誰にでも一生に一度だけ傑作小説が書けるという。自分自身のことを書けばいいそうだ。それはそうだろうなと思う。では写真はどうだろうか?現代のようになんでもくっきりかっきり綺麗に撮れてしまうスマホのカメラ、撮影後にいくらでも加工出来てしまうことを考えると、快心の1枚なんてざらにあるのだろう。

 

筆者にも快心の1枚が何枚かある。筆者の若い頃はもちろんスマホなど無く、写真はカメラを構えてフィルムで撮るものだった。出来には偶然性が大きく作用し、シャッターを切っても現像するまでその結果を見ることが出来なかった。それ故、露出や被写界深度を研究し、意図した写真が取れるようになるには結構な努力を要した。快心の1枚の確率は何百分の一だった。

 

引越しをしている内に昔撮った写真が何百枚と出て来た。大半はどうしようもないものばかりだが、何枚かは今見ても傑作と呼べるものがある。

20代の頃伊豆の海に遊び、仲間たちと防波堤の突端で撮った1枚もそんな快心の1枚だ。10人ばかりの水着の男女が一様に腰に手をあててポーズをとっている。空は青く心地良い涼しい風と暑い陽射しが画面から漂ってくる。第三者が見れば青春の記念写真の1枚だ。

 

皆、当時筆者の勤務していた会社の同僚だ。この内の何組かは結婚し、離婚し、あるいは結婚しそこない、一人は故人となった。当然筆者にはそれぞれの人物との物語があり、また筆者の知らないそれぞれ同士の物語がある。気がつけばこの撮影から30年が経った。なんだかハイファイセットの卒業写真のようだ。この一瞬を切り取ることが出来た幸運に感謝するとともに、1枚の写真の重みに改めて慄いてしまう。

今回筆者の移り住んだ住居は東京の東側、下町というよりは埋め立てた土地をベッドタウンにしたところ、といった方が実情に近いであろう街だ。それ故に駅の周辺になんでもありわざわざ電車に乗って街を出る必要がない。しかも今回は偶然にも徒歩3分の駅近物件に入居したので駅の反対側を含む徒歩5分圏内で生活が成立してしまう。

 

しかもありがたいことに徒歩2分のところに大手流通グループが経営するディスカウントスーパーがあり、値引き品ハンターとして低価格品に慣れた筆者にも納得の品々が並ぶ。しばらく気がつかなかったのだが、駅前の喧騒エリアなのでそのスーパーを曲がった先にはカルディもある。何の期待もせずにフラリと立ち寄ったところ、そこには当たり前のようにマイユのディジョンマスタードが並んでいた。

 

そういえば、代替品のマスタードが切れたままになっていたのだが、あれだけ渇望したマイユのマスタードが向こうからやってきてくれたようなものだ。実家のある街では一度として眼にすることはなかった。これを安直に文化の違いと揶揄するつもりはさらさらないが、食生活は、選択の自由は、こうでなくちゃと素直に嬉しい。

 

友人のタルタリストからアジフライの画像が送られてきていたので、料理始めはタルタルソースにしよう。マスタードをたっぷり投入して大人のタルタルソースだ。まずはきゅうりのピクルスから仕込み開始。なんだかこの街に歓迎されたような気がする。

 

 

 

祭囃子が聞こえてくるところをみるとどうやら筆者の住むエリアは夏祭りらしい。窓の外を見下ろすと改造した大型トラックの荷台に子供と笛太鼓を満載したにわか作りの山車がゆっくりと通り過ぎていく。筆者も浴衣を着てあの荷台で太鼓を叩いたことがある。確か小学3年生の頃のことだ。同じ町内に住む田中くんに誘われたのだった。

 

1、2ヶ月程町内会の会館で練習し本番の夏祭りを迎えた。各町の山車が行列を作り市内の目抜き通りを進む様は子供の眼には壮観に映ったものだ。同じ町内に住む悪友たちはほとんど参加し、夜毎の練習はまるで夜遊びの萌芽の様であった。無邪気で幸せな時代だった。

 

田中くんとは3年生のクラス替えで一緒になり、何かと気が合って放課後は毎日の様に遊んだ。そんな時期が2年ほど続いただろうか。クラスが分かれると徐々に距離が出来、そのうちぱったりと付き合いはなくなった。

 

田中くんがその次に筆者の思い出に登場するのはなぜか高校を卒業した直後のことだ。進学について思い悩みながら街を歩いていると、パンチパーマにサングラス、ロングコートを羽織った小柄なチンピラの見習いの様な男がよおっ!と声をかけて来た。はて、こんな風体の男に知り合いがいただろうかと、よく顔を見ると田中くんではないか。

 

ムスッとした表情を装う顔からこぼれる笑顔は人の良さを隠しきれない。まるでマーティン・スコセッシのグッドフェローズのようだ。お互いに気恥ずかしさからか、ろくに言葉も交わさずにすれ違ってしまった。筆者はその直後に街を出て40年もろくに戻らなかったので、彼とはそれきりになってしまった。祭囃子がふとそんな彼の思い出を運んで来てくれた。