晩年の「創造の形而上学」

 

9月26日(金)

 

それでは晩年の大作「創造の形而上学」を抜粋して紹介します。併せて若い頃の「恩の形而上学」(致知出版社刊行)をご覧いただければ幸いです。

 

 

1.全一者――その把握と方法

(1)哲学と全一学

 

大宇宙の間に磅礴(ほうはく)する絶対生命の自証に真に哲学は成る。その時、それは「哲学」という名辞よりもむしろ「全一の学」、さらに端的には、「全一学」と呼ぶがより応わしいといえるであろう。

 

何となれば、「哲学」という名辞は、周知のようにギリシャにその端を発し、知性を主とする立場からの無限者の探究を意味するが故である。すなわちその原意は、知的愛の無限追求を意味するが故に、我われ東洋人にとっては、大宇宙生命の自証としての全一的要求は、必ずしも充分に満たされるとはいえないからである。

 

たとえば認識を主とする認識論的哲学にあっては、そもそもの動因ないし出発点は、絶対的生命の把握に対してわれら有限者の知性が、はたしてその把握を可能とするか否やを吟味しようとして、いつしか道具たる知性の吟味に終始して、

 

絶対生命の把握は、われら有限者には不可能との結論に到達したわけで、その代表が、認識批判を基礎とするカント哲学だという点については、今さら言うを要しないであろう。

 

いわんや経験論に立脚する英国哲学の主流にあっては、大宇宙の絶対生命の把握というが如きは、最初より期待し得ぬところといわねばなるまい。

 

だが、われわれ人間は、自らが有限存在であるにも拘らず、否、むしろそれ故にこそ、逆に何らかの趣において大宇宙の絶対生命への希求を断念し得ないものがあり、それは差し当たっては、いわゆる宗教への希求として発現するわけである。もっとも斯くいえば、哲学と宗教の相違を無視し、いわんや両者を同一視しようとするのでないことは言うまでもない。

 

晩年の「創造の形而上学」

 

9月25日(木)

 

晩年の大作「創造の形而上学」を抜粋します。本書の「解題」で寺田一清先生が詳細に解説しており、参考になると思いますので紹介しています。今回は2回目です。

 

それゆえ「前者」には、たとえば「絶対必然即最善」観が詳説せられているのに反して、「後者」には、大宇宙生命の全一的な秩序の展開が、――たとえば「易」の哲理が大きく取りあげられている点が注目せられます。

 

第三としては、思想の根本的契機となったものは、前者がそのかみ福島政雄博士によって開眼せられた親鸞教であったのに対して、後者は徳川時代中期の高僧慈雲尊者の「十善法語」に観られるいのちの全一的円観と言い得ましょうか。

 

なお「恩の形而上学」における内的媒介は、如上親鸞教にあるにしても、その表現は、道元の「正法眼蔵」の緊迫したリズムに由られたことは、しばしば聞くところです。されば、後者の「創造の形而上学」の表現に、最も深大な影響を与えたものが何であったかという事は、きわめて興味ある問題ですが、やはり「十善法語」のあのまどかにして高朗なリズムによられたと言うことは、心から肯けることと思われます。

 

なおこの両著述についての周到にしての克明なる比較検討は、今後心ある識者にゆずるとして、この両者に貫かれているものは、大宇宙的生命に迫る、飽くなき真の哲学的思索であると同時に、宗教的信への透徹せる希求探究であると申せましょう。

 

さればその生涯を賭けて、真の“いのち”の光を自証照徹せんとし、内なる衝迫探究に終始せられた先生の、真の哲人的風格を仰ぎ感動を禁じ得ないものがあります。西欧の哲人スピノザが「神に酔える人」と言われるように、森先生こそその永い生涯を、「絶対的信に賭けた人」と言い得ないでしょうか。

 

同時にこのたびこの「創造の形而上学」の出現によって、かつての哲学的名著「恩の形而上学」の真価が、再び脚光を浴びて再認識せられるであろうと思われてなりません。

 

*「恩の形而上学」は致知出版社から刊行されています。

 

晩年の「創造の形而上学」

 

9月24日(水)

 

晩年の大作「創造の形而上学」を抜粋します。本書の「解題」で寺田一清先生が3つの視点から解説しており、その内容が参考になると思いますので、以下2回にわたり紹介します。

 

前人未踏の哲学的大著を18日間で

 

本巻の下稿は、昭和51年4月19日より執筆に着手せられ、同年5月6日に擱筆(かくひつ)せられたもので、日数わずか18日、その間に、このような前人未踏の哲学的大著が、下稿ながらも一気呵成に仕上げられたのであります。

 

しかも齢八十歳の年の第一作「ある隠者の一生」の稿を了えられるや、その後わずか十余日にして、多年胸中に醸成せられていた根本テーマに挑まれたという事は、まことに驚嘆すべき事であります。

 

この主著については「序文」にも明らかなように、そのかみ「恩の形而上学」の執筆以来、40年を経過し、ここに森哲学体系の中心的主軸を世に問われたわけであります。この一書によって、哲学者、いな全一学者としての根本中堂を、しかも最晩年において樹立せられたわけであります。

 

即ちここに至られるまでのすべての学問的労作と、現実界の幾辛酸の遍歴は、この一書を生み出すための「神天」の導き、否、召命とさえ思われてなりません。随ってここに齢40歳当時の哲学的主著「恩の形而上学」との比較検討は、最も興趣をそそられるテーマと申せましょう。

 

いま浅学非才をもかえりみず、試みに卑見の一端を述べてみますと、本書においてしばしば言及せられているように、「恩の形而上学」の中心は、「所照の自覚」によって貫かれているのに対して、この「創造の形而上学」にいては、「いのちの自証」によって導かれたものであること、しいて言うなれば、前者が宇宙的生命の超越的一面に力点がおかれたことに対して、後者は宇宙的生命の内在的な本質に迫るものと言えましょう。

 

第二に、前者が主として「個」の「立命」を通し解脱救済が探究されているに反して、後者は、むしろ宇宙的生命の全一的把握とその全一相の消息に迫真せられたものと申せましょう。

晩年の「創造の形而上学」

 

9月23日(火)

 

晩年の大作「創造の形而上学」を抜粋します。難解の哲学書ゆえ、背景と全体像を理解するため3回にわたり本書の「序」から紹介しました。本書は哲学に代わり、日本人の哲学としての「全一学」提唱の第一歩でもあります。10章からなる本書の目次を紹介すると共に3回の紹介を今一度確認します。

 

1回目は本書、「創造の形而上学」と対比される若い頃の「恩の形而上学」について。あの書が出たのは、当時西田幾多郎先生の禅に依拠した「無の哲学」が、学会を風靡していた時期であった。自力教としての禅のほか、他力教たる浄土教系の哲学体系として成ったものであること。

 

2回目は妻の死に次いで、「全集」(全25巻)刊行の重責に当たっていた長男の死という、人生最深の悲劇を痛験せしめられ、それを機として尼崎の同和地区の一隅に身を寄せ、「独居自炊」の生活に入り、学問的には密かに現代における「隠れ里」に身を置く念いであったと。

 

3回目は「創造の形而上学」は、哲学的思索の第一期の成果であった「恩の形而上学」に対して、人生の晩年を迎え、「天」の賜える新たなる「開眼」の一成果ともいうべく、「全一学体系」五部作の、いわば首巻として生まれたとのことです。

 

本書は下記の通り全体で10章、各部は5節から成立しています。

 

1. 全一者――その把握と方法

2. 第一の創造と第二の創造

3. 創造における主体と客体

4. 全一生命の秩序と体系

5. 陰・陽論ーー東方的動的二元論

 

6. 人間出現の意義

7.  善・悪の問題

8.  時と永遠

9.  救済・自証・献身

10.宇宙における人間の位置

晩年の「創造の形而上学」

 

9月22日(月)

 

晩年の大作「創造の形而上学」の紹介です。難解の哲学書ゆえ、まずその背景、全体像を理解するため本書の「序」から紹介しています。本日はその3回目。前回は「全集」完成後、妻の死に次いで長男の死という、人生最深の悲劇を痛験せしめられ、それを機に尼崎の同和地区の一隅に身を寄せ、「独居自炊」の生活に入ったことを伝えていました。

 

本書は「全一学体系」五部作の首巻として

 

しかしながら齢八十を境にわたくしは、突如!!「老境の黎明」どころか、まさに大自在底の消息の一端ともいうべきものが開け始めたのである。同時にそれを機として、それまでは世界観人生観の学を、世上の慣行に従って、欧語の訳語たる「哲学」の語を用いていたが、

 

しかし、この語を用いるかぎり、我われ日本人としては知らず識らずの間に、ソクラテス、プラトン、アリストテレス以後、現代のハイデッカーやヤスパース等にいたる西欧思想の大流に心を奪われ、邦人としての世界観たるべき東・西世界観の切点への希求は、いつしか忘れがちになることを憂えて、ついに哲学という語の代わりに、新たに「全一学」の提唱に至ったのであり、かくして最初に生まれたものが、即ちこの書に他ならない。

 

かくしてこの書は、わたくしにとっては、そのかみ哲学的思索の第一期の成果たりし「恩の形而上学」に対して、今や人生の晩年を迎えた私にとっては、いわば「天」の賜える新たなる「開眼」の一成果ともいうべく、「全一学体系」五部作の、いわば首巻として生まれたわけである。

 

それ故、今から五十年前になった「恩の形而上学」と、爾来人生の幾転変を越えて成ったこの書とを、彼此相照してみたら、その間いかような変化が生じたかと、人によっては多少の興趣もあろうかと思われようが、しかも当の本人たるわたくし自身には、そのような感興はさらさら無く、しいて言えばその時期々々に、一おう自己の最善を尽くした成果というだけである。即ちいのちの必然的所産という他ない。

 

もしそれ有縁博識の士にして、彼此を被見せられて、ご高批を給わることが出来たとしたら、けだし望外の幸いという他ない。    昭和五十八年初頭 八十七歳の年初に 森信三

 

西郷隆盛――新日本の創設者②

 

9月20日(土)

 

内村鑑三(1861年〜1930年)により1908年(明治41年)に刊行された英文著作「Representative Men of Japan」の鈴木範久よる翻訳「代表的日本人」から、新日本の創設者としての西郷隆盛、封建領主の上杉鷹山、農民聖者の二宮尊徳、村の先生の中江藤樹、仏僧の日蓮上人の5名を紹介します。今回は西郷隆盛の2回目です。

 

ヨーロッパの「列強」に対抗するために

 

征服だけを目的として戦争を起こすことは、西郷の良心に反しました。東アジアの征服という目的は、当時の世界情勢から必然的に生じたもの。日本がヨーロッパの「列強」に対抗するためには、領土を相当に拡張し、国民の精神を高める侵略策が必要とみなしたのです。

 

自国が東アジアの指導者であるという一大使命感です。自国の使命に対して高い理想を抱き、理想とする英雄はジョージ・ワシントンであり、ナポレオン一派を強く忌み嫌うところから、決して野望のとりこではなかったことがよく分かります。

 

理由のないまま戦端を開くつもりはありません。それは「天」の法に反することだからです。しかし、大陸の隣国である朝鮮が新政府から派遣された数人の使者に対して無礼な態度をとったのです。さらに同地に居留する日本人に対して露骨な敵意を示し、友好的な隣国の威厳を著しく傷つける布告を発したのです。

 

放任してよいものか?そこで高官からなる少数の使節を派遣し、無礼に対する責任を追及するがよい。それでもまだ横柄な態度を続け、使節への侮辱を加えるなら軍隊を派遣する合図とみなし、「天」の許す限り征服せよ。

 

その任にあたる使者には、大きな責任と極度の危険がともなうので、西郷自身が使者の役に任命されることを希望し、使者の主席大使に西郷自身が任命されることを希望したのであります。板垣の特別の尽力により、西郷の任命が閣議でひそかに決定されたのです。

 

謀反人としての西郷隆盛

 

そのとき、岩倉が大久保、木戸と共に世界巡察の旅から帰国。彼らは文明が快適な暮らしと幸福をもたらす実状を見てきたのです。彼らは外国との戦争など考えてもいません。西郷がパリやウィーンの生活を想像できないのと同じであります。

 

岩倉らはあらゆる権謀術策を用い、留守中の閣議決定を覆すために全力を傾けます。遂に朝鮮使節団の決議を撤回します。人前で怒りを見せることのなかった西郷が、卑劣な公卿のやり方に激昂し、辞表を叩きつけ、故郷の薩摩へ引退します。

 

その後の政策は岩倉一派のいわゆる文明開花一色となります。「文明とは正義のひろく行われることである。豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない」。これが西郷の文明の定義です。以来、そういう意味での文明はほとんど進歩を見せなかったのではないでしょうか。

 

西郷の生涯で最も遺憾なのは最後の時期であります。西郷が謀反人となって政府に刃向かったことは事実であります。西郷をそこまで追いやった事情については、彼の生来有した「情のもろさ」とする考えは有力な見方であります。

 

崇拝できる人物は世界で西郷ただ一人と仰ぐ、およそ五千人もの若者たちが、おそらく西郷に知らされることもなければ、その意志にも反して、公然と政府に反乱を起こしたのです。強さにかけては人後に落ちない西郷も、困った人々の哀願の前には無力に等しいのです。

 

西郷は自分を敬愛する生徒たちのために、友好の印として、自己の生命、名誉、自己の一切を犠牲にするに至ったのかも知れません。西郷は反乱者たちと行動を共にし、作戦は一切桐野利秋たちに任せました。

 

戦闘は1877年2月から9月にかえて続きました。9月24日の朝、官軍の総攻撃が城山に向かって開始されました。西郷が立ち上がったとき、一発の銃弾に腰を打たれ、まもなく少数の味方は全滅。西郷の遺体は敵方の手に落ちました。

 

「無礼のないように」、敵将の一人が叫びました。別の一人が言いました。「なんと安らかなお顔のことか!」。西郷を殺した者がこぞって悲しみにくれ、涙ながらに葬りました。今日も西郷の墓には、涙を浮かべて訪れる人の群れが絶えません。西郷の国家に対する貢献について、歴史が正しい評価を下すまでには至っていません。

 

 

 

晩年の「創造の形而上学」

 

9月19日(金)

 

昨日から講演の「学道論」から、晩年の大作「創造の形而上学」に移りました。難解の哲学書ゆえ、まず全体像を理解するため本書の「序」から紹介しています。本日はその2回目。若い頃の著作である「恩の形而上学」は、「内容的には親鸞教的信に依拠したが、その表現には道元の『正法眼蔵』からの影響は免れぬ」と述懐していました。昨日の続きです。

 

尼崎の同和地区の一隅に身を寄せ、「独居自炊」の生活に

 

だが、体系構成の最根本的基軸が絶対者の恩光光被裡における「所照の自覚」(生かされている)であったがために、哲学体系としては、考察の基軸があまりにも「自己」に集中し過ぎたかの怨みなしとせず、随って爾来この点は、永く心の最奥処の問題だったのである。

 

しかしながら、そのような心の最奥処に潜むいのちの最根本的な問題に対して、新たにこれ体系的自証を試みるということは、けだし容易な業ではなかったわけである。しかるに民族の一員として痛験せしめられた、あの悲劇的敗戦を契機として、「恩の形而上学」に潜んでいたこの観念的なものの払拭のために、改めて唯物論的世界観に学ぶところがあり、かくして成ったものが他ならぬ「即物論的世界観」だったのである。

 

同時に、かの書の成立を契機としてわたくしは、倫理、宗教、歴史、日本文化等など、文化の諸領域に対しても、一おう体系的定位を試みねばならなくなり、かくして成ったものが、「人倫的世界」「宗教的世界」「歴史の形而上学」「日本文化論」等の諸著に他ならない。

 

だが、当時わたくしは、全国的規模における教育行脚のために、文字通り東奔西走のさ中であった上に、他方七十歳をめどに、「森信三全集」(全二十五巻)の完成に没頭していたこととて、かえりみて以上の諸著は、粗笨(そほん)のそしりを免れぬことを痛省せしめられていたわけである。

 

しかるに前記の「全集」の完成後も、尚わたくしは余命を恵まれーーもっともその後、妻の死に次いで、「全集」刊行の重責に当たっていた長男の死という、人生最深の悲劇を痛験せしめられたので、それを機としてわたくしは、尼崎の同和地区の一隅に身を寄せ、「独居自炊」の生活に入ると共に、学問的には密かに現代における「隠れ里」に身を置くの念いがしたのである。

「無の哲学」に対する「恩の形而上学」

 

9月18日(木)

 

7月10日から9月17日まで、講演「学道論」を紹介してきました。「学道論」では森「全一学」の真髄――「人生二度なし」、「自証と化他」、「一生で逢うべき人には必ず逢える」など、独自の見解を易しく語っていました。

 

そうした「学道論」を踏まえた上で、本日からいよいよ最晩年の大著、「創造の形而上学」を抜粋したいと思います。本書は難解を極めた内容の哲学書といえますが、まずは本書の背景を理解するため以下に「序」を紹介します。

 

かえり見て、これまでわたくしの書いてきた書物のうち、多少とも学問的と言いうるものがあるとしたら、それはわたくしの学問の基礎形成期ともいうべき三十代終了の直後になった「恩の形而上学」くらいのものであろう。ところであの書が出たのは、当時西田幾多郎先生の禅に依拠した「無の哲学」が、学会を風靡していた時期であった。

 

我われ日本人の宗教には、自力教としての禅のほか、他力教たる浄土教系の信者が少なくないゆえ、邦人の世界観としては、それに依拠する今ひとつの哲学体系のあるべきことを考えて成ったものであり、この点については、序文の中でもそれとなく触れておいたつもりである。

 

それと言うのも私は、若き日に福島政雄先生によって親鸞教にふれる機縁を恵まれ、随って仏教的信に依拠する世界観としては、「無の哲学」の外に、今ひとつ絶対者の恩光光被による

「所照の自覚体系」の可能と、その要を考えていたゆえ、「無の哲学」の盛行に対して、かくして成ったものが、即ち「恩の形而上学」(すでに紹介済み)に他ならない。

 

もっとも、我らの民族の最本源的な世界観としては、「民族生命の原始無限流動」ともいうべき「神ながら」の、創造的世界観ともいうべきものであろうが、当時のわたくしは、体系的に自証するまでには到っていなかったのである。

 

かくして「恩の形而上学」は、内容的には親鸞教的信に依拠したが、しかしその表現には、当時心酔していた道元の「正法眼蔵」からの影響を免れぬといえるであろう。しかし「恩の形而上学」は、書名を形而上学としたことゆえ、当時哲学上の根本的な諸問題に対しても、一応それぞれの位相を示したつもりである。

講演「学道論」

 

9月17日(水)

 

講演「学道論」を紹介しきましたが、本日で「学道論」は終了です。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されました。「学道の道は生命をかけた絶対必死の道」との結論です。

 

五体を捻って滴り落ちる血潮こそが思いの本質

 

未だこの一点に到らざる者は、如何に師と称せられても実は未だしきものであります。即ちこの甘さから脱却し去らない限り、真に道の師とはいい得ないのであります。それ故真の思とはあだ疎かなことではないのであります。

 

単に手を組んで考えるという程度のことではない。強いて申せば、まさに五体を捻ってそこに滴々と滴り落ちる血潮、それが思いの本質であります。一滴、また一滴と五体を絞って滴り落ちる血潮の滴り、それが真実なる意味における思の一歩一々の歩みであります。

 

かくの如き思にしてはじめて人生如実の知に到らしめられるのであります。即ちかくして得られた智慧であればこそ、よく天人を貫き古今を通貫する力をも持つ訳であります。学問というものは決して生やさしいものではありません。

 

況や学道においておやであります。すべて世の中のことは正直そのものでありますから、それに値するだけの授業料を払わないことには、真に意味深きものは得られないのであります。もっとも深刻な授業料を支払って、初めて深甚なる道の真趣も体得し得るのであります。

 

同形のものであっても、鋳型にはめて造ったものならば安く買えますが、原像を頒けてくれというと、十倍の価でもなかなかわけて貰えないのであります。何となればたとい写しを十集めてみても、一つの原物はできないからであります。まねごとの弟子を十人二十人並べてみた処で、一人の真実の師匠の代わりは勤まらぬからであります。

 

それ故真師一たび没すれば、その真実語は永遠に再び聞くを得ないのであります。ここに学道の道は実に生命をかけた絶対必死の道ということになるのであります。同時にそこまで来てはじめて禅宗などで申す殺仏殺祖というような言葉の真実味も窺われるかと思われるのであります。では甚だ不十分でありましたが、今回はこれで終わることに致します。(了)

講演「学道論」

 

9月16日(火)鎌倉鶴岡八幡宮 流鏑馬。

 

講演「学道論」を紹介しています。本講演は森先生が建国大学(満州)に赴任した年(44歳)、昭和14年12月25日に愛知県幡豆郡横須賀小学校で開催されました。本日は「読書と聞法は思いという働きによってついに智慧に到る」と述べています。

 

思いを通過しない知はすべて模倣である

 

勿論一面からは読書聞法も道行でありますが、併しもう一つ精細に申しますと、読書と聞法が智慧に会するには、どうしても通らねばならぬ一つの段階があるのであります。而してそれは思いということであります。

 

かくして読書と聞法はこの思いという働きによってついに智慧に到る訳であります。そこでこの思いという工夫道行きを欠いた聞法や読書は厳密には単なる反射運動に過ぎないということにもなるのであります。

 

即ち読書も聞法もこの思いという工夫によってはじめて真に自己の内面に徹し来るのであります。それ故この思いを欠く聞法と読書は真知の単なる模写に過ぎません。いわゆるお調子者が頼りないというのは、その知とする処が皆この模写の域に止まるからであります。

 

なるほど言うていることに間違いはないのでありますが、それでいてどこか頼りないのであります。畢竟これは思いの苦労を欠くが故であります。それ故人間も師匠の嘗めただけの思の苦労を、自分は自分独特の境涯に応じて通過しないことには、真に師の生命を継承するわけには行かないのであります。

 

でなければ、みな鋳型に嵌めた木偶人形と同じようになるのであります。形の上からいえば殆ど寸分違いがなくとも、本物と偽物とではそこに天地の違いがある。思いを通過しない限り、如何なる知も皆模倣であり複写であります。

 

模倣であり複写であるとは実は死んでいるということであります。そこで真実の師はその弟子をして何とかして自分の通過して来ただけの苦労をさせようと計るものでありましょう。自分の通ったのと、少なくとも劣らぬ程度の苦しみを、しかも相手それぞれの境涯において通過させようとするものであります。