西郷隆盛――新日本の創設者②
9月20日(土)
内村鑑三(1861年〜1930年)により1908年(明治41年)に刊行された英文著作「Representative Men of Japan」の鈴木範久よる翻訳「代表的日本人」から、新日本の創設者としての西郷隆盛、封建領主の上杉鷹山、農民聖者の二宮尊徳、村の先生の中江藤樹、仏僧の日蓮上人の5名を紹介します。今回は西郷隆盛の2回目です。
ヨーロッパの「列強」に対抗するために
征服だけを目的として戦争を起こすことは、西郷の良心に反しました。東アジアの征服という目的は、当時の世界情勢から必然的に生じたもの。日本がヨーロッパの「列強」に対抗するためには、領土を相当に拡張し、国民の精神を高める侵略策が必要とみなしたのです。
自国が東アジアの指導者であるという一大使命感です。自国の使命に対して高い理想を抱き、理想とする英雄はジョージ・ワシントンであり、ナポレオン一派を強く忌み嫌うところから、決して野望のとりこではなかったことがよく分かります。
理由のないまま戦端を開くつもりはありません。それは「天」の法に反することだからです。しかし、大陸の隣国である朝鮮が新政府から派遣された数人の使者に対して無礼な態度をとったのです。さらに同地に居留する日本人に対して露骨な敵意を示し、友好的な隣国の威厳を著しく傷つける布告を発したのです。
放任してよいものか?そこで高官からなる少数の使節を派遣し、無礼に対する責任を追及するがよい。それでもまだ横柄な態度を続け、使節への侮辱を加えるなら軍隊を派遣する合図とみなし、「天」の許す限り征服せよ。
その任にあたる使者には、大きな責任と極度の危険がともなうので、西郷自身が使者の役に任命されることを希望し、使者の主席大使に西郷自身が任命されることを希望したのであります。板垣の特別の尽力により、西郷の任命が閣議でひそかに決定されたのです。
謀反人としての西郷隆盛
そのとき、岩倉が大久保、木戸と共に世界巡察の旅から帰国。彼らは文明が快適な暮らしと幸福をもたらす実状を見てきたのです。彼らは外国との戦争など考えてもいません。西郷がパリやウィーンの生活を想像できないのと同じであります。
岩倉らはあらゆる権謀術策を用い、留守中の閣議決定を覆すために全力を傾けます。遂に朝鮮使節団の決議を撤回します。人前で怒りを見せることのなかった西郷が、卑劣な公卿のやり方に激昂し、辞表を叩きつけ、故郷の薩摩へ引退します。
その後の政策は岩倉一派のいわゆる文明開花一色となります。「文明とは正義のひろく行われることである。豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない」。これが西郷の文明の定義です。以来、そういう意味での文明はほとんど進歩を見せなかったのではないでしょうか。
西郷の生涯で最も遺憾なのは最後の時期であります。西郷が謀反人となって政府に刃向かったことは事実であります。西郷をそこまで追いやった事情については、彼の生来有した「情のもろさ」とする考えは有力な見方であります。
崇拝できる人物は世界で西郷ただ一人と仰ぐ、およそ五千人もの若者たちが、おそらく西郷に知らされることもなければ、その意志にも反して、公然と政府に反乱を起こしたのです。強さにかけては人後に落ちない西郷も、困った人々の哀願の前には無力に等しいのです。
西郷は自分を敬愛する生徒たちのために、友好の印として、自己の生命、名誉、自己の一切を犠牲にするに至ったのかも知れません。西郷は反乱者たちと行動を共にし、作戦は一切桐野利秋たちに任せました。
戦闘は1877年2月から9月にかえて続きました。9月24日の朝、官軍の総攻撃が城山に向かって開始されました。西郷が立ち上がったとき、一発の銃弾に腰を打たれ、まもなく少数の味方は全滅。西郷の遺体は敵方の手に落ちました。
「無礼のないように」、敵将の一人が叫びました。別の一人が言いました。「なんと安らかなお顔のことか!」。西郷を殺した者がこぞって悲しみにくれ、涙ながらに葬りました。今日も西郷の墓には、涙を浮かべて訪れる人の群れが絶えません。西郷の国家に対する貢献について、歴史が正しい評価を下すまでには至っていません。