【作品#0395】ペイ・フォワード 可能の王国(2000) | シネマーグチャンネル

【タイトル】

 

ペイ・フォワード 可能の王国(原題:Pay It Forward)


【概要】

2000年のアメリカ映画
上映時間は123分

【あらすじ】

11歳の少年トレバーは、社会科の教師シモネットから「もし自分の手で世界を替えたいと思ったら何をするか」という課題を課せられ、「善意を次へ渡す」という案を思いつき、行動を始める。

【スタッフ】

監督はミミ・レダー
音楽はトーマス・ニューマン
撮影はオリヴァー・ステイプルトン

【キャスト】

ハーレイ・ジョエル・オスメント(トレヴァー)
ケヴィン・スペイシー(シモネット)
ヘレン・ハント(アーリーン)

【感想】

キャサリン・ライアン・ハイドの小説の映画化。ちなみに冒頭でクリスにジャガーをプレゼントする男はミミ・レダーの夫で、病院で苦しむ少女を演じたのはミミ・レダーの娘である。

本作の原題は「Pay It Forward」であり、本作中では「それ(善意)を次に渡す」という意味合いで使われている。さすがに「ペイ・(イット)・フォワード」だけではどのような映画か理解されないのは分かるが、なぜ副題が「可能の王国」なのか。「可能」は良しとして「王国」は違うだろう。

メインキャラクターたちはこぞって良い奴ばかり。根っからの悪なんて基本的に出てこない。悪として出てくるのはトレヴァーの父親とトレヴァーを殺す上級生くらい。これはミミ・レダー監督の前作「ディープ・インパクト(1998)」とも共通している。「性善説」に基づき、その人の善意が次の人へと受け継がれていく。

クリスという記者が「善意を次に渡す」の起源を辿る物語を合間に挟む必要はあっただろうか。冒頭のジャガーをくれる紳士だけでは分からないにしても、割と序盤でトレヴァーに辿り着くのことは分かる。クリスが取材を重ねてトレヴァーに辿り着いたとして何なのか。終盤の取材を受けた時の映像をシモネットとアーリーンが見ているが、これだったら課題の発表をビデオで撮影していたとかでも良い。

トレヴァーは「善意を次に渡す」について失敗したと言っていたが、本人が過小評価しているだけでどう見ても成功している。ホームレスの男を家に連れて帰り少し話して金を渡しただけで職に就けている(そんなにうまくいく訳ないが)。後に再び薬に手を染めてしまうが、飛び降り自殺をしようとする女性を助けている。ただ、この男のエピソードに関しては放ったらかしにして、何の脈絡もなく急に飛び降り自殺をしようとしている女性を助ける展開になっている。どう見ても本作で一番歪な場所であるし、そもそも飛び降り自殺をしようとしている現場を目撃することなんてまぁないよ。それにほんのちょっと話しただけで自殺を思いとどまるのか。

トレヴァーはなぜシモネットとアーリーンをくっつけようとしているのか。それはアーリーンに暴力的な父親に帰って来てほしくないからである。つまり別に誰でもいいから、母親のアーリーンと暴力的でない誰かにくっついてほしいだけなのだ。そういったトレヴァーにとって暴力的な父親のいない環境が最優先だとして、シモネットとアーリーンがお互いをどう思っていようとお構いなしという印象は受ける。11歳にでもなれば、それくらいの気持ちは察しても良いはずである。とはいえ、シモネットもアーリーンもお互いがそれぞれ問題を抱えるキャラクターであり、その問題の解決がトレヴァーの願望と合致する形になる。こんなのはただの結果論であり、トレヴァーの「善意」は自分の願望を満たすためのものになっており、これに関してはただの「偽善」である。好きになるのか嫌いになるのかは相性やタイミングもあるだろう。ただ、彼らにお互いを想うほど関係を構築できた印象はない。かといってトレヴァーに気を遣って付き合おうとしている訳でもない。この本作で一番時間を取って描かれたこの2人の関係はいくら芸達者な2人が演じたとしても残念ながらイマイチである。

そもそも「善意を渡す」とはどういうことなのか。「相手のためになることをする」こと自体を否定するつもりはないし、人としてとても大事なことだとは思う。では、それが車が壊された人にいきなりジャガーをプレゼントすることなのだろうか。多分違うと思う。車が壊れる現場にたまたまジャガーをプレゼントできる状態で居合わせることなんてそもそもないだろう。また、自分より苦しんでいる患者がいるからと言って病院内で銃を発砲してその患者を優先させることが善意なのか。その患者にとってはありがたい「善意」だとしても、銃の発砲によって恐怖を感じた人もいるだろうし、今までその病院に通院していた患者が別の病院に行くかもしれない。また、現場には警備員が駆け付け警察のお世話になり刑務所に収監されている。発砲した箇所は修繕も必要だろう。どれだけ迷惑をかけているのか。たった1人の患者を優先させるためだけであれば、他にいくらでも迷惑をかけて良いのか。それは違うだろう。トレヴァーのような少年が無知故に「善意」をはき違えるなら分かるが、大人たちまでもが相手にとっての迷惑なんてお構いなしに善意を押し付けている。しかもそれを美談として描いているのだから非常にたちが悪い。さらにいうと、本作はこの部分よりもアーリーンとシモネットの問題解決にばかり焦点が置かれており、これに関してはトレヴァーは多少関わっていたとしても本人同士の問題である。また、アーリーンは帰って来た夫にチャンスを与えたいと言い始める。シモネットとの関係はどうするつもりなのか。シモネットが怒っても仕方ないじゃないか。まぁシモネットがアーリーンの夫に似た父親から暴力を受けていたなんて設定はできすぎた話だし。

この時点で本作は割といい加減なんだが、「善意」とは何か、その善意を「渡す」とはどういう意味か、トレヴァーこういったことを考えることがないのもダメなポイントである。「善意」が却ってお節介だったり、間違っていたりすることだってあるだろう。トレヴァーは3人への「善意」が失敗に終わったと残念がる描写はあるが、なぜ失敗したのかとか、どうすればうまくいったかも考えることはない。本来ならそういった子供故に考えが及ばない箇所を大人が気付かせるべきだと思うが、母親のアーリーンも先生のシモネットもそれを指摘することはない。トレヴァーが失敗だと思っていても、トレヴァーの作った仕組みは知らぬ間に歯車が回り出し、とんでもない人数にまで波及していく。トレヴァーのちょっとした失敗は描いても、その意思を受け継いだ人たちの失敗は一切描かれることない。人ってそんなに簡単に動かないと思うが、本作では「善意」を渡された側の人が何も考えずに次に渡している。こういった思考停止が一番やばいと思う。

ラストでは、トレヴァーはアダムという同級生が上級生から襲われている現場を目撃して助けに行くと、その上級生が出したナイフに刺さって死んでしまう。完全に「殉教」である。これまでの場面もどこか宗教臭い雰囲気は漂っていたが、これによって完全に宗教映画と化してしまった。トレヴァーは中盤にアダムを救えなかったので善意を渡すという意味では失敗したと判断していた。トレヴァーは自分の言葉を胸に再び行動に移す。その結果が「死」である。「善意を渡す」行動の創始者が死んでしまい、その教祖様を崇めるべく多くの人たちが集まってくるエンディングははっきり言って気持ち悪い。子供という存在を死なせることで、トレヴァーの行いを崇高なものに仕立て上げようとしている。

ラストカットは、「フィールド・オブ・ドリームス(1989)」のまんまパクリ。トレヴァーの始めた「善意を次に渡す」行為によって善意を受けた人が次々に集まって来る。本作ではクリスが取材によってこの「善意を次に渡す」を知ったのはせいぜい6~7人である。それがなぜこんな大人数になるのか。だとしたらクリスの取材不足じゃないの。また、ラストカットがよくある普通の終わり方ではなく、明らかに「フィールド・オブ・ドリームス(1989)」を想起する終わり方だと、その映画っぽいラストだったというのが最後の印象になってしまう。

気に食わないことがあれば変えてしまえば良い。理解することや適応する努力もせずにただただ変えろ。いくら当時が民主党政権であったとしても、やり過ぎだろう。ただ「善意を次に渡す」行為だけ表層的に捉えただけのどうしようもない愚作。

【音声解説】


参加者

├ミミ・レダー(監督)


監督のミミ・レダー単独での音声解説。監督を引き受けた経緯、小説と舞台を変更した箇所、俳優の印象、音楽や美術など幅広く話しているが、トータルすると半分くらいは黙っている。本作が余程好きでなければ聞かなくても良いだろう。



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【配信関連】

 

<Amazon Prime Video>

 

 

言語

├オリジナル(英語)

 

【ソフト関連】

 

<DVD>

 

言語

├オリジナル(英語)

音声特典

├ミミ・レダー(監督)による音声解説

映像特典

├メイキング