「全一学」提唱の「創造の形而上学」
10月31日(金)日本茶の日。ハロウイン。
晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋します。極めて難解な内容と思いますが、「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は2章「第一の創造と第二の創造」の第1節「“いのち”の本質とはたらき」の最終回で、いのち”の真義は、“いのち”の自覚者を生むことだと説いています。
かくして「愛」とは、自らを割いて相手に与える謂であり、時あっては、自己はその為に死ぬ場合さえないとは言えないのである。否、「愛」の原型としての親の愛は、子に先立って
わが身は死ぬのであり、子のために尽くし尽くしてそのいや果てに死ぬというのが、親の愛の原型といってよいであろう。
我われは、“いのち”を自ら割いて“いのち”を生むという、愛の“はたらき”によって、初めて“いのち”の真に触れるわけであるが、“いのち”を生むということは、単に生理的生命を生むだけではないのであって、この一線を超えることによって、眼前には広袤展開が観ぜられることであろう。
何となれば、“いのち”の真義は、“いのち”の自覚による愛の実践を通して、“いのち”の自覚者を生むことだとしたら、努力次第でそこには、生理的生命を生む場合のような何らの限界もなくなるであろう。しかも“いのち”の自覚者を生むということは、有縁の人々との魂に対して、自覚の炬(ひ)を点ずるの謂いでなくてはなるまい。
それは必然に、かくして点火した相手の“いのち”を育くみそだてる努力を意味し、それを包摂するといえるであろう。しかしながら、生命の目覚めには「時」を必要とする。このことは、単なる植物的生命すら、タネを蒔いたらからとて翌日すぐに発芽するというわけにはゆかぬが、人間の魂の目覚めにおいておやである。
このように“いのち”が“いのち”を包摂して、そこに自覚の目覚めを与える努力こそ、古来「教育」の名を以って呼ばれてきた人間的営為の精髄とも言えるであろう。随って、真の“いのち”の目覚めを意図する宗教的努力は、そのまま教育的営為というべく、古来その実あって、その名を欠いたのは、そもそも何故と言うべきであろうか。結局、導くもの自身における“いのち”の自覚の不足から結果する、“いのち”の包摂愛の稀薄さから生じるかと思われる。