「我々が一戦を交えると、罪もない人々が苦しむことになる」
9月13日(土)
本書は内村鑑三(1861年〜1930年)により1908年(明治41年)に刊行された英文著作「Representative Men of Japan」の鈴木範久よる翻訳です。「はじめに」で内村は書いています。
「この小著は、13年前の日清戦争中に『日本及び日本人』(Japan and the japanese)の題で公刊された書物の再販です。・・・わが国民の持つ長所――私どもにありがちな無批判な忠誠心や血なまぐさい愛国心とは別のものーーを外の世界に知らせる一助となることが、おそらく外国語による私の最後の書物となる本書の目的であります。」
本書で取り上げられた代表的日本人は、新日本の創設者としての西郷隆盛、封建領主の上杉鷹山、農民聖者の二宮尊徳、村の先生の中江藤樹、仏僧の日蓮上人の5名です。内村が称賛した5人の生き方に焦点を当てて紹介します。まずは西郷隆盛です。
進歩的な陽明学と禅に惹かれる
1868年の日本の維新革命は、二つの明らかに異なる文明を代表する二つの民族が、互いに立派な交際に入る、世界史上の一大転換を意味するものであります。「進歩的な西洋」は無秩序な進歩を抑制され、「保守的な東洋」は安逸な眠りから覚まされた時であったと思います。
ヨーロッパとアジアの好ましい関係をつくり出すことは、日本の使命であります。長い鎖国が終わりを告げようとしていたのです。アメリカのペリー提督こそ偉大なる人類の友であり、「敬天愛人」を奉じる勇敢で正直な将軍が共同の仕事に参加したのであります。
西郷は若い頃から王陽明の書物に魅かれていました。陽明学は崇高な良心を教え、恵み深くありながら、きびしい「天」の法を説く点で「聖なる宗教」(キリスト教)と似たところがあります。他にも仏教の中ではストイックな禅の思想に興味を示しました。
ヨーロッパ文化には無関心で、度量が広くて進歩的、実践的な性格をつくりあげた教育は東洋に拠っていたのです。西郷には一生を貫く二つの顕著な思想が見られます。(1)統一国家と(2)東アジアの征服です。
影響を受けた藩主の島津斉彬と水戸藩の藤田東湖
西郷が大きな影響を受けたのが薩摩藩主の島津斉彬(なりあきら)と水戸藩の藤田東湖です。
斉彬は非凡で、国の将来を見つめる思いは西郷と共通していた人物。冷静沈着で洞察力に富み、早くから自国の変革が必至と読み取り、迫りくる危機に備えて領内の諸改革に取り組んでいました。
精神的感化を受けたのは「大和魂のかたまり」である水戸の藤田東湖で、その近くには次代を担う若者たちが集っていました。二人の出会いが実現し、師は語りました。「私が抱いている志を継いでくれる人間は、この若者のほかにはない」。
弟子も言いました。「天下に畏るべき存在は一人しかいない。その方こそ東湖先生である」。国家の統一と、その国を「ヨーロッパに並ぶ国家にするため」の大陸への領土の拡張。この計画を実行する方策が、新しい感化により最終的な形となって現れたと思われます。
維新革命の同志には、内政では木戸や大久保が精通し、革命後の安定を図る仕事では三条実美や岩倉具視が有能で、この人たちがいなくては実現できなかったでありましょう。にもかかわらず、西郷なくして革命が可能であったかは疑問であります。
1868年1月3日、伏見で戦争が始まり、官軍が全面的な勝利をおさめ、賊軍と呼ばれた徳川方は東方に逃げました。西郷は東海道軍を指揮し、4月4日、江戸城は官軍に明け渡されました。その革命はもっとも安価で効果的な革命でありました。
これを実現した人物が西郷でした。東海軍が品川に進駐したとき、旧友の勝海舟に会いました。徳川にあって勝だけが国家が生存するため主家を犠牲にする覚悟ができていたのです。
勝は西郷を愛宕山へ散歩にともない、眼下に広がる「壮大な都市」を見て、西郷の心は深く動かされたのです。「我々が一戦を交えると、罪もない人々が苦しむことになる」。西郷の心は和平に傾いたのです。
維新革命で名をあげた人達とならび西郷は、参議という要職に列せられました。しかし西郷の同僚たちが、西郷とは行動を共にできないと思う時が訪れたのです。今まで共通の目的のために協力し合ってきたのですが、同僚たちが止まろうとしたのに対して、西郷は出発点とみなしたことで、ついに決裂に至ります。