「民をいたわること、わが体の傷のごとくせよ」
10月4日(土)
内村鑑三(1861年〜1930年)により1908年(明治41年)に刊行された英文著「Representative Men of Japan」の鈴木範久よる翻訳「代表的日本人」から、新日本の創設者としての西郷隆盛、封建領主の上杉鷹山、農民聖者の二宮尊徳、村の先生の中江藤樹、仏僧の日蓮上人の5名を紹介します。今回は上杉鷹山の1回目です。
言行の不一致、賞罰の不正、不実と無礼を犯さぬ
「学問」のいまだ西洋から伝わる前、すでにこの国には、平和の道を知り、独自の「人の道」が実践され、そのために「死を覚悟した勇士」がいたのです。鷹山が米沢藩の世継ぎとなったとき、まだ17歳の少年でありました。
九州の小大名である秋月家に生まれた鷹山は、「もの静かで、利発で、孝心厚い性格」として、自分の家より格が高く所領も大きな上杉藩の養子に推挙されたのです。鷹山にすれば有難迷惑、全国にもまれなほど重い責任を負わされる運命に出会ったからです。
鷹山の師細井平洲は、名もない身分から責任ある地位に抜擢された、学者であり高潔の士でありました。鷹山はその師に対し、ひたすら従順でありました。その師が繰り返し好んで聞かせた、ひとりの忠順な生徒の話があります。
「大藩紀州の藩主徳川頼宣は、言いつけを聞かなかったために、師から膝をきつくつねられた。その時できた膝のあざを、そっと眺めるのが常であった。『これは尊師が残した警告である。これを見るたびに、自分を省みて自己と民とに誠実であるかと問う戒めとしている。しかし残念ながら、あざは年を取るごとに色うすれ、それにしたがい私の慎みも薄れている』。
英邁な藩主は、何度もこのように述べたといわれる」。
年若い鷹山は、この話を聞かされるたびに涙を流した、まことに珍しい感性の持ち主でありました。中国の聖賢の、「民をいたわること、わが体の傷のごとくせよ」との言葉は鷹山の心の奥深くにまで強い印象を与えたようで、終生を通じて民をみる心がけとしました。
藩主になる日のこと、次の聖文を一生の守護神である春日明神に献げました。
1.文武の修練は定めにしたがい怠りなく励むこと。
2.民の父母となるを第一のつとめとすること。
3.次の言葉を日夜忘れぬこと。
「贅沢なければ危険なし 施して浪費するなかれ」
4.言行の不一致、賞罰の不正、不実と無礼を犯さぬようつとめること。
これを今後堅く守ることを約束する。もし怠るときには、ただちに神罰を下し、家運を永代にわたり消失されんことを。
財政改革から行政改革へ
上杉藩は太閤以前にあっては、全国でもっとも強大な藩でした。太閤の手で会津の地に移されて勢力をそがれ、関ヶ原の戦いでは反徳川方にまわったため、今度は三十万石に減封されて米沢の地に。その後石高はさらに半分に減らされました。
鷹山が藩主になったとき十五万石の大名でありながら、昔の百万石の家臣を抱え、当時の慣習やしきたりを踏襲していたのです。したがって負債は何百万両にのぼり、住民は土地を追われ、貧困が全領を覆い、藩の崩壊と住民の破産は必至とみられていました。
鷹山の変革はみずからの倹約から。家計の支出を千五十両から二百九両へ。奥向きの女中は五十人から九人へ。着物は木綿、食事は一汁一菜。家来たちも同じく倹約しなければなりません。財政改革から行政改革は「能力に応じた人の配置」の人材登用です。
人間を三つの異なる地位に分け、民の上に配します。第一の役は郷村頭取と郡奉行。行政一般をになう総監督で、その心は「民には母のように接しなければ」。第二の役は巡回説教師のような役で、生活慣習や儀式を教えます。第三は警察の役で、その心は「地蔵の慈悲をもち、不動の正義を忘れるな」。
このような民の統制制度を作り上げる若き藩主は、人間性についてよほど深い洞察力をもったに違いありません。この新体制は五年間妨害なく実施され、絶望視された社会にも、回復の希望がよみがえりますが、そこへ「保守派7人の重臣による改革反対」です。
「民の声は神の声」、藩主は自分の評価を民に託します。ただちに家臣全員を総会に召集して意見を聴き、自分の政治が天意にかなっているかどうかを尋ねます。結果は改革反対の5人の重臣は無期閉門へ。首謀者の2人は自決となります。若き藩主は厚い信仰心と豊かな感性を有するにもかかわらず、真の英雄でありました。