おらのなにがし~かしく、瀧左とのへ~

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    ふたいてんと、いちますあんしん



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テーマごとに

瀧川一益と五百年を感じるべし



たっきーと五百年を迎える:とにかく瀧左とのへ…かしくな想い
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たっきーの逸話:実際の史料・軍記もの・小説上に描かれるたっきー像
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たっきーと年表づくり:たっきーの生まれた頃から…たっきーと歩む道
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たっきーと伊勢:たっきーといえばお伊勢。
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たっきーと山科さんの日記:おもに1533年の話。たっきーとの関係や如何に?
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瀧川左近一益

「さあさつんつんつんつくつん…」

そ、その唄はあの有名な『つんつくの舞

ではないですか!

日永地区はたっきーの地元…!?

泊の光明寺
   2…普光山實蓮寺
   6…囲井山光明寺
 

今回は、

囲井山(いせいざん)光明寺

(真言宗)

でござんす。

あんまり情報ないけど、公式っぽいところから引用(`・ω・´)

縁起によれば、聖武天皇の御宇(724~49年)、

行基により開山された古刹と伝えられる。

本尊の聖観音像は弘法大師一刀三礼の作といわれる。

その昔、西国三十三所観音霊場を再興された花山法皇(986天皇退位)が

谷汲山参詣後、京への帰路、当山にて一泊なされた。

法皇が本尊を拝されると奇しくも光明が輝いたので奇異に感じ入り、

寺号を光明寺と称するよう勅されたと伝えられている。

これを機に地名も法皇がこの地に泊まられたことから、

泊村と呼ぶようになったとされている。

いま一つの伝承として、弘法大師が本尊彫刻の折、

毎夜多くの仏に囲まれ、水を望まれるので朝を待ち、

井戸より仏前に供える水を汲んだところ、一体の石仏を汲み上げたという。

大師は驚き早速本堂に安置し供養されたといわれる。

後年天正の兵火にも本尊と共に難を免れ、

「霊験あらたかなり」として、井戸の水は延命長寿の霊水と拝し、

求め来る人が後を絶たなかったと伝える。

当山は以前、現在地より西方の泊山高台にあったが太平洋戦争中に今の地に移り、堂宇を再建、寺地を整備された。  

 

まあ、たっきーが指示して燃えたんではなさそうやね。
警告も行き届いてるからか、難も逃れられとるしね。
 

瀧川左近一益

「さあさつんつんつんつくつん…」

そ、その唄はあの有名な『つんつくの舞

ではないですか!

日永地区はたっきーの地元…!?

1…大聖院
   4…日永山興正寺
   10…普光山實蓮寺
 

今回は、

無動山大聖院(真言宗、醍醐派)

でござんす。

またしても公式っぽいのから引用。

当山は行基菩薩開創、

愛宕山に位置し、大福院と称した。

塔頭17院あるような大寺だったという。

 

平安時代には醍醐寺座主定海僧正御住坊であった。

北伊勢修験根本道場として信仰の中心となっていた。

 

永禄八年(1565年)三好松永の乱のとき(??)
松井親蔵法印が千種氏の庇護のもと、

一族の守り本尊であった不動明王を奉じ氏寺として寺院を再興された。

 

永禄十一年(1568年)または、天正年間(1573年~)

三郎&たっきーの戦火に焼失。

時の住職蓮華法印(親蔵法印とも)が、

本尊・不動明王立像を背負って持ち出し避難したという。

 

元禄3年(1690)中興第四世海養法印は寺地を今の地に定め、

寺号を大聖院と改めた。   

 

当院内の阿弥陀如来の開眼を、

千種敬通上人の縁故によって、本願寺顕如上人が行い、

このことを示す、

元亀四年(1573年)九月一日付の上人自筆の文書が残されているという。   

地域ではご本尊を『日永のお不動さん』とお呼ばれになり、親しまれているそうな。
 
それにしても法主・顕如光佐上人どの…こんなところでお目にかかるとは…(-_-)
千種氏は、このはなしに関係あるのかな…。
 

瀧川左近一益

「さあさつんつんつんつくつん…」

そ、その唄はあの有名な『つんつくの舞

ではないですか!

日永地区はたっきーの地元…!?

 
 
4…日永山興正寺
10…普光山實蓮寺
登城山(古墳群)…上地図左下方にちらりと見える緑地帯
 
ということで、
さて今回は(`・ω・´)

 興正寺

(茶臼山、登城山→たっきーによって現在地に移転)

について解説!

まあ、高田専修寺にはいろいろなことがあった時代なので、
折角だから、
公式風な文章をお借りして説明としやしょう。

当山の創建は、

貞観(じょうかん)6年(864年)、浄土真宗高田派。

登城山にあったときは天台宗であったが、

文暦(ぶんりゃく)元年(1234年)、

親鸞聖人が当寺に立ち寄られたとき浄土真宗に改宗した。

その後二百年くらいして、

本山の第十世真慧(しんえ)上人が津の一身田に本山を定められ、

高田派となった。

天文13年(1544年)、

本山第十二世堯慧(ぎょうえ)上人は、

当寺で「日永千部」という
本寺の復興勧進法要を勤められ、興正寺は有力な末寺となった。


天正2年(1574)現在地に移る

(たっきーが再建してあげた)

堯慧(ぎょうえ)上人は織田信長にも治安維持を願い、

瀧川一益が興正寺に対して出した

「日永興正寺四至傍至の事」という寺領を与える文書や

(あの、とんなんしゃーぺーでございます(`・ω・´)リンク先の記事に写真あり)


天白川がこの寺を囲むように曲がっているのも、

瀧川一益が砦としてこの寺を再建し、

堀の役目をするように川の整備をした
ということで、この堤を昔の人は瀧川堤とも言った!!

(この河川事業につんつくおどりのいわれがあるのでは…)
 
・堯慧上人…1527年生まれ、
     飛鳥井さんの息子で将軍義晴の猶子になってたとか。
     なんか年頃近いし…真っ赤な他人とは思えないよね…(-_-)
     たっきーの旧友なのでは…と、おらは見ている。
 

 

やや表現を誇張した箇所もあるけど、
たっきーの御尽力を、熱量を、伝えたくってつい…(・∀・)
 
でなわけで、興正寺はこんな感じにしとこか。
 
たっきーこれでいい?
瀧川左近大夫一益
     「ペルフェット!」
え~!
イタリー(゚∀゚)??