「全一学」提唱の「創造の形而上学」
11月12日(水)酉の市。
森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋しています。極めて難解な内容と思いますが、「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は2章4節の「創造への人間参加」の2回目で生命体における生と死を分ける根本的起因は、環境への適応だと指摘しています。
近時自然科学的文明の一種の行きづまりからして、人々が自然界の意義に注目し始めたのは、悦ぶべきと言えるが、この場合にも、単に「自然」というだけでは、単に対象界としての自然科学的な自然を意味するに過ぎない。先の「大宇宙」と同じく「大自然」の語を用いて、単なる対象的自然とは区別すべきだと考えるのである。
かくして真の絶対的観点に立つとき、「世界創造」は、単にその外的一面としての、天文学的宇宙の創生しか人間には分からぬわけであり、否、それすらも「膨張する宇宙」などの語が示すように、我われ人知が現在把握しているのは、その一微小部分に過ぎず、真の「絶対的全一」というべき「大宇宙」そのものの、内面構造なり創造的展開のプロセスなど、人間の有限的知性には、永劫に閉ざされた絶対神秘の領域という他ないであろう。
世界創造は神による絶大無窮の神的戯曲ともいうべく、人間の有限的知性にとっては、永遠に神秘であって不可把促という外ないであろう。随ってその表現もまた神話的象徴的手法による外ないわけである。
以上がマクロ的方法というのに対して、ミクロ的手法を取り入れてみるとすれば、天体の極微の一小部分としての地球が派生され、やがて次第に冷却を開始し、ついにその地表面上に、無生物とも生物とも判定しえないような、極微存在の発生が始まり、やがてそれらが一個の極小統一を内具する細胞として生長したのが、地球上に生物的生命の最初の出現とみるのが、現在の定説になっているようである。
極微の生命体における、その生と死と盛衰の転変を生じさせる根本的起因は、環境への適応の如何だといってよいであろう。やはり適者生存の理法がその全領域をつらぬいて、妥当する真理なしは法則というべきであろう。これを知性の観点からいえば、環境との適応において、その選択を誤らなかったものほど、よりよく生きたと言ってよいであろう。