山科さんの 元亀二年十二月十日 ついにじうべえ、二 | おらのなにがし~かしく、瀧左とのへ~

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    ことしはきうてんさまのおんとし

 

(∩´∀`)∩卒業証書「…たいてん…へちきなく…いみうむ」

 

やましなさん…(´・ω・`)なして…

 

元亀二年十二月十日のつづき

 

十日、

戊戌、天晴、天一・・、

竹内大典侍殿長橋局等へ参、女房奉書被出之、武家ヘ可参申

之由有之、奉書如此、

 …、

  山しなの大なこんとのへ

 

武家ヘ持参、申次以飯川肥後守申入之處、御返事、此儀于

今遅々、御油斷之至也、雖不被仰出、内々度々被申下了、

只今以御内書可被仰出、但拙者に御談合也、先被成勅書

可被仰出、自然被遅々之時後奏不可有之歟、如何之由有之、

御返事、尤無餘儀候間、此由可披露之由申入之退出了、

長橋局へ参申入了、

日野、陽春院等使有之、夕庵に言傳尊勝院之事、日野

之間、別而馳走頼入之由可演説之由有之、使小四郎、對面了、

葉室暇乞に出京、又山口又左衛門人夫兩人雇之、同來、

靑門彌二郎、自妙門四郎右衛門兩人賜之、供之用也、

 

 

さて、飯川のやろうなにさまだ…(^_-)?

 

※飯川肥後守…「光源院殿御代當参衆幷足軽以下衆覺 

永禄六年五月日」

これにのってる…ようなサーチ

と、こちら、

飯川肥後守(信堅)として起請文にいるよ…!

※日野、陽春院…

 ・日野…日野家二十七代当主・日野晴光(1518~1555)

御子・晴資(1536~1551)も早くに亡くなって、

・日野輝資(1555~1623、広橋兼保)が、

永禄二年(1559年)に日野家を再興したという、

 

 ・陽春院…足利義輝の乳母だか実母にあたるひとだとか!?

え~?!

その御使いは小四郎でございます、(∩´∀`)∩對面了

はて、

日野おとうとの尊勝院てどこの誰…?(?_?)?

どっかの脇門跡みたいなもんかなあ

※本圀寺が幕府の庇護もあつく、

二條に御所構えるときの材料もろとるから、

ここに入った輝資弟・究竟院日禛?※

 

※夕庵…武井夕庵、いつだか二位法印もろたと、

はじめ、斎藤さんとこから三郎んとこに来たらしいけど、

なんなんやら…(-_-)?

 

※葉室…葉室頼房(1527~1576)、山科さんの義理の弟

※山口又左衛門…山口左衛門は出てきましたね

先日(十二月一日)

葉室家の青侍さんたちっぽい

※靑門彌二郎…青蓮院門跡、

たぶん尊朝法親王(1552~1597)さま

彌二郎:山科さんの御供

 

※妙門四郎右衛門…

・妙門…妙法院門跡、常胤法親王(1548~1621)、

伏見宮貞康親王(1547~1568)さまと

尊朝法親王(1552~1597)さまの御兄弟だそうな…

そこの

四郎右衛門さん:山科さんの御供

 

賜之、

(∩´∀`)∩「供之用也…」

 

そんな、、

御供衆、ちと少なすぎぢゃない…??(´・ω・`)