「全一学」提唱の「創造の形而上学」
10月13日(月)スポーツの日。
晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」から抜粋します。極めて難解な内容と思いますが、「日本人独自の哲学とは何か」を考える手がかりとしてご覧いただければ幸いです。本日は第3章「体系の種々相と人間類型」の2回目で、古今東西の哲学体系は若干の類型に分つことができると述べています。
かくして真に哲学を学ぶということと、単に哲学を理解するということとは、厳密には区別して用いるべきだといえるであろう。真に哲学を学ぶという場合には、まずその根本態度の確立が要請されるが故である。
即ち自己と生命の波長の比較的近い先人の体系と取り組み、その全的理解の果て、ついに自己の独創体系を生むのでなければなるまい。そのような学者は、一つの民族において、一時代に一人二人で、せいぜい三人止まりといってよく、西欧諸国においても現実的真理といってよいであろう。
ではそのような稀有ともいうべき思想家と普通の大学教授とは一体どこが違うかというに、
自家の独創体系を樹立する哲学者は、自らの“いのち”の奥底に、いわば体系への「核」ともいうべきものを本具していると言ってよいであろう。即ち真の体系的哲学者は、卓れた宗教家や芸術家などと同じく、天賦の素質を授かった人といってよいであろう。
このように考えてくれば、大学などで既存の哲学諸家の学説の概要を解説し、比較することなどに一生終始する人の多いのも、必ずしも咎むべきではないといえよう。
いま古今東西の哲学体系を大観するとき、若干の類型に分つことができ、しかもそのような体系の類別は、ついにはそれらを創出した哲学者自身の人間的類型に基因し、否、むしろその投影というべきかを思わしめられるのである。
今試みに、理を主とする哲学体系として最も典型的なものとしては、カント及びヘーゲルを思うのである。今カントの哲学体系を理の静態的構造と見るとすれば、ヘーゲルの体系は、その特有の弁証法の論理によって、理の構造をその動的展開において見ようとしたものといってよい。