この夏は FLEETWOOD MAC をよく聴いた。もちろん好きな曲はあったが、これまでの人生でこれ程聴いたことは無かった。ドラムス他の打楽器ももちろん使っているのだが、全体的なアタックの強くなさが今の気分、精神状態にぴったりなのだろう。この夏は常時小さな音で流していた言っても良い程だ。

 

そもそもスティーヴィー・ニックスのあの、言ってしまえばダミ声が苦手だった。ロック界きっての美貌、歌姫とも言われたが、筆者には全くピンとこなかった。産業ロック、デジタル、エスニックと数々の波に揉まれながら、独自の「軽い」ロックを貫いてきたバンドだ。その強靭さには敬意さえ抱く。70年代の名盤と言われるアルバムに収録されあ楽曲の良さも初めて理解した。

 

会社で LINE WORKS を使っているのだが、情報伝達において非常に便利だ。そのリソースを使わせてもらってAOR部を結成した。部活と言ってもそんなに構えたものではなく、ロック好きの親父が、それぞれの好きな楽曲と思い出を語る暇つぶしだ。これがまた面白いことに、昨日の昼食に何を食べたか思い出せないのに、40年前のことは克明に憶えている。しかも全員がそうだ。

 

同年代の役員も加わり、和気藹々と若者に気兼ねもせず、昔話に興じることが出来るナカナカの企画だ。FLEETWOOD MAC はそんな風に仲良くなった役員の好きなバンドだ。こんなことがなかったら聴く機会もなかったろう。

そんな風に会社に馴染んでいく夏だった。

手術から1年(最近の検査でも経過は良好でした)、再就職から半年、ようやく精神的にも物質的にも本が読めるようになった。忙しいのは致し方ないが、衣食足りて読に復帰したわけだ。当たり前のように休日出勤しながら空いた時間にはなぜか歴史系の本を学生のように貪り読んでいる。

 

筆者は往時二つの大学に籍を置いた(結局そのどちらにもろくに通わなかったが)入ったのは文学部で出たのは経済学部だ。しかし経済には興味がなく経済学部で感心したのは経済と宗教を語ったマックス・ウェーバーくらいのものだ。(それとても「宗教」がらみだ)。

 

もともと興味があったのは人文系で文学部では(一応)西洋文化を専攻した。そっちをちゃんと勉強すればよかったのに、当時は他にも興味の対象があり過ぎてそれどころではなかった。結局、その他のジャンルでの冒険が終わり、元居た場所に戻って来たような感覚さえある。今風に言えばいわゆるリベラルアーツの学び直しだ。

 

きっかけは忘れたが、なぜか西洋の魔術師の本を探していた。その本が「これなら澁澤龍彦の方が良い」的にレビューされており「そうだろう、そうだろう」と膝を打った。澁澤龍彦は10代の頃の筆者の知的アイドルであり、美術、思想、歴史の裏街道を案内され、大袈裟に言えばその後の人生に影響を受けてしまった。

 

いそいそと氏の著作を拾い読みし始めると、面白いやら、懐かしいやら。今でこそ当たり前のジャンルのようになっているが、当時では画期的な業績であったろう。そんな著作の中に中田耕治の著作の書評があった。てっきり翻訳の人かと思っていたのだがいつの間にかルネサンスの専門家になっており「ルクレツィア・ボルジア」の評伝を著していた。

そこから現今の筆者のルネサンス期が始まる。

ルクレツィアとかレティシアとかいった名前にはどこか貴族的な雰囲気を感じる。亜麻色の髪の美少女、ヨーロッパの深窓の令嬢といったイメージだ。そんな厨二病を拗らせたようなことを言うのは、筆者が今は遠いルネサンス期の波間を揺蕩っているからだ。

 

1枚の肖像画がある。亜麻色の長い髪、軽く眼を伏せ、陶然としたような、それでいて超然とした表情だ。小さな口に紅をさし、鼻筋は通り、額には真珠のアクセサリー。白金に輝くデコルテから肩を惜しげも無く晒している。ルネサンス期きっての美貌と謳われたルクレツィア・ボルジアの肖像だ。

 

ほんの何枚かの肖像の存在が推定されるだけなはずなのにこの立派さは何なのか?おまけにレンブラント光線とおぼしき光が当たっており、真横を向いたのっぺりとした肖像が当たり前の中世から、いくらルネサンスが開花したといえ西暦1500年にこれはあり得ない。おそらくは後世の画家が時代考証をないまぜにしたまま注文に応じて想像で描いたものだろう。

 

実はこの肖像はある洋書の研究書の表紙を飾っている。他の多くの書籍がほぼ間違いないだろうと言われる肖像を使用しているにもかかわらずだ。であるからこの肖像がルクレツィアを描いたものである可能性は極めて低い。にもかかわらずこの陶然、超然とした表情が筆者の心を捉えて離さない。

 

年齢も定かではなく、これから始まる輝かしい未来に胸馳せているのか、国際政治に翻弄される苦渋に満ちた人生を予見しているのか想像がつかない。今もって本人がどう感じていたのか想像の域を決して脱することのない想像へ誘われている気がしてならない。研究者某もその辺りを察して他の肖像を排してこの肖像を表紙に選んだのではないだろうか。