紀勢本線(亀山駅〜和歌山市駅)はその名の通り、紀伊国と伊勢国を結ぶ路線です。

日本列島でも一際大きな半島である紀伊半島をぐるりと半周する路線で、本線としては比較的新しい昭和34(1959)年7月の全通です。

全通までは東西から延伸が進められ、それぞれ紀勢東線、紀勢西線(および中間部の紀勢中線)と呼ばれていたほか、亀山駅〜相可口駅(現・多気駅)〜山田駅(現・伊勢市駅)〜鳥羽駅は参宮線として開通しており、このうち亀山駅〜相可口駅間が紀勢本線全通に伴って紀勢本線に編入された歴史があります。

(相可口駅、山田駅は紀勢本線全通に合わせて現駅名に改称。)

昭和48(1973)には伊勢線(現・伊勢鉄道)が開通して名古屋駅方面からのショートカットルートが確立されます。

 

今回は紀勢本線開通前夜の昭和32(1957)年時刻表から、ちょっと不思議な列車のお話です。

名寄本線でも似たような列車を時刻表で見かけたことがありますが、時刻表を一見しただけではどのような運用か分かりにくい、分割併合の列車です。

汽車列車の時代には、数は多くなかったとはいえ、全国的に見られた運用ではありますが、現代の感覚からいえば誠に摩訶不思議な運用となります。

 

 

まず路線の概略を図示します。

黒線は関西本線、橙線が当時の参宮線、青線が紀勢東線です。

 

ここで実際の時刻表を見てみましょう。

(鉄道弘済会刊「時刻表」1957年3月号)

 

 

主役の一つが関西本線・参宮線下りとなる名古屋発鳥羽行き243レ。

この列車は参宮線と紀勢東線が分岐する相可口駅で分割を行います。

時刻表では「客車の一部九鬼2137着」という表記があります。

(当時は九鬼駅が紀勢東線の終点でした。)

この切り離した「九鬼行き」は別の列車に併結するのですが、その相手が、もう一つの主役である、参宮線の山田駅を始発とする「山田発九鬼行き」の列車です。

相可口駅まで832レとしてやって来たこの列車は、やはり相可口駅で切り離しを行い、「客車の一部九鬼2137着」の旨の記載が時刻表にはあります。

そして切り離した「九鬼2137着」同士で新たに編成を組み、紀勢東線下りの21レとして九鬼駅まで向かうわけです。

ちなみに243レと832レは田丸駅で交換を行っていたようですが、243レは田丸駅には停車しません。

もう一度路線の概略図を見てみましょう。

243レの客車は名古屋→亀山→相可口→山田→鳥羽または名古屋→相可口→九鬼と運行。

832レの客車は山田→相可口→九鬼または山田→相可口と運行。

という形です。

 

 

ところで、参宮線の243レというと、この時刻表の半年前に当たりますが、かの痛ましい「六軒事故」の当該列車になってしまった列車でもあります。

松阪駅で交換するはずだった246レとの交換を、急遽六軒駅での交換に変更したものの、その旨が充分に伝達できず、六軒駅の停止信号を冒進して本線を支障し衝突した事故です。

交換相手の246レは昭和32年のこの時刻表(昭和32年3月20日訂補)の時点では列車番号を244レに改めているものの、松阪駅での交換である点は変わっていません。

なお、六軒事故発生当時は上記のような複雑な分割併合は行われていなかったようです。

「時刻表 復刻版 戦後編3」(JTBパブリッシング)に昭和31年11月号が収録されていますが、この号に掲載の参宮線の時刻表は「昭和31年10月1日改正」とあり、昭和31年10月15日に発生した六軒事故の当時もこの時刻表で運転されていたはずです。

この時刻表では上記のような複雑な運用は記載されていません。

 

紀勢本線は昭和34(1959)年7月15日に全通し全面的にダイヤも変更となります。

「時刻表 復刻版 戦後編3」にはその月の号も収録されており、当時の息吹を感じることができます。

 

ところで、この頃の時刻表を見ていると目に付く那智駅〜宇久井駅間にあった駅、「狗子ノ川」(くじのかわ)。

索引地図には毎号きちんと掲載されているのに、時刻表本文には何故か掲載がない、謎の駅です。

さらに現在は廃止となっている駅として、紀勢本線と関係の深い関西本線名古屋口には、こちらは時刻表本文にも掲載があった「午起」(うまおこし)駅もありました。

次回はそんな狗子ノ川駅と午起駅についてほんの少し掘り下げてみたいと思います。

 

 

今回もここまでお付き合い下さいまして、誠にありがとうございました。