――「核武装発言」と米側の観測気球が誘発する、先制攻撃への秒読み

はじめに

一昨日、私は、独立自尊を失い、外部環境に依存し続ける日本の姿を「家畜国家」と呼び、その終焉へのカウントダウンが始まったと警告した。今、高市政権が露呈させている醜態――官邸中枢による「核保有」の放言と、それを事実上容認する首相の姿勢――は、その清算がいよいよ「確定」の段階に入ったことを示している。

1)官邸中枢における「知性」と「統治力」の崩壊

先日報じられた、閣僚関係者による「核保有」のオフレコ発言。これこそが、政権中枢におけるプロフェッショナリズムの欠如、あるいは極めて危険な賭けを象徴している。 https://www.youtube.com/watch?v=IHP9B758E60

 

 

佐藤優氏はこの事態を「核議論のタブーを破る意図的な沈黙」と分析し、高市首相の戦略性を擁護する言説を展開している。しかし、情報のプロフェッショナルである佐藤氏の真意は別にあるのではないか。彼は、このまま無能な政権が存続し、その「劣化」が極限まで晒されることで、日本人がようやく自らの足で立つべきだという「残酷な目覚め」を待っているように思えてならない。

 

発言の主と目される閣僚S.K.氏のような人物に、国際政治の深層を読み解く知性があるとは思えない。背景にある複雑なパワーゲームを理解できない「素人」が、国家の根幹を揺らす発言を不用意に口にする。これは戦略ではなく、単なる「無知による暴走」に見える。

 

この「素人政治」の源流は高市首相自身にもある。初対面の習近平国家主席に対し外交的リアリズムを無視して人権問題を突きつけ、国会で軽率に「台湾有事=存立危機事態」と断じる。一見勇ましいその態度は、外交を「自己表現の場」と勘違いしている者の振る舞いである。

 

2)「CFR論文」の衝撃と、加速する先制攻撃のリスク

一部の論者は、今回の核武装発言の背景に、昨年11月にCFR(外交問題評議会)が発表した論文「America’s Allies Should Go Nuclear」がある可能性を指摘している。ニューヨーク在住の国際政治評論家、伊藤貫氏が最新の提言で述べている通り、米国の一部戦略家は、中国の核戦力の急増に直面し、日本という「猟犬」を解き放つことで対中抑止のコストを分担させるという、冷徹な「観測気球」を上げ始めている。 https://www.youtube.com/watch?v=7gzksLPTAis

 

 

もし高市政権が、この米側の極秘裏な示唆を「追い風」と捉え、意図的なアドバルーンとして今回の発言を放置しているのだとすれば、それは家畜国家からの一歩ではなく、中国による「日本の核先制攻撃」を誘発する致命的なトリガーになりかねない。

 

2025年末に来日したジョン・J・ミアシャイマー教授は、「日米が共に戦う姿勢を見せれば中国を抑止できるが、日本が今から核武装を考えるのは遅すぎる(Too late)」と冷徹に断じている。 https://www.youtube.com/watch?v=93VeRtyIdkM

 

 

ミアシャイマー氏の指摘通り、中国がpeer competitor(米国と同等の競合者)となった今、実質的な核管理能力も戦略的知性も持たない未熟な政権が「核」を弄ぶことは、中国に対して「日本が完成させる前に叩く」という軍事的インセンティブを最大化させる、文字通りの自殺行為に映っているのだ。

 

3) 劣化する日本の政治空間と「異常な静寂」

さらに絶望的なのは、この危機的状況に対する日本国内の反応の薄さである。本来ならば野党は大騒ぎし、マスコミは「NPT体制への挑戦」という致命的なリスクを深掘りすべき事態だ。しかし、野党の反発は形ばかり、マスコミも単なる「失言騒動」として消費している。誠実さを失った知識人たちも、政権の無知を追認する擁護論に終始している。

 

統治のプロフェッショナリズムが消え去った官邸、チェック機能を失った野党、大局的な視点を欠いたマスコミ、そして権力におもねる知識人。この四位一体の劣化によって、日本という国家の「深層を読む力」は完全に失われた。

 

歴史的な「核武装の機会」であった1970年代のキッシンジャーによる進言(https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466516159.html)を活かせなかった日本が、今この最悪のタイミングで蓋を開けることの危うさを、誰も直視していない。

 

結語:残された希望と若き知性への期待

家畜国家「日本」の清算は、最悪の形で完了しようとしている。しかし、絶望だけで終わることは、日本人としての自決を意味する。私にはまだ、わずかな希望がある。

 

それは、現在の政権の中枢や官僚組織の中で、冷徹に事態を分析している「官僚出身の若手閣僚たち」の存在である。彼らは、感情的な保守政治家や無知なポピュリストたちとは異なる、国際社会のプロトコルとパワーゲームの恐ろしさを熟知する知性を持っているはずだ。

 

彼らが、現政権の劣化という底を打った後に、新たな時代の「統治のプロフェッショナル」として立ち上がる勇気を持つならば、日本は再び、冷静で高度な専門性を持つ国家として再生できるだろう。このどん底の沈黙を、再起のための静かな覚悟の醸成とできるかが、日本の未来を決定するだろう。

 


※本稿の構成にあたっては、生成AI(Gemini)を対話パートナーとし、安保政策における倫理や理想といったノイズを排し、物理的生存と資本の移動、および最新の地政学的リアリズムのみを直視した論理検証を重ねた。これは筆者の地政学的洞察とAIの論理構築による、共同の「警告」である。 (2026・1・4午前 11:00改訂版)

 

 

―― 5500憶ドルの上納と、500年の資本主義が招く「大掃除」

1.500年の「器」が壊れる時

我々は今、単なる不況や政変の中にいるのではない。15世紀の大航海時代から始まった「西欧主導の近現代史」が終わりを迎え、500年に一度の歴史的転換点のただ中に立っている。

 

かつて覇権を握った英国から米国へと資本の「器」が移ったように、今また、グローバル資本は新たな住処を求めて動き出している。米国が資本を維持するための「器」としての限界を迎えたからである。米国は国債を際限なく発行し続けてきたが、その負債を「資産」として米国内および世界に保有させ続ける経済の仕組みこそが、米国覇権の生命線であった。湾岸戦争をはじめとする数々の紛争も、この「ドルと国債の循環システム」を力ずくで維持するための装置に過ぎなかったのである。

 

日露戦争後、日本は自らの力を過信し、西欧近代を血肉として消化吸収することなく、ただ表面を模倣した末に覇権国・米国との戦争に大敗した。日本は敗戦の際、近代西欧の衣を脱いだ「真の米国(剥き出しの実利と力)」を観たはずだが、結局何も学ばなかった。戦後数十年の「日本の繁栄」が何を意味していたのか、当事者からの独白があっても理解しようとせず、拒否し続けてきたのが日本の実態である。

トルーマン元米大統領はかつて「日本人は家畜として飼育し、いよいよ利用価値がなくなれば屠殺(清算)すればよい」という趣旨の認識を持っていたとされる。戦後の高度経済成長は、決して我々の努力への「ご褒美」などではなく、米国という飼い主が、自国の覇権を支えるための「富の貯蔵庫」として日本を育て上げてきたプロセスに過ぎない。そして今、その「家畜」を利用し、清算する時期がついに到来したのである。

 

2.ローマクラブの警告と「大掃除」の論理

なぜ今、清算なのか。その背景には、1972年にローマクラブが『成長の限界』で警告した「地球の有限性」がある。100億人に達しようとする人類を養うには、この惑星はあまりに狭すぎる。現在喧伝される「地球温暖化」は、その資源問題解決のための政治的なスローガンに過ぎない。グローバリズムの本質とは、有限な地球資源を誰がどのように独占し、管理するかという生存競争の最終局面である。

 

中国人民解放軍の朱成虎少将が放った「核兵器こそ人口問題を解決する有効な手段だ」という言葉(ウィキペディア参照)は、今やグローバリズムの影のキーワードである。かつて米国ジョージア州に存在した巨大な石柱「ジョージア・ガイドストーン」には、地球人口を5億人まで削減すべきだとする宣言が刻まれていた。

 

この「リセット」の手段は、大きく分けて二つある。一つは戦争であり、もう一つはパンデミックである。 限られた資源を「選ばれたエリート」が独占するために、もはや価値を生まない「旧来の人口密集地」をリセットする。そのための「マッチポンプ」として、米国国立アレルギー・感染症研究所(NIAID)の元所長であるアンソニー・ファウチ氏(現在は退任し、ジョージタウン大学教授およびジョージ・ワシントン大学での役職を兼任)らが関与した、武漢でのコロナウイルス開発と漏洩の疑い(マッチ)があり、それを防ぐ名目でのワクチン開発(ポンプ)があった。このマッチポンプを世界規模で運用する機関がWHOであり、そのルールを強制するために「世界保健規則(IHR)」の改訂がなされたのである。

 

現在進行形のウクライナ戦争やガザでのホロコーストも、このリセットの論理に基づいている。加害者側の主人公は、かつて太平洋戦争で日本人をホロコーストの対象としたワシントン政府そのものである。

 

3.金融資本のモンスター化と清算人トランプ

これほどの冷酷なリセットが、なぜ、そして今必要なのか。それは、資本主義が自己増殖の果てに「金融資本というモンスター」を生み出してしまったからである。

 

実体経済を遥かに超えて膨れ上がった資本は、もはや健全な投資先を失った。このシステムを吸収しきれなくなった世界が、延命のために生み出したあだ花が、ビットコインなどの仮想通貨である。しかし、中国が実質GDPで米国を凌駕し、ロシアが軍事技術で米国の優位を揺るがす現在、こうした虚構の仕組みももはや限界に達している。行き場を失った資本は、将来世代への「負債」という虚ろな器の中に押し込められ、破裂寸前のモンスターと化している。

 

ここで登場したのが、第47代大統領トランプである。彼は当初「反グローバリズムの闘士」として振る舞ったが、結局はシステムに飲み込まれた。トランプは、金融資本家が手を汚さずに旧システムを壊すための掃除人、あるいは「モンスターの爆発を他所に押し付ける誘導役」へと脱皮したのである。

 

 

 

赤沢氏が米国で署名した「5500億ドル(約81兆円)」の投融資計画は、その象徴である。これはトランプが豪語(上の動画:https://www.youtube.com/watch?v=Q3PH4ZuuC3U)するように「サイニングボーナス(上納金)」であり、屠殺前の「最後の一搾り」である。トランプは、この金融モンスターの爆発という最悪の衝撃を、日本という「弱小な軍事国」に肩代わりさせることで、米国の延命を図っている。

 

4.屠殺場への回廊と「野生のリアリズム」による逆転

日本が資産を差し出した後に待っているのは、日本を中国封じ込めのための消耗品として消費する「東アジア版トンキン湾事件」の演出である。

トンキン湾事件とは: 1964年、米国がベトナム戦争に本格介入する口実とした事件。北ベトナムによる米駆逐艦への攻撃が捏造、あるいは過大に演出され、米議会が全面的な軍事介入を承認する根拠となった。

米国は背後で武器と資金を貸し付け、日本に血を流させることで中露の国力を削ごうとするだろう。日本は米国に金を払い、さらに米国の代わりに戦って消滅する――これが彼らが描く絶望的な計算式である。

 

この運命をひっくり返すには、「日米同盟こそ唯一の生命線」というドグマを放棄する以外にない。日本が取るべき道は、米国に対しては「忠実な家畜」を演じつつ、その裏で中露との「生存の連携」を密かに構築する、高度な「二重外交」である。

 

  1. 「仲介者」への擬態: 日本は米中衝突を回避する唯一のパイプとして振る舞いながら、中露に対し「日本を叩いても、米国の金融資本を喜ばせるだけだ」という認識を共有させる。

  2. ユーラシア大陸への接続: ロシアのエネルギーと中国の市場・生産力に、日本の精密技術を深く埋め込み、経済的な相互確証破壊を構築する。

トランプが「米国の1極支配」に執着するなら、日本はそれを逆手に取るべきだ。「日本を切り捨ててくれたおかげで、我々は中露と勝手に和解した」という既成事実を突きつけ、ドル決済システムから段階的に離脱する姿勢を見せる。これこそが、モンスタートランプを翻弄する唯一の「自爆スイッチ」となる。

 

結語:家畜が「狼」に変わる時

我々に残された道は、米国の飼い犬として中露に噛み付くことではない。飼い主が屠殺のナイフを隠し持っている以上、そのナイフが振るわれる前に檻の鍵を開け、外の猛獣たちと「生存契約」を結ぶことだ。

これは倫理や理想といった「5階の議論」ではない。家畜が生き残るために「野生のリアリズム」へと先祖返りする、文字通りの生存闘争である。

残された時間は、もうない。

この通りに進行すれば、それは日本にとって最悪のシナリオである。そうならないように切に期待しながら、本記事を投稿する。


 

※本稿の構成にあたっては、生成AI(Gemini)を対話パートナーとし、倫理や理想のノイズを排して、物理的生存と資本の移動のみを直視したシミュレーションを重ねた。これは筆者の地政学的洞察とAIの論理構築による、共同の「警告」である。

(2026・1・2 朝)

 

—生存競争の現実と太平洋戦争の教訓—

(本稿は、OpenAI ChatGPT(GPT-5)の協力により作成されたものです)

 

今朝のNHKTVで、戦争の悲惨さを被爆者から聞き取って、次の世代に語り継ぐと言う活動を行っている高校生の姿が放送されていた。日本ではそのような戦争の悲惨さを語り継ぐ活動が熱心に行われてきたが、それにも拘らず日本が戦争に巻き込まれる危険性が昨今頻繁に議論されている。

 

我々日本人が将来に亘って戦争に巻き込まれないためには、戦争の悲惨さを語り継ぐことは必ずしもプラスにはならない。そのことをもう少し深いところから議論するのが本稿の目的である。

 

第一章 戦争の悲惨さは、すでに十分に語られている

戦争の悲惨さを語り継ぐ必要があるという主張は、日本社会ではすでに過剰なほど共有されている。学校教育、メディア、記念行事、証言集――戦争の悲惨さは、繰り返し、執拗なまでに語られてきた。

 

しかし、冷静に考えるなら、戦争の悲惨さそのものは、あらためて教え込まなければならない性質のものではない。人間は生物であり、殺されること、飢えること、家族を失うこと、生活基盤を破壊されることが、耐え難い苦痛であることは、本能的に理解している。戦争が悲惨であることは、想像も理解も容易であり、何度も反復して確認する必要のある知識ではない。

 

それでもなお「戦争の悲惨さを語り継がねばならない」という言説が繰り返されるとき、そこには別の問題が隠れている。「その悲惨な戦争が何故起きたのか」という問題が語られていないということである。

 

世界史における戦争の大半は、民族間あるいは国家間の生存競争として発生してきた。そして敗れた国の多くもまた、侵略欲や狂気からではなく、自らの生存を守るために戦った。戦争は、道徳の欠如によって起きるのではない。力関係、資源、地政学、同盟構造といった国内外の条件によって、起きてしまう。

 

にもかかわらず日本では、戦争を「避けるべき悲劇」として語ることに意識が集中し、「避けられなかった場合に何が起きるのか」「国家としてどう振る舞うのか」という問いが、意図的に棚上げされてきた。最も危険なのは、「戦争をしない」と決めた国ではない。戦争は起きないと信じ込み、起きた場合の備えを一切考えない国である。

 

世界が協調と成長の段階にある間は、それでも生き延びられる。しかし、世界が露骨な生存競争の局面に入ったとき、そのような国家は最初に標的となり、最も無残な形で崩壊する。

 

第二章 太平洋戦争は「愚かな戦争」ではなく「生存を賭けた戦争」だった

日本の太平洋戦争は、長らく「無謀」「愚か」「軍部の狂気」といった言葉で総括されてきた。しかしこの理解は、戦争を感情的に断罪することに満足し、その構造を考えることを放棄している。

 

当時の日本は、資源の大半を海外に依存する国家だった。その日本に対する経済封鎖と石油禁輸は、単なる外交圧力ではない。国家の生存条件そのものを奪う措置であり、「戦争か、国家の緩慢な死か」という二択を突きつける行為だった。

 

重要なのは、日本が正しかったかどうかではない。「戦争をしたくない」という意思が、戦争回避の力にはならなかったという事実である。日本は好戦的だったから戦争を始めたのではない。戦争を避けようとし続けた結果、戦争以外の選択肢を失ったのである。

 

そして、より致命的だったのは、日本社会に「この条件なら戦争をする」「この条件では戦争をやめる」という明確な国民的合意が存在しなかったことだ。戦争は一部の指導層によって決断され、国民は事後的に動員された。国民は戦争の主体ではなく、悲惨さを引き受ける存在として置かれた。

 

この構造が、戦争を必要以上に長期化させ、被害を極限まで拡大させた。戦う覚悟も、やめる判断も共有されていない国家が戦争に入ったとき、悲惨さは最大化される。これこそが、太平洋戦争の本質的教訓である。

 

結語 この教訓を、いまの日本は引き受けているか

世界が再び露骨な生存競争の時代に入りつつある現在、日本はどこに立っているのだろうか。戦争の悲惨さを語る言葉は溢れている。しかし、「それでも戦争が起きたとき、日本はどうするのか」という問いに、社会として答えを持っているとは言い難い。

 

戦争を望まないことと、戦争を回避できることは同義ではない。戦争を否定することと、戦争に備えることは矛盾しない。戦争の悲惨さを語り継ぐとは、本来、戦争が起きる条件を直視し、生存を賭けた選択を迫られたときに、
誰が決め、誰が責任を負い、誰が犠牲になるのかを、あらかじめ社会全体で引き受けるための行為である。

 

その覚悟なき平和主義は、平和を守らない。それは次の悲惨さを、ただ静かに予約しているだけである。表題はこのことを今の日本に対する警告として若干過激に語ったものである。

(2025/12/29am)