誰にでも一生に一度だけ傑作小説が書けるという。自分自身のことを書けばいいそうだ。それはそうだろうなと思う。では写真はどうだろうか?現代のようになんでもくっきりかっきり綺麗に撮れてしまうスマホのカメラ、撮影後にいくらでも加工出来てしまうことを考えると、快心の1枚なんてざらにあるのだろう。
筆者にも快心の1枚が何枚かある。筆者の若い頃はもちろんスマホなど無く、写真はカメラを構えてフィルムで撮るものだった。出来には偶然性が大きく作用し、シャッターを切っても現像するまでその結果を見ることが出来なかった。それ故、露出や被写界深度を研究し、意図した写真が取れるようになるには結構な努力を要した。快心の1枚の確率は何百分の一だった。
引越しをしている内に昔撮った写真が何百枚と出て来た。大半はどうしようもないものばかりだが、何枚かは今見ても傑作と呼べるものがある。
20代の頃伊豆の海に遊び、仲間たちと防波堤の突端で撮った1枚もそんな快心の1枚だ。10人ばかりの水着の男女が一様に腰に手をあててポーズをとっている。空は青く心地良い涼しい風と暑い陽射しが画面から漂ってくる。第三者が見れば青春の記念写真の1枚だ。
皆、当時筆者の勤務していた会社の同僚だ。この内の何組かは結婚し、離婚し、あるいは結婚しそこない、一人は故人となった。当然筆者にはそれぞれの人物との物語があり、また筆者の知らないそれぞれ同士の物語がある。気がつけばこの撮影から30年が経った。なんだかハイファイセットの卒業写真のようだ。この一瞬を切り取ることが出来た幸運に感謝するとともに、1枚の写真の重みに改めて慄いてしまう。