今回は仮乗降場全体に関して、俯瞰的に見ていきたいと思います。

「その1」と題しましたが、またネタが集まれば「その2」も特集したいと考えています。



1.仮乗降場とは?

仮乗降場というのは国鉄における非正規の乗降施設に用いる呼称ですが、具体的な定義があるわけではないようです。

より正確に表現するならば、いわゆる仮乗降場には「仮乗降場」のほかに「仮停車場」「仮降車場」そして「信号場」で便宜的に一般の旅客の乗降を扱うものなどが含まれるので、一律に定義するのが難しいのです。


昭和24(1949)年に日本国有鉄道が発足して以降、仮乗降場は各地の鉄道管理局(現在のJRの各支社に相当)の裁量で設けていたのが仮乗降場で、この点においては正規の駅(弊ブログでは便宜的に「正駅」と呼んできたもの)が国鉄本社によって設置されていたのとは対照的です。

ただそれより古い時代になると、国鉄本社の前身である鉄道院、鉄道省、運輸省といった中央の組織が関知していた仮乗降場もあるようなので、一概に仮乗降場イコール局設定、駅イコール中央設定とはなりません。


駅とは停車場の一種で、停車場には信号場、鉄道駅(一般駅、旅客駅、貨物駅、臨時乗降場)が含まれます。

臨時乗降場は昭和44(1969)年に「仮停車場」と「仮乗降場」が統合されてできたものです。

(鉄道要覧:国鉄統計ダイジェスト 昭和58年版)

この時に仮停車場の一部は臨時乗降場に移行していますが、局長権限で設置された多くの仮乗降場は国鉄本社が関知していないためか、そのまま仮乗降場として残存したものが大多数です。

停車場の設置に際しては公示が出され、キロ程も明記されます。

対して仮乗降場は各鉄道管理局の局長権限で設置されるので公示は出されず、国鉄本社も認知しない、そしてそれを何と呼ぶか、呼びようがないから仮乗降場と呼んでいる、と種村直樹氏が国鉄の駅の担当者から聞いたそうです。

(潮出版社刊「潮」1980年1月号)

この「潮」に宮脇俊三氏と種村直樹氏の対談が掲載されており、両氏は「もぐりの駅」という言葉を使って話されています。

この中で、種村氏は

「『臨時乗降場』というのは、あくまでも『臨時乗降場』として開設を公示したものだそうです。だから、われわれの言うもぐりの駅というのは、『停車場一覧』からはじき出された『仮乗降場』と、それから、『信号場』として載っているところでお客を扱っているもの、その二つを足すと、おおむねもぐりの駅ということになるようです。」

と言っています。

この「もぐりの駅」という言葉が「仮乗降場」を端的に表していると思われます。


一方で仮乗降場が臨時乗降場に移行するケースもあり、現場での両者の取り扱いはさほど違いはないようにも感じますが、対談では例として「臨時乗降場」の「行川アイランド」(房総東線、現・外房線)は「特急も止まる」「時刻表もいつの間にか(臨)というのを外してしまった」と仮乗降場と異なる点を述べていました。

なお行川アイランド臨時乗降場は対談当時、通年営業でした。


また正駅の本開業を控えて、先行して旅客を取り扱い始めたものも管理局長の裁量で営業していた形になるため、これも一種の仮乗降場ですが、生来の仮乗降場と、これから駅になることが確約された先行開業の仮乗降場とでは本質的に異なるものと言えます。


なお、仮乗降場という存在自体が国鉄民営化時に撤廃され、多くは正駅に、一部は臨時乗降場改め臨時駅としてJRに継承されました。

(正駅化直後には営業キロの設定はされず、その設定は平成2〈1990〉年3月10日にJR各社一斉に実施)

このため、JRには仮乗降場は存在しません。



2.最北端と最南端

宝島社刊「地図にない駅」(牛山隆信監修)には仮乗降場にまつわるトリビアをまとめた項があります。

その中に、最北端と最南端の仮乗降場はどこか、というのがありました。

最北端は宗谷本線の稚内桟橋仮乗降場、最南端は日豊本線の心岳寺仮停車場ということです。

稚内桟橋仮乗降場は最北端の駅である稚内駅のさらに北、稚泊航路との接続のために設置されたもので、高松桟橋仮停車場、小松島港仮乗降場と同じような成り立ちです。

昭和13(1938)年開設ですが敗戦により稚泊航路が消滅するとともに廃止されています。

心岳寺は明治41(1905)年の設置で、一時的に仮設された仮駅を除けば最古の仮停車場と思われる北陸本線小舞子仮停車場(明治36年開設、現在のIRいしかわ鉄道小舞子駅)に次ぐ古さです。


ちなみに最東端は正駅の最東端でもある、根室本線の東根室駅(正駅として開業前に先行して仮乗降場として営業)、最西端は長崎本線の横島仮停車場と思われます。

生来の仮乗降場としては、最東端は標津線の平糸仮乗降場(昭和36〈1961〉年開設、同42年正駅化)でしょうか。



3.電車が発着した仮乗降場

仮乗降場は幹線にも設置されましたが、それらの電化より前に廃止されたものがほとんどです。

一方で後年まで残った仮乗降場はローカル線に設けられたものが中心で、路線の電化がされなかった線区がほとんどです。

では、仮乗降場に電車が発着したというケースはあったのでしょうか。

仮乗降場のメッカ、北海道には電化後まで仮乗降場として残ったものはないと思われますが、宗谷本線旭川四条仮乗降場(昭和32〈1957〉年開設、昭和48年正駅化)には隣接して旭川電気軌道(昭和48年廃止)の旭川四条駅があり、電車が発着していました。

仮乗降場そのものに電車が発着していたケースは本州にはいくつかあり、例えば、東海道本線袖師仮停車場、常磐線公園下仮降車場(現・偕楽園臨時駅)

(いずれも昭和44〈1969〉年臨時乗降場に変更)が電化後まで仮乗降場として残ったケースとなります。

同じ常磐線の北松戸仮停車場は既に電化されている線区に仮乗降場が新設されたケースで、昭和27(1952)年開業(競輪開催日のみ開設)、昭和33年正駅化され現存します。

上越線の大穴仮乗降場(昭和24〜38年)、岩原(いわはら)スキー場前仮停車場(初代、昭和8年開設)も電化区間に新設された仮乗降場です。

首都圏にはこのほか特殊な用途の仮乗降場として、中央本線東浅川仮乗降場、横浜線相模仮乗降場、横須賀線相模金谷仮乗降場などがありました。


このほか、例えば伯備線布原駅は芸備線の気動車しか停車しない駅として有名ですが、仮乗降場だった国鉄時代には伯備線の列車も停車していた時期もありました。

ただ電化後にも停車していたか否かは断定できません(恐らく停車していなかったと思われます)。

中央本線新府、東塩尻信号場は全国版時刻表に掲載があり、確実に電車が停車していたことが分かります。

逆に上越線井野信号場は、信号場兼仮乗降場の時代には気動車である両毛線の列車しか停車していなかったので、電車は発着しなかった仮乗降場と言えます。


信号場としては、有名どころですと、羽越本線の3信号場(桂根、折渡、女鹿)が国鉄民営化時まで信号場兼仮乗降場として残っていたので、電化区間にあった仮乗降場ということになるでしょう。


このような信号場兼仮乗降場のケースは多いので、実際にはもっと多かったのかもしれません。



4.短命だった仮乗降場

大喪列車のために千駄ケ谷駅に隣接して設けられた新宿御苑仮停車場や青山仮停車場は、その用途からそれぞれ2日限りの存在でした。

このほか、国鉄民営化後の開設なので仮乗降場ではありませんが、天北線東声問駅は昭和62(1987)年6月1日のみ、釧網本線の谷地坊主村駅は同年8月8日〜9日の2日間のみの営業だったそうです。

これらはいずれも始めから廃止が予定されて開設されたものですので、短命なのも当然と言えば当然ですが…。

北海道の日本国有鉄道時代の仮乗降場としては、開設日・廃止日が不詳な仮乗降場も多いのですが、確実なところとしては深名線下政和仮乗降場(昭和30〜36年)、幌内線栄町仮乗降場(昭和55〜62年)、白糠線共栄仮乗降場(昭和49〜58年)がトップ3と推定されます。

下政和は政和温泉仮乗降場に代替という形で実質移転なのですが、仮乗降場名が異なるために別の乗降場として扱われているので、このようになります。

函館本線嵐山仮乗降場や士幌線糠平ダム仮乗降場、千歳線西の里仮乗降場(初代・西の里信号場)など恐らく白糠線共栄仮乗降場よりは短命と思われるものは他にもありますが、正確な廃止時期が不詳のため除外しています。




ということで、仮乗降場にまつわる雑学でした。

私なりに調べたものとはなっていますが、誤りなど多分にあるかと思います。

何卒ご容赦下さい。

今回もここまでお付き合い下さり、ありがとうございました。