上杉鷹山――封建領主②
10月11日(土)
内村鑑三(1861年〜1930年)により1908年(明治41年)に刊行された英文著「Representative Men of Japan」の鈴木範久よる翻訳「代表的日本人」(岩波文庫)から、新日本の創設者としての西郷隆盛、封建領主の上杉鷹山、農民聖者の二宮尊徳、村の先生の中江藤樹、仏僧の日蓮上人の5名を紹介します。今回は上杉鷹山の2回目です。
産業改革の目的は「礼節を知る人」を育てる
鷹山の産業改革は二通り。(1)は領内に荒地を残さないこと、(2)民の中に怠け者を許さないことです。サムライたちを平時には農民として働かせ、荒廃地から何千町歩にもなる土地を興しました。鷹山の主な目的は、領内を全国最大の絹の産地にすることでした。
自分の始めた数千本の桑株は、しだいに株分けされて全領内に植える余地がなくなるほど。
しかし、領内にはまだ荒地が残っていました。豊かな実りは水の灌漑のよいことを前提としています。そこで長距離にわたる高い堤による用水路の建設を完成します。
もう一つは堅い岩石に1200フィートのトンネルを掘ることで、大きな水流を変える工事です。この事業は鷹山治世の20年間を要した、領内に貢献する最大の仕事。荒地には花が咲き、米沢領は豊かな沃地に変わりました。以来、水不足に見舞われたことはありません。
東洋思想の一つの美点は、経済と道徳を分けない考え方であります。富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じとみなします。木によく肥料をほどこすならば、労せずして確実に実ります。「民を愛する」ならば、富は当然もたらされるでしょう。
「ゆえに賢者は木を考えて実をえる。小人は実を考えて実をえない」。このような儒教の教えを鷹山は尊師細井から授かりました。産業改革で特に優れている点は、その目的の中心に家臣を有徳な人間に育てることを置いたところです。
純粋な二つの社会改革について
改革が順調に動き出すと、閉鎖されていた藩校を再興し、「興譲館」と名づけました。「謙譲の徳を振興する所」という意味です。館長には当代屈指の学者の一人、鷹山の師である細井平洲を招きました。才能があっても貧しい学生には奨学金を与えて学費を免除。
どのような仁政も、病人を治療する施設を備えて完全になります。さらに医学校を開設し、当時の日本では最高の医師二人が教師として招かれました。薬草の栽培に植物園も開かれます。西洋医学が恐怖、疑惑の目で見られ時代、数人の家臣を漢方医杉田玄白のもとに派遣して新しい医学を学ばせました。
純粋な社会改革については二つにとどめます。公娼の廃止は「仁政」にかなっていました。廃止すると欲情のはけ口を断たれ、もっと凶悪な方法で社会の純潔を危険にさらすという反対論に対して、鷹山は答えました。「欲情がそんなことで鎮まるなら、数知れない遊郭が必要になろう」。廃止することによって、何らの社会的不都合も生じなかったのです。
もうひとつは最も重要な農民への教えで、「伍十組合の令」であります。これは鷹山の理想国家を誠によく物語っています。原文の一部を紹介します。
農民の天職は、農(農作物を作る)、桑(蚕を育てる)にある。これにいそしみ、父母と妻子を養い、お世話料として税を納める。これはみな、相互の依存と協力とをまって初めて可能になる。そのためにはある種の組合が必要である。・・・伍十組合と五カ村組合を設ける。
1.五人組は、同一家族のように常に親しみ、喜怒哀楽を共にしなければならない。
2.十人組は、親類のように、互いに行き来して家事に携わらなければならない。
3.同一村の者は、友人のように助けあい、世話をし合わなければならない。
4. 五カ村組合の者はどんな場合にも助け合うように、困ったときは助け合わねばならぬ。
5. たがいに怠らず親切をつくせ。もし年老いて子のない者、幼くて親のない者、貧しくて養子の取れない者、配偶者を亡くした者、身体が不自由で自活のできない者、病気で暮らしの成り立たない者、死んだのに埋葬できない者、火事にあい雨露をしのぐことができなくなった者、あるいは他の災難で家族が困っている者、
このような頼りのない者は、五人組が引き受けて身内として世話をしなければならない。五人組の力が足りないときには、十人組が力を貸し与えなければならない。・・・
6.善を勧め、悪を戒め、倹約を推進し、贅沢をつつしみ、天職に精励させることが、組合を作らせる目的である。・・・
鷹山は自身が垂範し、十五万人の社会を徐々に効果的に、自己の理想にものに作り上げて行きました。