筆者の部屋のベランダから薄紫の夜が明けていくのを何回眺めただろうか。筆者は10Fの部屋に居住しており、朝、街が動き出すのを手に取るように眺めることが出来る。空が明るくなり、自動車の交通量が徐々に増え始める。前後して徒歩や自転車に乗る人々の数も動きも時間の経過とともに活発になる。まるでまばらなブラウン運動を見ているようだ。

 

それは活動を開始する朝の動きであり、毎日繰り返される人々の営みに他ならない。唯ひとつ難点があるとすれば、その動きに筆者自身が加わっていないことである。まるで傍観者のように眼下の動きを眺めるばかりだ。仕事もせず自ら望んでそんな場所にいるわけだから、文句の言いようもないのだが、そこはかとない疎外感を感じ、ああ、自分は社会参加していないのだよなと思う。

 

出来ればこのモラトリアムを続けていたいのだが、諸事情あってそうも言っていられなくなった。さして興味の持てる仕事でもないが職に就かなければならない。そうなれば筆者もあっちでゴツン、こっちでゴツンと程度の良くないピンボールのように、またあのブラウン運動に否が応もなく飛び込まなければならない。

 

生きていくためには金が要る。稼がなくてはならない。この年齢になり雇ってくれる会社があるだけでもありがたい。ではこのアンビバレンスはいったい何だ?年齢のせいか?体調のせいか?おそらく、筆者は偶然に恵まれ過ぎ仕事があることのありがたさにピンときていないのだろう。街を見下ろすベランダではまだろくに葉もつけないうちに真紅のハイビスカスが咲いた。

いつの間にか夏の陽射しだ。日課のスーパー巡りの信号待ちの間にも日焼けしそうだ。夏になると自転車の信号待ちでなぜかいつも「サマータイム・ブルース」を思い出す。それも本家のWHOではなく日本語で歌う子供ばんど版だ。ギターのリフが印象的で、というかそんな生やさしいものではなくイントロから超絶イカしている。

 

その次に印象に残るのは曲の合間に繰り出される「あんたはまだまだ子供だよ」という台詞のような歌詞だ。暑い夏が来てわらわらと海や山へ行きイカした女の子に声をかけると、その台詞を吐かれるという、ただそれだけの曲だ。ただそれだけ故にシンプルなロックの持つ暴力的なまでのエナジーを感じる。

 

昨今ではロックミュージシャンの素行の悪ささえ糾弾され、当の本人たちもすぐに謝罪する。中途半端にワルぶるのは愚の骨頂だがなんとも不寛容な世の中になったものだ。(ちょっと話が逸れている気もするが)やれやれ、と思うのは筆者だけだろうか。元来ロックは不良の演るものだ。酒癖が悪く、借金を踏み倒し、平気で他人の女を寝とる。そんな不良たちに普通の良い子は近づいてはいけない。有難がってTVに出してもいけないし、出てもいけない。

 

そう言えば、イギリスの伝説的バンドのドキュメンタリーを扱った際にリーダーのギタリストを宣伝イベントに招聘したことがる。時間になっても現れないので楽屋に呼びにくと、どこで調達したのか昼からウイスキーをボトルからグビグビと飲んでいた。「時間でーす」と声をかけると「今か?」とまたグビり。ロックだなぁと感心するやら呆れるやらだった。

 

どうやら再々就職が決まった。転居からほどなくして生活が暗転したので、晴れやかな気持ちで自転車に乗ったことが無かった。心にのしかかる重石が外れてみると、やはりその分心なしか景色が違って見える。こんなにトントンと決まってしまうと、まだまだ隠居には早いとの思し召しのようにも思える。すっかり自転車オジサンとなったうじきつよしに「あんたはまだまだ子供だよっ!」と言われているようだ。

 

サマータイム・ブルース 子供ばんど 1982

甲斐バンドの初期の名曲「ポップコーンをほおばって」は

♪映画を見るなら フランス映画さ

と歌い出す。若い筆者はそんなものなのかと聴いていたが、すでに若い時期を過ぎ何本も映画を観てみると、なるほど一理あるなぁとうなずかされる。

 

かつてジャン・レノがハリウッドに進出した後のインタビューで、ハリウッドの予算にはかなわないが、その分フランス映画にはそれを補う熱気と工夫があると語っていた。両者を観れば明らかだが、ハリウッド映画とフランス映画には全く別の物と思わせるような大きな違いがある。そこには文化の違いとしか言いようのない大きくて深い河が流れている。

 

アヌーク・エーメが亡くなった。数多の映画を観てフランス映画とは何なのかなどと小難しい事を考える以前から、彼女は筆者の銀幕のミューズであったので、もはや映画論がどうの、映画史がこうのという話はどうでもよい。ただただ悲しい。

カラー映画にも多数出演しているはずなのだが、不思議なことに彼女の印象はモノクロだ。そしてその美しさが作品に深い陰影をもたらしている。

 

「ポップコーンをほおばって」はその後の歌詞でフランス映画に一切触れることは無く、どちらかといえばありきたりな別れ話の歌で終わる。しかし歌い出しの1行が陰影を含み、歌詞全体を包み込んでいる。筆者が故郷近くの深夜の田園を彷徨い歩いていた頃、彼女は生死の境にいたのかもしれない。

 

RIP Anouk Aimée