さてさてさて…
さてさて…
さて…(´・ω・`)はああ…
ばか長いんだよね…このらぶれたぁ
本日は、
じいさんあてらぶれたぁ
もとい
長!
とのかみ
と
の
日
以下なり
…おもいだしても(´ぅω・`)ネムイ
天正三年八月廿二日
廿日書状、今日廿二、至府中到来、披見候、
一、此表之様子、去十七日申遣之状、則相届之由、
得其意候、
一、木目・鉢状追破、西光寺・下間和泉法橋(頼総)・
若林其外豊原西方院・朝倉三郎以下刎首候後、人数を四手ニわけ、山々谷々無残所捜出、くひをきり候、
十七日到来分二千余、生捕七八十人在之、則くひを切候、
同十八日、五百・六百つゝ方々より持来候、一向不知数
候、
十九日、原田備中守・瀧川左近進(マヽ)、茶箋(筅)・三七郎・上野介ニ相副遣候、其手より六百余、
氏家(直通)・武藤(舜秀)手にて、一乗可然者共
三百余、
柴田修理亮・惟住五郎左衛門尉、朝倉与三構要害楯籠候を攻崩、左右之者六百余討捕之、生捕百余人、則くひをきり候、
廿日、ひなかたけと申山へ玖右衛門尉(菅屋長頼)・前田又左衛門尉、其外馬廻者共遣之、千余人切捨之、生捕百余人、これも則刎首候、
茶箋(筅)・瀧川手にて於大滝・白山籠屋追崩、
六百余、
其外平野土佐(宗久)・あさみ、鉄炮者共五十・六十
つゝ切之、生捕十人・廿人つゝ到来、不知数候、
廿一日、佐久間甚九郎(信栄)手にて五百余、生捕十余人、則くひをきり候、
もうね、
「進」とか「箋」とか
誤字だろうがテキトーだろうが
どうでもいいくらい
とにかく長いのでね、
とりあえず…
瀧左さまと御茶筅の御様子はここまでだし、
以下くひきりぢごくと化したおそろしい報告書
見渡す限り、
瀧左さま組はお子様が多いし、
さほど派手にやらない
(生け捕りも討ち捕りも
くひきりも重視されない)
社会見学組
(・ω・)あれ?
御茶筅の出陣にあたって、
たっきぃに副えられてたはずの、いちあんは
どこいったんやろ…
疑問ものこる書状やけど、
あとは、
目次システムでたたんでおこう…
見たい人だけ見て…
以下そんみんすいみん大サービス
〈つづき〉
一、朝倉孫三郎風尾要害楯籠、色々雖令懇望候不赦免、
昨日廿一、生害させ候、彼等被官金子兄弟以下首はね候、
一、廿一日、柴田・惟住方より千余切之由注進候、
同日氏家・武藤方より二谷撫切にして候て、不知数
之由申越候、生捕三十六人在之、其内河野代坊主了源、
これも則くひをきり候、
〈さらにつづき〉
一、今日廿二、生捕少々到来、其外いまた無注進候、
如此大略打果、隙明候間、我々明日廿三日、一乗谷へ
令陳替、猶々国中悉尋捜、可打果候、
一、下間筑後(頼照)事、先度者川へ追はめ候由申
候き、風尾へ竹杖にすかり、竹笠にて罷通候を、此方へ
忠節之者、くひをきり到来候、誠気を御(さ)んし候、
〈まだつづき〉
一、加賀事、口二郡悉敗北歟、河北・石川両郡之者共、
十余人以連署種々令懇望、自大阪下置候もの共悉生害
させ、為忠節可罷出之由申候間、申所無相違者、可相
免之由申、遣朱印候間、是又相済候、能登・越中事
不及申、賀州相済候間、是又同前候、
一、当国事、去々年者大(小)谷ニ浅井相残候間、
爰元事急打帰候つる、今度者隙入かたも無之候間、
ゆる〱と令逗留、ふしおきのさせる様ニ可申付候、
然間、いまた五十日も卅日も可逗留行候、
〈やっとつづきおわり〉
一、それニハ此国をいまた見候間敷候、第一木目其外
口々切所候躰、番〱城を構候様子、彼是みせ度候、
其元宿之普請以下、大かた調候者、ふと可罷下候、
くれ〱此国ニハ敵一人も無之候、加賀・能登・越中
同前候間、隙入事無之候へ共、国之成敗其外之儀、
慥為可申付逗留候、東国・西国何之口成共、少も敵
蜂起事も候者、可出馬令分別候、可成其意候、謹言、
八月廿二日 信長
村井長門守殿
…
((+_+))
なっが~
レポートは、二千字以内に、せなあかん
…春長軒
内容がないようだし
途中寝たしね
_( _´ω`)_Zzz
これぞ
ふしおき
というわけで、
本日八月廿二日は、
じいさんあてらぶれたぁ
もとい
長!
とのかみ
と
の
日
_( _´ω`)_ZzzZz