(承前)

ボルヘスの「ドン・イシドロ・パロディの六つの難事件」を読み始めた筆者の眼は一人の登場人物の名に釘付けとなった。40年近く前に夢中になった「グレート・ブルー」の封印を解きしばらくぶりに観てみるかと動画サイトに行ってみた。違法なのか合法なのよくわからないのだが、在る在る。

 

早速いそいそと再生を開始した。オープニングの海上を滑空する画面に早くもグっと来る。しかし、何かが違う。この違和感はなんだろうか?しばらく観て気がついたのだが、音楽が違う。クレジットを確認すると音楽はビル・コンティとなっている。えー!何これ?こんなバージョンが存在したの?

 

筆者の驚きは、まるで数十年ぶりの同窓会で会うのを楽しみにしていた美少女が普通のオバさんになっていたような驚きに匹敵する。ビル・コンティは好きな作曲家だが「グレート・ブルー」はエリック・セラでなければいけない。さしずめアメリカ公開時にスタジオから差し替えを要求されでもしたのだろう。これはいただけない。早々に観るのを止めた。

 

オーバーマーケティングとでも呼ぶべきか。こんな大きなお世話が40年も前から存在していたのかと思うと、昨今のオーバーマーケティングされた作品群にゲンナリするのも、さもありなんと腑に落ちる。最近の作品にあまり深みを感じられない筆者はそれでは昔の映画でも観るかと久しぶりに検索をかけてみた。(続く)

生活が変わって3ヶ月が経過し、ようやく新しい生活にも慣れてきてようやく本が読めるようになった。とは言え新入社員として初めて経験する職種もあり高ストレス下に在ることに変わりはなく、重たい本にはなかなか手が伸びない。筆者もショート動画をくるくると次々に再生する人にありがちという集中力が続かない症候群に嵌ってしまったのか、次から次へと別の本に手を出している。

 

昨日今日で手に取った本は「冷蔵庫より愛を込めて」「日蝕」「思考の整理学」「サピエンス全史」「結婚式のメンバー」という具合だ。どの本も数ページから数十ページを読んだところで途中休憩に入ってしまう。最後に手に取ったのはボルヘスの「ドン・イシドロ・パロディの六つの難事件」だ。

 

ドン・イシドロはボルヘスと他の作家の共著とされるアルゼンチンを舞台とするミステリーのような小説だ。読了していないのでなんとも言えないが他のボルヘス作品と違ってなんだか企画もののような軽さ(軽薄さ)を感じてしまう。まあ、今の筆者にはこれくらいがちょうどいいのだが。

 

ぼんやりと読んでいるので定かではないのだが、そこにイタリア人(違うかもしれない)のモリナリという人物が登場する。モリナリとはイタリア人に多い名なのだろうか?話の筋はそっちのけで筆者の眼はその名前に釘付けになった。久しぶりに聞く名だ。筆者に取ってモリナリとはリュック・ベッソンの出世作となった作品でジャン・レノが演じた人物の名だ。

 

40年近く前に夢中になった「リュック・ベッソン」「ジャン・レノ」「エリック・セラ」「チェッキー・カリョ」らの名がにわかに脳内を駆け巡る。その作品「グレート・ブルー」は訳あって筆者的には封印されもう長いこと眼にしていない。(続く)

「虹とスニーカーの頃」には失礼ながら何の思い入れもない。筆者は音楽的にチューリップを通過しなかったのだ。音楽リスナーたる以前に「心の旅」や「夏色のおもいで」を聞き子供ながらに大人の世界を垣間見たような気になっていたに過ぎない。もはやレジェンドなのでケチをつける気にもならないが。

 

雨が降り妙に足が濡れるなと思ったら靴のつま先に穴が空いていた。高価だったが履きやすいデッキシューズだった。出社するにもシーンズが許されるのでビジネスシューズを買うこともなく素知らぬ顔で通勤にも履いた。白い本革だったが、すでに積年の汚れで全面的にグレイだ。これはもう如何ともしがたい。

 

慌てて買ったのは白いスニーカーだ。履いているのが気恥ずかしくなる程真っ白でピカピカだ。それでそんな歌もあったなと思い出した。(おそらく)恋人と二人、お揃いで買った真っ白なスニーカーをどしゃ降りの雨で汚さないように裸足で歩いた。(おそらく)数年後に別れた後で、あのスニーカーは捨てたかい?という歌だ。いい歌だ。

 

残念ながら筆者のデッキシューズにはそんな甘い記憶はなく、強いて言えば筆者とともに立ち飲み屋を何軒もはしごして歩いた思い出があるくらいだ。いつも履いていたような気がするが履き潰すのに10年もかかった。インソールに何か秘密があるのだろう、恐ろしく履きやすい靴だった。経済的に立ち直ることがあれば間違いなくまた同じモデルを履くことだろう。

 

RIP 白いデッキシューズ