしても、世界創造の序曲から筆を起こすことはせず、地獄編から始まっているのである。ということは、あの壮大な世界戯曲も、人間性に対する内的自省から出発する他ないと考えたが故であり、随って人間の有限的制約の自省からスタートしたものといってよい。

 

ダンテの「神曲」は、神のドラマと呼ばれているが、それは旧約聖書のように、神の世界創造から出発していないことは、改めて深思を要する事柄かと思うのである。それというのも、神の創造というが如き絶大無窮の大業は、文学作品としてはダンテの天才を以ってしても、そのよくするところではないということである。

 

すなわち、神による世界創造の大業は、旧約聖書の「創世記」のように、宗教的信の伝承記述という様式以外には、人為的表現を絶するというわけである。これも結局は、「神意」であり、神業という外なきを思わしめられるのである。
 

それにしても、世の哲学学徒と称せられる人々は、とかく「世界」という語を用いて、「宇宙」という語を用いたがらぬ傾向があるが、これは一体なぜであろうか。思うに「宇宙」といえば、天文学的宇宙と解せられがちなのを避けてのゆえと思われる。

 

それに対して、わたくし自身は「大宇宙」という語を、「世界」という語の代わりにとは行かぬとしても、少なくともこれら二種のコトバを、その時その場に応じて適宜交互に使用しているのが実情だといってよい。

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

11月10日(月)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。極めて難解な内容と思いますが、「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は2章3節の「創造――神曲としての世界史」の3回目で、第二の開眼にして、初めて第一の開眼に達する旨を述べています。

 

何故かというに、第一の開眼としての「世界史は神曲なり」という開眼律には、そこに肝心の“自己”というものが抜けていても、一応の肯定は可能だからである。その場合、自己はいわば傍観者として、きびしい現実的な秩序からは脱落しているが故に、これに対して比較的容易に肯定を為しうるのである。

 

しかるに、第二の開眼律というべき「各人の生涯もそれぞれに神曲である」という点になると、たやすくは肯定しかねる人もあるであろう。何となればこの場合、自己もまた世界史の大流の中に浮沈していて、世界秩序における一分子として組み込まれているが故である。

 

かくして「人間各自の一生もそれぞれの神曲である」というためには、自己の生涯の全的肯定を意味するが故に、直ちにこれを承認するとは限らないが故である。さらに一歩を進めて、開眼律の第一が真に絶対的真理として肯定できた人は、第二の開眼律を肯定し得るか否かという問題である。

 

結論から言うと、第二の開眼律を全面的に受容し肯定しうるに到って、初めて真に“止どめ”が刺さったと言えるであろう。如上の真理は一般的にも言い得る事柄かと思うのである。我われは第一、第二の開眼律を己が身上に全面的に受容し得たとしたら、既存の宗教上の諸派、ないし哲学上の諸学説にたよらなくても、一個生身のこの自己をそのままに、一瞬全的解脱に与かりうるといえるであろう。

 

同時にそれは「救済と自証」との一如相即態ともいえるであろう。ここに一瞬という一語を介入せしめた点に引っ掛かる人も少なくないであろう。だが、この「一瞬」という一語こそ、意図的に挿入した一語といってよいのである。それというのも、人間の自証や自覚は直線的な常持続は期し難いのであり、真の自証はいわゆる非連続の連続であり、天国と地獄が交互に瞬間を通して無限に非連続的に連続するというべきだからである。

 

一人の母は全世界よりも重い存在!

 

11月8日(土)

 

内村鑑三(1861年〜1930年)により1908年(明治41年)に刊行された英文著「Representative Men of Japan」の鈴木範久よる翻訳「代表的日本人」(岩波文庫)から、新日本の創設者としての西郷隆盛、封建領主の上杉鷹山、農民聖者の二宮尊徳、村の先生の中江藤樹、仏僧の日蓮上人の5名を紹介します。今回は中江藤樹の1回目です。

 

十一歳で早くも全生涯を決める大志を立てる

 

1608年、琵琶湖の西岸近江の地に、これまでの日本にも類のない、高徳にして進歩的な思想家が生まれました。関ヶ原の戦いからわずか八年後、大坂城落城の七年前のことです。男たちの主な仕事はまだ戦にあり、女たちは嘆きと悲しみに明け暮れる日々が続いていました。

 

学問や思想を求めるなどは、世の実際家にとり、なんの価値もないものと思われていた時代であります。藤樹は、両親の住む近江から遠く離れた四国で、もっぱら祖父母の手により育てられました。幼いころより同じ年ごろのなかでも、鋭敏まれなるものを見せていました。

 

十一歳のときに早くも孔子の「大学」によって、将来の全生涯をきめる大志を立てました。「大学」には次のように書かれていました。「天子から庶民にいたるまで、人の第一の目的とすべきは生活を正すことにある」。

 

藤樹はこれを読んで叫びました。「このような本があるとは。天に感謝する。聖人たらんとして成りえないことがあろうか!」。この時の感動を藤樹は一生忘れませんでした。「聖人たれとは」なんという大志でありましょうか!

 

あるとき、祖父の家が暴漢に襲われます。藤樹は刀を手にし、真っ先に暴漢のなかへ突進、首尾よく追い払いました。そして「変わることなく平然としていた」のでした。まだ十三歳でありました。同じころ、漢詩と書道を習うため、天梁という学識ある僧侶のもとに送られました。この早熟な少年は、先生に対し多くの質問を発しました。

 

なかでも次の質問は、よく藤樹の人物を物語っています。

 

「仏陀は生まれると、一方の手は天を、他方の手は地を指し、天上天下唯我独尊といったとお聞きしました。こんな高慢な人間が天下にいるでしょうか。先生は、そんな人間を、なぜ理想的な人物として仰いでおられるのでしょうか。お教え下さい」。

 

その少年は、後年も決して仏教を好きになれませでした。藤樹の理想は謙譲に徹することであり、仏陀はそれにかなう人ではなかったのです。十七歳のとき、孔子の「四書」(大学、中庸、論語、孟子)のそろいを入手できました。

 

サムライの本分は戦いとされていた時代であります。読書は、僧侶や隠遁者のみに似つかわしいとして蔑視されていました。若き藤樹もこの勉強は、こっそりと隠れて行わなければなりません。昼は武芸に費やし、書物に集中できるのは夜だけでした。

 

二十二歳になりました。やさしい祖父母は世を去り、父も最近失いました。逆境は藤樹をいっそう多感にし、涙もろく同情心の厚い人間にしました。唯一の気がかりは、近江に残した母のことでした。藤樹の名は学問と高潔な品性により、日ましに高まっていました。

 

名誉と高禄が約束されていたのです。しかし藤樹にとって一人の母は、全世界よりも重い存在でした。藤樹は葛藤のあげく、母のそばを離れずにいようと心に決めたのです。相当量の禄米、家屋敷、家財という全財産を後に残しました。

 

母のもとにあって、心は安らかでありました。しかし、家に帰り着いたとき、藤樹はたった百文(現在の一銭)しか残っていません。その金で少しの酒を買い、学者は行商人に変じて、

近くの村々を歩きまわり酒を売り、わずかの日銭を手にしました。

 

「サムライ魂」である刀を処分し、銀十枚を手にしました。この金を村人に貸し、それより生じるささやかな利子をあて、小家族のつましい生活を支える別の財源にしました。二年間、藤樹は貧しくて世に知られぬ生活、これ生涯でもっとも幸福な時期でした。

 

藤樹の全道徳体系は、子としての義務(孝)を中心としていて、この中心的な義務を欠くならば、藤樹はすべてを失って心が落ち着きません。しかし世は藤樹を学者、思想家として必要としていました。学問を人々のために役立たせなくてはならない機会が訪れました。

 

二十八歳で藤樹は行商をやめて村に学校を開きました。自宅がそのまま学生の寄宿舎、チャペル、教室の役を果たしました。科目は中国の古典、歴史、作詞、書道。田舎に住みながら、一生を終わる日まで、平穏無事の楽しい日々をつづけました。

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

11月7日(金)立冬。

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。極めて難解な内容と思いますが、「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は2章3節の「創造――神曲としての世界史」の2回目で、ご自身の体験から第二の開眼に触れています。

 

世界の生成を以って無始無終とするは、人間的理性の立場からは、この大宇宙の始源のごときは絶対に不可把促だからであって、至極当然という他ない。同時にキリスト教において、神は七日間にこの世界を創ったと記されているが、これも象徴的な数であって、いわゆる数学上の数ではないことは言うを要しない。

 

かくして、こん大宇宙の生成としての世界創造は、絶対の立場からは、いわゆる数的序列を超える意味においては、唯一「一回限り」の出来事ともいえよう。同時に他面それは常持続でなければなるまい。即ち今日唯今の現前の一瞬時といえども、そのまま壮大なる世界創造の神曲の一コマたることを知るべきであろう。

 

同時にかかる意味からは、哲学も宗教も、宇宙創造の神曲性と世界史の神曲性とが相重なり、初めてその一端に触れ得るとも言えるであろう。

 

わたくしは前にも述べたように、世界史の神曲性に開眼せられた後、やや間をおいて、次に「第二の開眼」を得たのであるが、それは「第二の開国」として公刊したが、二つの事件はこの微々たるわが生もまた、一種の神曲として開眼せられることを確証し得たのである。

 

もっとも「わが生涯もまた神曲である」との開眼を得たのは、引き揚げ後二、三年の頃だったと思うのであり、当時は決して観念性を全脱するものではなかったが、爾来今日に到るまでの間に遭遇した一身上の幾転変にも拘らず、それら人生の幾試練によって、観念性を脱して、その真なることを身証体認せしめられつつあると言ってよい。

 

これらの点については、今少し立ち入った吟味と考察を要するかと思うのである。それは如何なる点かというに、第一の「世界史は神曲なり」は異論のない人でも、第二の開眼律というべき「各人の一生もそれぞれに神曲である」点になると、たやすくは受け取り難いという人が少なくないかに思われるのである。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

11月6日(木)秋の土用明け。

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。極めて難解な内容と思いますが、「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は2章3節の「創造――神曲としての世界史」の1回目で、「世界史は神曲なり」の立場を説いています。

 

ある意味では哲学並びに宗教上、最至難事ともいうべき創造の問題と取り組むにあたり、改めて痛感せしめられることは、世界創造の問題は、これを一言でいうとすれば、まさに「神曲」というコトバが、これを表現するのに最も応わしいかに思われる。

 

それというのもわたくしは、第二次世界大戦の際には国外にいて、戦後リュック一つで祖国に帰還した一人である。昭和二十一年、引揚船が舞鶴港に入港して上陸開始と共に、一面に焼土と化した大阪その他の大都市の焼跡に起ちつつ、沈痛極まりない思いを続けたが、やがて胸中に湧き出る真清水のように、湧き上がってきた感慨は、実に「世界史は神曲なり」の一語だったのである。

 

爾来三十年にならんとする歳月の間、一身上には幾転変を重ねてきたが、如上の根本信条は、いよいよ明らかさと確かさを加えて今日に到り、その間微動だにしないのである。そして今や、ここに創造観について一書を物するにあたっても、その根源を貫くものは、この「世界史は神曲なり」と観ずる立場だといってよい。

 

実に、世界史を神曲と観ずる立場こそ、真の「創造観」というべきであって、他に之にまさる如何なる創造観も断じて在り得ないであろう。何となれば、世界史を神曲と観ずる時、世界創造の主体は、他ならぬ絶対的全一者としての神以外にはあり得ないからである。

 

かくして、かの「旧約聖書」の冒頭の創世記神話において、「七日」という数が記されているが、実は無量時の象徴的表現と解すべきは、もとより論を待たぬところと言ってよい。同様にまた、一知半解の仏教者の中には、仏教における無始無終説を、キリスト教の創世記神話と対比せしめて、両者の優劣についてあげつらうが如き徒も間々見受けられるが、何れも一知半解の徒であって、真に永遠無窮の“いのち”の真諦に関しては、その表現は象徴的手法をとる他なきを知るべきであろう。

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

11月5日(水)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。極めて難解な内容と思いますが、「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は2章2節「第一の創造と第二の創造」の最終回で、人口養殖を例に第二の創造の深意を説いています。

 

開発というコトバには、元来そこに潜んでいる無限の可能性を予想し、それを成素の結合様式の変更など、種々の工夫を施すことによって、そこに新たなる事物の創成を見ようとする人間的努力と言ってよく、これ古人の「天地の化育に参ずる」ものといえるであろう。

 

第二次創造というべきものの中に、最近盛んにおこなわれつつある努力の一つとして魚類の養殖があるが、これについては特に心を惹かれるものがある。それというのも、四辺海を以って、古来動物的蛋白資源のほとんどを海に仰いできた民族は、漁法の発達で稚魚のうちに捕獲し尽くす傾向が強くなった上に、公害によって近海の魚族はほとんど絶滅に達しつつある現在、一道の活路は人口養殖の他はないのである。

 

これは機械による量産と異なり、そこには幾多の予想しなかった困難に当面するのは、当然といわねばなるまい。この場合の努力の対象は、いわゆる“もの”ではなくして“いのち”だからである。対象が“いのち”そのものである養殖には、いわゆる安易な機械量産のごときは絶対に不可といわねばならない。

 

養殖法において、最根本的な至難事は、卵が孵化して初めて生まれた初生稚魚の飼料として、一体何を与えたらよいかということが、第一の難問といわれるが、かりにそれを鶏卵の卵黄を細かく砕いたものだとしても、それをどのようにして与えるかは、文字通り真に「機微」という他ないであろう。

 

何となれば、孵化したら直ちに餌を与えるのが良いのか、それともしばらく時の経過をもった上で与えるがよいか、さらにその時与える分量から、与えるに適した場所、さらに水質、水温などに到るまで際限なきことを知らされるであろう。

 

稚魚という相手の“いのち”と、「我」を捨て切った己が“いのち”とが相通じ、相呼応すると言えるわけで、初めて第二の創造と呼ばれる深意の一端に触れることができるのである。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

11月4日(火)

 

森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。極めて難解な内容と思いますが、「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は2章のテーマそのものの「第一の創造と第二の創造」の2回目で、「第二の創造」を人間的営為と呼んでいます。

 

人間の手によって、作物の種子が畑に蒔かれる場合もありはする。それは植林その他栽培の意図を以って為される、人間的営為の一種であって、わたくしが「第二の創造」と名づけるものに他ならない。第二の創造とは、人間が絶対能生者たる神の第一次的創造を基盤としつつ、その上に神意をよりよく活かさんがために行う、人間的営為といってよいであろう。

 

「第二の創造」をこのように考える時、そこには“いのち”による“いのち”の生育への幇助という場合のあることを知らされるのである。その場合、分身としての“いのち”が、同じく分身としての“いのち”の生育の幇助に参加するのであって、かの中国古代の思想家が「天地の化育に参ずる」と言った深意ともいえるであろうか。

 

かくして、第一の創造は、“いのち”が“いのち”を生む場合と、“いのち”が “もの”を生む場合とに大別できるのである。では人間による第二の創造は如何であろうか。それは人間が特有の知力を発揮し、第一次創造のよる所産を素材として、それに何らかの加工を加える謂いに他ならない。

 

例えば、石油加工品も根本的には神による第一次創造に依拠するわけであり、随ってその度が過ぎる時、そこには種々の有害物質の放出を招来する恐れがあり、いわゆる「公害」問題というのがそれである。普通に第二の創造といえば、ほとんど人間の領域であるかに考え易いが、多少とも立ち入って考察すれば、意外なほどに第一次創造に負うていることを知らしめられるのである。

 

いわんや、努力の対象が生物である場合には、素材的には完全に第一次創造の所産と言わねばなるまい。例えば、米穀を始めとして、果樹その他樹木の品種改良のごときは、未だ秘められている、無限の可能性の開発に挑む努力で、これまでは発見と発明の二語のみであったが、近時「開発」というコトバの用いられる場合が多くなりつつあるのも、時代の動向が伺われると言えるであろう。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

11月3日(月)文化の日。

 

晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。「日本人独自の哲学とは何か」の手がかりとは言え、テーマが難解なるがゆえご覧いただけないことを懸念していましたが、関心をもっていただける方がおられることに感謝して続けます。

 

本日は2章のテーマそのもの、第二節「第一の創造と第二の創造」の1回目で、第一の創造は絶対者による“いのち”の創造であるのに対し、第二の創造は人間による「物の制作」と述べています。

 

前節において、“いのち”の本質は、「“いのち”が“いのち”を生む」作用にある旨を述べると共に、“いのち”の本質としての「愛」の大用について述べたのである。けだしそこにこそ、「創造」の第一次的大用が見られるが故である。

 

近時主体重視の論議のために、ともすれば神の創造の原型としての客観界たる大宇宙の意義が、閑却されがちな傾向が見られるが、かくの如きは実に重大な誤りと言わねばなるまい。この点については次章の「主体と超主体」の立場で論究したいと考えているのである。

 

では何故に普通人びとがあまり取り上げない、かかる「超主体」の立場を力説するかというに、真の創造論は、このような超主体の絶対的立場においてのみ、真に可能だと考えるが故である。それというのも、あの無辺の天空に拡がる満天の星座一つをとっても、それが如何に創生されたのか説きようがないはずだからである。

 

この程度の事例によっても、創造論の根底には、能性(造)者としての絶対的全一生命による第一次的創造が、その根底に予想されねばならぬことは、何人にも自明な事柄と言わねばなるまい。けだし、第一次的創造をその根底に予想するのでなければ、「第二の創造」というべき人間主体の働きようはないからである。

 

第一次的創造が、能生者としての絶対者の生む大用だとすれば、その上に営まれる人間的主体の営為は、前者が“いのち”の能性作用(生む作用)であるのに対して、一応物の制作といってよいであろう。試みに、眼を庭前の樹木に放つとしてみよう。その樹木の生長は、人間自身の力によるものでないことは言うまでもない。

 

二宮尊徳――農民聖者③

 

11月1日(土)紅茶の日。

 

内村鑑三(1861年〜1930年)により1908年(明治41年)に刊行された英文著作「Representative Men of Japan」の鈴木範久よる翻訳「代表的日本人」(岩波文庫)から、新日本の創設者としての西郷隆盛、封建領主の上杉鷹山、農民聖者の二宮尊徳、村の先生の中江藤樹、仏僧の日蓮上人の5名を紹介します。今回は二宮尊徳の最終回です。

 

「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる」

 

自身が独力で地位を築いた人ですから、勤勉と誠実とにより、独立と自尊にいたらないわけはないとの信念を抱いていました。尊徳は貧困にあえぐ農民たちに向かって語りました。「天地はたえず活動し、我々をとりまく万物の成長発展は止むときがない。この法にしたがって、休むことさえしなければ貧困は求めても訪れない」。

 

村人の信頼を失っていた名主が尊徳の知恵を借りにきました。「自分可愛さが強すぎるからである。利己心は獣のものだ。村人に感化を及ぼそうとするなら、自分自身のもの一切を村人に与えるしかない。全財産を売り、ことごとく村の財産にし、村人に捧げるがよい」。

 

男は教えどおりに実行しました。彼の影響力と声望はただちに回復。一時の不足分は尊敬する師が調達しました。まもなく全村こぞって名主を支援するようになり、短期間で以前にもまして裕福になりました。

 

孔子の書物に「禍福は、向こうから訪れるのではなく、ただ人間がそれを招くものである」と記されているではありませんか。わが先生は近づきやすい人ではありません。初めて会う人はその身分にかかわりなく、「仕事が忙しくて」と門前払いにあいました。それに根負けしない人だけが、話を聞いてもらうことができたのです。

 

尊徳は「自然」と人の間に立って、道徳的な怠惰から、「自然」が惜しみなく授けるものを受ける権利を放棄した人々を、「自然」の方へとひき戻しました。尊徳の信念にもとづく、荒廃した三村の再興は成就しました。

 

万物には自然の道がある

 

尊徳は全国の諸大名により、たえず煩わされる身となりました。広範な領地をかかえる十人の大名が、荒廃した自領の改良のため尊徳の力を借りました。助けられた村の数は数えきれないほど。最晩年には徳川幕府に用いられ、国家への貢献も重要となりました。

 

尊徳の領主である小田原藩は、大きな恩恵を受けました。広大な領地は尊徳の支配下におかれ、その中の多くの荒廃地がたゆまぬ勤勉と「仁術」によって回復をみました。最も顕著な功績の一つは、1836年の大飢饉に際してみられました。

 

「手だてに困ったときの飢饉の救済法」という尊徳の名高い講話です。主だった聴講者は、藩政の執行を任ぜられた国家老でした。

 

「国が飢饉をむかえ、倉庫は空になり、民の食べるものがない。この責任は治者以外にないではありませんか。民を善に導き、悪から遠ざけ、安心して生活できるようにすることが、与えられた使命ではありませんか。ところが今や、民が飢饉に陥っているのに、自分には責任がないなどと考えています。これほど嘆かわしいことを天下に知りません。

 

この時にあたり、救済法を講じることができなければ、治者は天に自己の罪を認め、みずから進んで食を断ち、死すべきであります。ついで配下の大夫、郡奉行、代官も同じく食を断って死すべきであります。その人々も民に死と苦しみをもたらしたからであります。飢えた人々に対して、そのような犠牲がもたらす道徳的影響は、ただちに明らかになりましょう。

 

・・・国に飢餓が起こるのは、民の心が恐怖におおわれるからであります。治める者たちが、すすんで餓死するならば、飢饉の恐怖は人々の心から消えるでありましょう。・・・このために家老の死のみで十分であります。これが何の手だてもないときに飢えた民を救う方法であるのです」。家老は恥じて恐れ入り、長い沈黙ののちに言いました。「貴殿の話に異議なない」。救済は実直に遂行されました。

 

「一村を救いうる方法は全国を救いうる。その原理は同じである」。尊徳は尋ねる人に決まって言いました。「当面のひとつの仕事に全力を尽くすがよい」。この人物は、自分が永遠の宇宙の法を体得していることを分かっていたのです。

 

尊徳は一生の最期まで働きに働いた人でした。その手で再興された数多くの村々の晴れやかな姿は、その知恵と計画の永遠性を証するものであります。日本の各地にあって、その教えにより結ばれた農民団体がみられ、尊徳の教えた精神を永遠に伝えているのであります。