以前にも弊ブログで取り上げたことのある「線路班」。

「停車場変遷大事典」「駅名来歴事典」でもその存在の一部が記載されており、線路班のある場所では仮乗降場のように旅客の乗り降りを取り扱っていたケースがありました。

線路班について(過去記事)



ところでこの「線路班」とはどのようなものでしょうか、少し掘り下げてみたいと思います。

線路班とは昭和15(1940)年3月1日に制度として誕生したもので、それまで「線路丁場」と呼ばれていたものを改称して誕生しました。

組織としては保線区があり、その下に線路分区があり、さらにその下にあったのが線路班でした。

線路班の役割は、毎日受け持ちの区間を見廻り点検し、問題箇所をその都度修繕するというもので、当時は線路班単位で点検と修繕を併せて行う「随時修繕方式」を採っていました。

受け持ち範囲の拠点となる線路班の詰所が国鉄線沿線にあったわけで、そこに通う職員、あるいはそこに併設された宿舎に住まう職員の家族が通学などで列車に乗車する必要が出てきます。

そこでその需要に応じて、貨物列車に便乗したり、旅客列車に乗車したりするために線路班の詰所のある箇所で列車を停車させるのです。

これはどの列車が何時に停車するか、あらかじめ決められており、扱いとしては仮乗降場に近いものでした。


一つ例を挙げますと、砂川市史(P.1523)に焼山駅の成り立ちについて記録があります。

引用すると、

「昭和22年歌志内線焼山線路班従業員のため仮乗降所として2往復の停車が認められたのが焼山駅そのものの、はじまりである。これにより焼山住民は唯一の交通機関として恩恵に浴することとなり、その後、歌志内線にジーゼルカーが運行することになり、正式の乗降所として駅舎を建設、7往復が停車するまでになった。40年10月に駅待合室を建設し今日に至った。」

(以上、漢数字をアラビア数字に改めた他は、原文ママ)


線路班での列車の停車は昭和23年以降、現存する列車運転時刻表などから道内各地でダイヤの設定がされていたことが確認できます。

ただ、実態としていつ頃から列車の停車が恒常的になっていたのかは定かではありません。

運転時刻表から線路班の文字が姿を消していくのは昭和30年代に入ってからです。

この頃は線路班に近接してプラットホームを設置し、仮乗降場となり、市販の道内版時刻表にも掲載される存在に昇格したものが多くなってきます。

それと同時に、線路班そのもののあり方が変わっていくこととなります。


昭和30年代、列車密度が増大し、速度も向上したことで、線路の破壊量が大幅に増大していきます。

列車間隔の縮小は保線作業間合の減少にも繋がり、さらには労働需給が逼迫してきたことにより、保線の現業においても合理化、機械化の流れとなります。


第1次近代化と呼ばれるこの近代化では、従来、保線区の下にあった線路分区、線路班を改組し、線路分区に代わって保線支区を編成、そして現業の線路班が随時修繕方式を採っていたものを改め、検査と修繕を分業化し、それぞれ検査班と作業班に分けられていきます。

保線支区は換算軌道距離50km、検査班、作業班は換算軌道距離10〜15kmを受け持ち範囲とするように編成されます。

この近代化は、昭和40(1965)年2月1日に発足した千歳保線支区を皮切りに、昭和40年代前半に道内全体へと広がっていきました。


こうして線路班というものがなくなっていき、そこに勤務する職員の便を図って列車を停車させるというダイヤも設定されなくなっていったのです。


ちなみに、保線区の名称および担当区域が設定されたのが大正12(1923)年4月1日のことだそうで、それまで保線区に名前もなく担当範囲も決められていなかったというのは、今考えると随分のどかな時代だったのだと思ってしまいました。


前掲の「砂川市史」にあったように、地域住民の交通の足としても重用された「線路班」への列車停車。

線路班からスタートした停車場で駅として残存するものは宗谷本線初野駅の廃止を最後に消滅してしまいましたが(線路班時代と位置が変わっているものは除く)、過去には北海道の交通の拡充に、確かに貢献していた存在だったのです。


今回もここまでお付き合い下さいまして、誠にありがとうございました。





参考文献

「北海道鉄道百年史」日本国有鉄道北海道総局、1981年

「砂川市史」砂川市史編纂委員会、1971年