おらのなにがし -2ページ目

おらのなにがし

    めめんともり

1552年 天文21年

 

     滝川一益 27歳

 

たっきー…つらい年月も光陰矢の如しだったかなあ…

 

・織田弾正忠家・および周囲・

 

1552年 織田信秀 41歳 三郎信長18歳

 

 パパがついに…(´;ω;`)

 

   3月3日(桃の節句??)

     1540年、パパが元気だったころに自分の菩提寺として、

     大雲永瑞(パパの母・いぬゐの兄弟)を開祖にした万松寺にて。

     パパの法号は桃巌。やっぱり桃の節句??

     パパの法事が開かれて、坊主がいっぱい来て。

     で、三郎がお洒落なかっこのまんま抹香投げやるんだけど、

     これは葬儀の場じゃなくて、

     銭施行というのをやっているので、一周忌だったとか。

     なので、実はこの前年には御隠れになっていたのでは…と。

    

     三郎 若者中心軍(俗にいう親衛隊…)編成

 

             赤塚の戦い

       今川方に寝返った旧那古野今川家臣・笠寺の桜中村城の山口教継

       子・九郎二郎を鳴海城へ入れて立て籠る。

       対して、

       三郎は800兵連れて山王山に砦をつくりはじめた。

       中根方面から天白川をわたって。

       笠寺地区は当時、汐がひけば歩けたらしい。

       対して、

       山口九郎二郎は鳴海城から1500兵を出して戦いになった。

 

       弓と槍がメインですと。

       知り合い同士の顔見せ戦って感じ。捕虜も馬もお返しに。

       

       もう鉄砲はあると思うんだけど…手の内も足元も見せないように、

       なんとなく謀略のにおいだけがただよう…

 

 

 

 

「しー。」

パパ!(・∀・)

お願いだから生き続けて…ほしかった…

      

 

   

 

・他、日本のあれこれ・

 

1552年 1月 六角定頼 死去 58歳

 

       足利義藤 三好長慶と和し帰京

       細川晴元 若狭に出奔

 

     2月 上・下京の町衆 土御門法華堂跡で勧進猿楽

 

        三条西実澄 皇居修理費を募るため東国に下向

 

     4月 今川義元 山伏らの富士山参詣道者に対する袈裟等商売を禁じ

        駿府浅間社榊大夫に商売役を安堵 

 

        茶人・十四屋宗伍 死去

 

     7月 風流踊りの流行で高級絹織物が品切れ

               

     8月 司祭ガーゴ 豊後府内で大友義鎮に会う

 

    10月 足利義藤 東山に霊山城を築く

       細川晴元勢 義藤を攻め、清水坂で合戦

       建仁寺焼ける

 

    11月 教訓集『塵塚物語』完成

       

    12月 日本初のクリスマスミサ挙行 

      

 

      

 

・生まれたひと・

 

高山右近ジュスト

「曲者がおるな…」

誅殺・謀殺・暗殺

たっきーのこういうおつむよりな面が狂おしいほど好き…(´ρ`)

 

まあ、前回の謀略の続きでもないけど、おまけていどに。

         

★☆茂福(朝倉)家の関連調書★★たっきーに提出いたす(`・ω・´)

 

   北勢四十八家の一つ、茂福(朝倉)氏。

 

応永年間(1394~1428年)

    平維茂の後裔・平貞冬が

    越前国朝倉から戦乱を避けてこの地へのがれ、茂福城を築いた。

    朝倉氏を名乗っていたが、地名に因んで茂福氏を名乗った。

    

 

永禄三年 1560年

    茂福氏は羽津城の田原氏と合戦(茂福合戦)

    関氏や神戸氏なども参加。合戦に勝利。

 

「曲者がおるな…」

誅殺・謀殺・暗殺

たっきーのこういうおつむよりな面が狂おしいほど好き…(´ρ`)

 

永禄十年・1567年(あるいは元亀二年・1571年) 

     茂福(もちぶく)城主・茂福(朝倉)掃部輔盈豊

 

     織田信長にそむくという風聞、あるいは、

     瀧川一益に、

     六角義賢(承禎)との内通および裏切り行為を疑われ、

      (直々に尋問されたかも。うらやましい…)

     桑名矢田城(長島城ともいわれるが、まだ落としてないような?)へ

     呼び出され、謀殺される。31歳。

     他家臣など28人が逃亡、及び討死。

     大手門に入ろうとするところを待ち伏せの兵に

     一度に斬られたという表現もあり。

 

  またこの時、

  茂福盈豊の家臣・小川勘右衛門宗春は所用で遅れてきて、

(いやいや、なんかあやしいよね、この人…間者でしょ…)

  主・茂福盈豊の首を奪い取って逃げて、自ら船を漕いで

  朝明川上流の茂福から渡って朝明郡保々(朝倉氏の本拠地)へ落ち、

  大樹寺のすぐ前に首を葬った。

  その『首塚』では今でも命日に法要が営まれているとか。

 

さらにその後、

    瀧川さまは、2千余騎をもって茂福城を攻める。

  茂福盈豊の伯父・下野守入道宗貞など家臣380余人、ほとんど討死。

 

    瀧川さまは、統治のために茂福城の目代として山口氏を入れたんだと。

  

まあ~、なんてたっきーらしい謀略のお手本のような流れ(゚∀゚)

 

  そのなか、茂福家臣・林玄證は、茂福盈豊の子(2歳)を連れて逃げ出し、

  報乳山洪恩寺(茂福)に入った。

  成人した子供は、林の養子になり、林三郎左衛門盈景を名乗ったとか。

         

 

長いし、誰がなんだかだし、

今回はここまで~。

 

1551年 天文20年

 

     滝川一益 25歳

 

 

・織田弾正忠家・および周囲・

 

1551年 織田信秀 40歳 三郎信長17歳

 

   パパは病に伏してるらしい…(´・ω・`)

 

   天文19年または20年(1551年)11月5日付け織田寛近の土岐頼次宛の書状に

   「備後守病中ゆえ」とある、らしいよ…パパ…

 

   三郎への家督相続が行われたとか。

   パパと末森にいたらしい弟・信勝にも家督権限は与えられていたみたい。

 

   ★★★

 

ちなみに、岩崎で起きた今川丹羽と織田丹羽の戦いでこんな話があるという。

 

   今川丹羽(氏郷)たちは、鉄砲で三郎勢をけちらしたらしい…

 

   すでに、こんな小さな争いにも実戦使用されてるということは、

   やっぱ金持ちのパパが元気だった二三年前には、

   研究開発製造技術もだいぶ進んでたんでないかなあ。

   三郎かて、もう手習い受けてると思うんだけどなあ。

たっきー…

 

 

・他、日本のあれこれ・

 

1551年 3月 三好長慶 暗殺未遂事件 

       殺されそうになった? 

 

     5月 大内義隆 厳島神社で『宮島千句』開催

 

     6月 肥後で虫害、人身売買が横行

       虫害と人身売買の関係はいったい…

 

     7月 細川晴元 相国寺にて、

       三好長慶の将・松永久秀、三好政勝らに討たれる

 

       ポルトガル船 豊後日出に来航  

 

     8月 大内義隆 陶隆房に背かれ、山口から逃亡
     9月 大内義隆 陶晴賢の謀反で死亡 45歳でした。

 

    10月(もしくわ11月) シャビエル インドへ

   

       『大内義隆記』完成

 

       蠣崎季広がアイヌと講和

      コマシャインだっけ?言葉通じないのにがんばったね! 

 

      なんか大内義隆の年やね…

 

 

 

誅殺・謀殺・暗殺

たっきーのこういうおつむよりな面が狂おしいほど好き…(´ρ`)

 

1568年 たっきーの伊勢攻略の軍にすでにいたらしい、

 

     千種又三郎(千種三郎左衛門忠治の子)

 

年不詳  六角との内通を疑われ、殺害。

 

★☆千種家の関連調書★★たっきーに提出いたす(`・ω・´)

 

   もともと、千種氏は北勢四十八家の一つ、六角とのつながりなどは以下

 

もともともとは、南朝の千種忠顕一族の居城:千草城

はじめは、禅林寺城(下鵜河原)に拠った。

 

1555年 千種城(三重郡)を、

    六角家臣・小倉三河守(実隆?)に攻められる 

    六角家臣・後藤賢豊の弟を養子に入れることで和睦

    千種三郎左衛門忠基と名乗っていた。

 

其後  実子・千種又三郎が生まれたことで養子・忠基に、

    多分、親子ともども追放される。

    六角を頼って、桜一色村に退去とのこと

 

以後  血縁関係にあるらしい、

    萱生城主・春日部大膳、

    星川城主・春日部若狭守と、

    千種城の奪還に奮闘したらしい。

    けど、うまくいかなくて六角の膝元にいた風。

 

    千種三郎左衛門忠治は、隠居出家して朴斎を名乗ってたので殺害を免れて、

    本能寺の変後もいけしゃあしゃあと生存しとったらしい。

    ふーん。養子ももらったて。どうでもいいけどね。