【作品#0573】イニシェリン島の精霊(2022) | シネマーグチャンネル

【タイトル】

 

イニシェリン島の精霊(原題:The Banshees of Inisherin)

 

【Podcast】


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【概要】

2022年のアイルランド/イギリス/アメリカ合作映画
上映時間は109分

【あらすじ】

1923年のアイルランドのイニシェリン島という小さな島で暮らすパードリックは、いつものようにコルムをパブに誘うが、「もうお前とは話さない」と絶縁されてしまう。

【スタッフ】

監督/脚本はマーティン・マクドナー
音楽はカーター・バーウェル
撮影はベン・デイヴィス

【キャスト】

コリン・ファレル(パードリック)
ブレンダン・グリーソン(コルム)
ケリー・コンドン(シボーン)
バリー・コーガン(ドミニク)

【感想】

マーティン・マクドナー監督が「ヒットマンズ・レクイエム(2008)」「セブン・サイコパス(2012)」に続いてコリン・ファレルを3度目の主演に起用した作品。ゴールデン・グローブではコリン・ファレルが二度目の主演男優賞を受賞。アカデミー賞では8部門でノミネートされ、作品賞も本命視されていたが結局は無冠に終わった。

本作はコルムを親友だったと思っていたパードリックが、コルムから絶縁宣言されるところから始まる。彼らがどんな様子だったかは回想シーンなどもないので分からないが、パブで言われていたように息ぴったりという2人ではなかったのだろう。彼らの仲の良さは、パードリックを演じたコリン・ファレルとコルムを演じたブレンダン・グリーソンが主演した「ヒットマンズ・レクイエム(2008)」で補完すると良いのではないか。

狭く限定された場所を舞台にするのはマーティン・マクドナー監督の得意とするところなのだろう。「「ヒットマンズ・レクイエム(2008)」」ではベルギーのブルージュ内で完結する物語で、「「ヒットマンズ・レクイエム(2008)」」も「ヒットマンズ・レクイエム(2008)」もその地域で始まって終わる物語であった。本作はイニシェリン島という架空の島を舞台に物語が繰り広げられる(途中で島を出るシボーンの場面だけアイルランド本島の様子が少しだけ映るが)。

本作にはマーティン・マクドナー監督作品ではお馴染みであるキリスト教カトリックが根元にあり、十字架、教会、神父、告解、聖母マリア様の銅像などキリスト教カトリックにまつわるイメージが本作の中に多数登場する。一方で、キリスト教カトリックが禁じているような自殺、自傷行為、復讐なども登場する。

コルムが教会の告解室で神父に罪を告白する場面が3回ある。最初の告解シーンでは、8週間ぶりに告解室にやって来たコルムは神父から「絶望感は?」と聞かれ、「ない」と答えている。そして、終盤に3度目の告解シーンで「絶望感が戻って来た」と答えている。おそらく、コルムは8週間前には絶望感を感じており、鬱状態、もしくは自殺願望があったのかもしれない。パードリックの退屈な話を毎日2時間も聞かされ続けうんざりしていたことだろう。

初見時は監督が本作を製作した意図が見えづらい作品であったが、二度目の鑑賞で見えてきたものもある。そんな本作でもわかりやすいのがカメラのクローズアップである。本作で一番クローズアップが使われているのは、コルムがパードリックに絶縁宣言をした翌日のパブのシーンである。「この先の人生そんなに長くない。お前の退屈な話に付き合っていられない」と言う場面でブレンダン・グリーソンの顔にカメラが一番近付いている。これこそがコルムの真意であろう。

優しいだけでは後年に人の記憶に残らないが、音楽なら何世紀経った後にでも残る。これは監督自身の姿勢であり、周囲への宣言なのか。これでアカデミー賞でも受賞出来たら後世に間違いなく残るだろう。「俺に話しかけてきたら自分の指を切断する」というとんでもないお話である。

パードリックは「いい人」だが、コルムもシボーンも「退屈な人」であることは認めている。パブのマスターも「お前はいい奴だ」と言うが、「面白い」などとポジティブな意見はしてくれない。パードリックの「いい人」感は演じたコリン・ファレルから滲みでていて、冒頭の島の住民とすれ違い様に挨拶するところからも伝わって来る。コルムから絶縁宣言されたことでパードリックがシボーンと食事していると、シボーンが「コルムは鬱なんじゃないの」と言い、パードリックが「実は俺もそう思っていたんだ」と声を潜めて言っている。他に誰も聞いている訳がないのに小声で話している。人差し指を切断したコルムに対し、強気に出るのが良いと考えて、関わらないでくれと言うコルムの家にやって来たパードリックは、最初こそ頑張って悪態をつこうとするが、「作曲は順調かい」といつもの調子になってしまう。その後、コルムがパブに来るのを待つパードリックはどうやら2時間でビールを3杯飲んで待っていた。本当に「いい人」というか「正直者」というか。

ただ、そんなことだけのために本作を製作したとも思えない。まず、分かりやすいのが、戦争/内戦のメタファーだろう。イニシェリン島からアイルランド本島が見え、時折アイルランド本島で行われている砲撃の音が聞こえてくる。パードリックは「詳しくは分からないがせいぜい頑張れ」と独り言をつぶやいている。この戦争/内戦がイニシェリン島内でのパードリックとコルムの争いに重ね合わせられていく。カトリックの人が住むアイルランド島へプロテスタントのイギリス人が自分たちのものにしようとして始まった争い。外交問題もある日突然に風向きが変わり思いもよらぬ方向へいってしまうものだ。

ドミニクの父親の警察官の男は本当に出向いて処刑を見届ける仕事をするとコルムに話している。コルムが処刑されるのは誰かと聞かれ、「どっちだったかな」と答える。さらにコルムから「思想はどうでも良いのか」と聞かれると、「どっちでも処刑が見られたら良い」とまで答えている。警察官と言う立場の人間が、処刑や人の死を楽しみに待ち望んでいる。そんな彼にはとんでもない結末が用意されている。

「いい人」だったパードリックは、ドミニクから「コルムには新しい自分になれと言われているのではないか」と言われて「いい人」でなくなってしまう。コルムと付き合いのあった音大生を島から追い出し、そのことをドミニクに話すと、「それってすげえ意地悪だ。お前も他の奴らと一緒だ」と言われてドミニクからも嫌われてしまう。

島一番の馬鹿と思われているドミニクに対して、パードリックもシボーンもやや軽蔑の目で接しているが、それはパードリックに対して、コルムが取っている態度と同じということだろう。人間誰しも誰かに対してきつく当たることもある。パードリックの家で飼う動物たちからすればシボーンからきつく当たられていると感じているかもしれない。

港近くのお店の女主人はニュースを持ってくる人間が価値ある人間だと思っており、何のニュースも持ってこないパードリックやシボーンに対してきつく当たっている。その場に居合わせたドミニクの父親の警官は女主人に人が死んだというニュースをしている。価値あるニュース=人の死であるのだ。この女主人はどうやらシボーン宛の手紙も勝手に開封して中身を読むほどの人物である。人の集まる店だからあらゆるニュースを耳にするのだろうが、自ら体験している訳ではない。だからこの女主人は最終的にはこの争いごとに対して完全に蚊帳の外状態となる。

当初はコルムがパードリックに絶縁宣言することで主導権を握っていたが、コルムの切断した指を喉につかえてパードリックの飼うロバのジェーンが死ぬと、パードリックはパブにいるコルムに対して「日曜日の2時にお前の家に火を点ける。犬は外に出しておけ。家の中は確認しない」と言い放つ。その日曜日の教会では、最初の教会の場面では前に立つコルムをパードリックが後ろから見つめていたが、今回は前に立つパードリックをコルムが後ろから心配そうに見つめており、主導権が逆転したことが分かる。また、パードリックの飼うロバのジェーンが死んだことはコルムにとって想定外で、本当に申し訳なく思っているのだろう。

パードリックは「いい人」だから人と争いを起こしたくないと思っている。そんな男でさえも、故意でなかったとはいえ、飼っていたロバのジェーンを事実上殺されてしまった。戦争だって、最初は戦うことを恐れていた若い兵士が、仲間を殺されたことで戦う決心をして戦場に立ち向かう姿も映画で良く描かれてきた。「いい人」だったパードリックも宣言通り、コルムの家の中を確認することなく火を放っている。

現代にもある「Banshee」はその名の通り「バンシー」で、人の死を叫び声で予告する精霊のことである。島内をうろつくおばあさんがパードリックに対して「お前やお前の妹でなければいいな」と言っている。後に死が訪れるのはパードリックが家で飼うロバのジェーンであり、ドミニクであった。

パードリックがコルムの家を焼き払った翌朝、パードリックはコルムの犬を連れてコルムの家に行くと、鎮火していたがコルムが波打ち際に立っており生きているのが分かる。顔に少し傷や火傷の痕が確認できるが、重傷を負ったわけではない。コルムは家が焼かれたことでパードリックと「おあいこ」だと思っているが、パードリックは「生きてるじゃねえか」と言い返している。当方が思っていることと相手が思っていることの齟齬はそう簡単に埋められない。

ラストのセリフはコルムから犬の世話のお礼を言われたパードリックが「お安い御用だ」と言うものだが、言語では「Anytime」と言っている。「Anytime」にはお礼の返事に使われることがあるので「お安い御用だ」と訳すのが適当だと思うが、「Anytime」には「いつでも」という意味合いでもある。つまり、「またお前の犬の世話をしてやるよ=家に火を点けるぞ」という意味合いにも取ることができる。どちらかというと「いつでもいいぞ」くらいの訳の方がしっくり来た気はする。

コルムとパードリックの会話シーンの中に永遠に続くものもあるとそうでないものの話がある。それって人と人との争いであり戦争のことなのだろう。

それから、二度目の鑑賞を終えて感じたのは、本作がディストピア映画ではないかという点である。本作には男女のカップルが1組も登場しないし、将来の希望とも言える存在の赤ちゃんや子供も登場しない。パードリックとシボーンの兄弟はそれぞれ結婚もしていないし恋人も思いを寄せる相手もおらず、兄弟2人で暮らしている。コルムには両親も妻も子供もおらず、いたという形跡すらない。ドミニクも妻や恋人はおらず、父親こそいるが母親はいない。さらにカトリックなので神父は結婚できない。パブのマスターや港近くの店の女主人にも配偶者や恋人は登場しない。なんなら、パードリックが島から追い出す音大生も母親は死んでいて父親はいるという設定であった。

登場するキャラクターのほぼすべてに同性愛者の疑いがかけられている。メインキャラクターには誰一人として配偶者も恋人もいない。このままいくとイニシェリン島は人がいなくなってしまう。さらに、異性にアプローチをかけるキャラクターはドミニクたった1人である。しかもドミニクが思いを寄せるのはシボーンという年上の女性であり、仮に2人がうまくいったとしても、シボーンの年齢設定から考えると子沢山になることは想像し難い。そして、そのたった1人のドミニクは最後に自殺してしまう。ドミニクよりも若い人って出てこなかったように思う。

あと、パードリックは映画のファーストカットは歩いているところで、その左の方に虹が見える。虹、つまりレインボーフラッグは人間の多様性を守るために作られたものであり、パードリックの登場シーンに虹が意図的に挿入されているのも、彼がゲイである、あるいは潜在的なゲイであることを示唆しているのだろう。

ドミニクは父親の酒を盗んだ一件がバレて暴力を振るわれた後、パードリックとシボーンに会い、顔のけがを心配される。ドミニクは「やかんの注ぎ口が一番痛かった」と答えている。これはやかんの注ぎ口を男性器に例えているのだろう。パードリックがパブでドミニクの父親がドミニクに悪戯しているという話をしていることから、おそらくドミニクは父親から性的虐待を受けていたのは間違いないだろう。

それから、神父がコルムに対して「男に欲情することはあるか」と不躾な質問をしてコルムが怒り、コルムが神父に対して同じ質問をすると、「神父が男に欲情するわけがない」と神父側も憤慨している。この憤慨の仕方ってどこか図星の時の反応にも見える。

また、ドミニクからなぜ結婚しないのか聞かれたシボーンは答えをはぐらかしている。美人だし男性から結婚や交際を申し込まれたことも多数あったはず。そんな彼女の趣味は読書で頭も良い。コルムがモーツァルトを17世紀の音楽家だと言うと「18世紀の間違いよ」と訂正できるほどの知識も持ち合わせている。そんな彼女もこの島には何もないとして出て行ってしまう。

「当たって砕けろ」の精神で、ドミニクからすればかなり年上のシボーンへ告白するがあっけなく断られてしまう。その後、その告白した湖からドミニクは死体で発見される。ドミニクは家という居場所で強い警察官の父親のもと居場所がなく、その拠り所をパードリックやシボーンに求めたが、パードリックは「いい人」をやめてしまい、シボーンからは交際を断られてしまった。ドミニクには母親が居なかったからこそ年上のシボーンに想いを寄せていたはずだ。島一番の馬鹿だと思われるドミニクこそ、無垢で純粋な存在だった。そんな彼は教会へも行かず、カトリックが禁じる自殺で終わってしまう。

復讐と言う観点で振り返れば、前作「スリー・ビルボード(2017)」では、復讐することを思いとどまらせる存在が無償の愛を提供し、それに気付いた2人の男女が前向きに進んでいくところで映画が終わった。

本作は前作同様に神父は何の役にも立たず、警察官も処刑や人の死を見たがるような人間で、復讐行為が意図せぬ被害を生み、それが新たな復讐行為を生んでいる。前作「スリー・ビルボード(2017)」でウディ・ハレルソンが演じた警察署長の立場の人間は登場せず、パードリックとコルムの争いは激化し、パードリックが放った火は鎮火したものの彼らの争いには終わりが見えない。一度こじれたら簡単には解決しない外交問題と同様にこれから先も進んでいくように見える。なので、マーティン・マクドナー監督にとって、復讐行為を思いとどまらせるキャラクターがいるかいないかで「スリー・ビルボード(2017)」のような作品にもなるし、本作のような作品にもなるのだろう。その意味でこの2作品はセットで考えても良いかもしれない。

それから、ディストピア映画と言う観点で振り返れば、島内には1組もカップルが登場せず、赤ちゃんや小さい子供も登場しなかった。異性へアプローチを賭ける唯一のキャラクターは自殺を選び、若くはないが異性から言い寄られたシボーンは島内に居場所がなくなり島を後にする。おそらくこのイニシェリン島は生産活動も行われず、下らないことが原因で始まった争いでお互いがお互いを殺し合い、誰もいなくなってしまうだろう。誰もいなくなってしまうかもしれない滅びゆく島の中でコルムは音楽を作って人の記憶に残ろうとしている。ある意味、人間の芸術的な営みに意味があるのかと自問しているような作品。いかようにも解釈のしがいがあって本当の意味で楽しめる作品だった。

 

 

 

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言語

├オリジナル(英語)

 

【ソフト関連】

 

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言語

├オリジナル(英語)

 ※日本語吹き替え版は収録されていません

映像特典(BDのみ)

├メイキング・オブ『イニシェリン島の精霊』

├未公開シーン

 ├コルムを追いかけて

 ├苛立ち

 ├両親の墓

 ├シボーンの泣き声

 ├親子の会話

 

【音楽関連】

 

<CD(サウンドトラック)>

 

収録内容

├21曲/33分