1)日本を骨抜きにした第一の原因は米国の占領統治なのか?

 

日本の右派の共通項は、戦後まともな国家になれない理由を、米国の戦後統治(war guilt information program; WGIPなど)に押し付ける考え方である。それは根本的に間違っている。そう考えるのは、日本は明治時代以降、一度としてまともな国家であったことはないと考えるからである。

 

 

 

もし戦後、米国による占領統治がなかったとしたら、日本は再び天皇を中心にした全体主義国家に再生していただろう。何故なら、米国の統治終了後、日本国独自にあの戦争に関する総括が成されなかったし、そして、東京裁判で殺された人たち全てを、英霊として靖国神社に合祀したからである。それは、戦前戦中の出来事全部の評価を放棄し、全肯定したことを意味する。(補足1)

 

また、日本の近代史の研究家から日本の敗戦までの失敗の原因として屡々指摘されるのが、軍の暴走であり、それを可能にした大日本帝国憲法の欠陥である。軍を直接支配するのは天皇であり、内閣ではないという帝国憲法第11条である。

 

「天皇は陸海軍を統帥する」であるが、これは恐らく天皇の権威を高めることと、軍兵士の戦意を高めるための条文だろう。この規定により、内閣の指示に従う必要がないという気分が軍の中堅幹部(現場の指揮官)に生じたたとしたら、それは少なくとも敗戦の間接的な原因だと言える。

 

しかし、それが直接原因となった訳ではない。日本国が全体として機能を果たす事ができなかった根本原因は、日本の軍隊を含めた汎ゆる組織において、指揮系統に沿った十分な情報交換と意思疎通が行われ無かったことにある。私は、そのように思うので、それについて以下議論する。

 

 

2)日露戦争から満州事変までの戦略について:

 

日露戦争から朝鮮併合までの日本の拡張政策は、米国の支援も有って成功裏に行われた。南満州鉄道に関しては、米国は共同管理を期待したが、日本はそれを拒絶した。そして、独自に満州事変を引き起こし、傀儡政権樹立による満州国支配へと進み、米国を含む国際社会と対立して、太平洋戦争へと進んだ。

 

日本の政府は、日露戦争の総括をしないで勝利に酔う一方、ポーツマス条約に対する国民の不満について十分、分析対処しなかった。セオドア・ルーズベルトとその背後にあったユダヤ系資本とによる、日露戦争における日本支援の戦略について、十分総括していない筈である。

 

何故なら、その後の政権は、簡単に桂ハリマン協定(満鉄共同運営)を破棄しているからである。この歴史の流れは、日本帝国が、戦略の立案から現場での実行に至るまで、一つの機能体の行為として行う体制(国家の体裁;国家の骨組み)を整えていなかったことを証明している。(補足2)

 

ロシアから手に入れた南満州鉄道の運営も簡単ではなかった。それは、現地の人たちにとっては侵略行為であり、それに対して当然強い抵抗がある。更に、満州での利権を狙う西欧諸国の思惑などもあり、それらへの対抗措置をとるには、緻密な集団思考の結果としての戦略が必要だろう。

 

上述のような国体だったので、敵対勢力の全てを撃破する稚拙な方法しかとり得なかった。その結果、日本の戦いはまるで坂道を転げるように、満州事変、日支事変へと拡大され、遂には米国との戦争にまで発展した。敗れるまで、戦線を拡大するしか無かった。能力を顧みないで戦線を拡大して、最後にはバブル崩壊となったのである。

 

3)満州事変について:

 

具体例として、関東軍が独自に立案実行したと思われる対満州作戦を取り上げる。日本政府は、事の経緯を有耶無耶にすることで、事後承認するのが精一杯だったというのが事実である。それは、近代立憲国家という着物を付けたものの、猿真似衣装に過ぎなかったことの証明である。

 

当時の満州は張作霖ら軍閥が支配していた。南満州鉄道の警備が目的だった関東軍は、徐々に反日の動きを強めた張作霖の下、治安の悪化に悩んだ。満鉄沿線以外に侵攻することを許可しなかった本国の意思を無視して、1928年、独自に張作霖の暗殺を実行する。(張作霖爆殺事件;関東軍高級参謀であった河本大作の立案)

その後、1931年、石原莞爾の立案による満州占領作戦が実行された。(満州事変;板垣征四郎らとともに実行)それらは、繰り返すが、日本の大本営の計画したものではなかった。結果が大成功だったため、石原の独走の責任は有耶無耶となった。そして、それが前例となって。その後の軍の暴走に拍車をかけることにつながったようだ。

 

満州での治安悪化などの情報を本国で受け取り、それに対する対策を現場との情報交換の末に立案し、現場が実行するという本来の機能が全く発揮されなかった。(補足3)本来ならその過程で、日本国の実力のほどが自覚され、その後のバブル的な戦略拡大は無かった筈である。

 

この種の体験は、明治以降、多くのケースで存在した筈であるが、それらに学ぶことが出来なかった。つまり、現場が独自に動く現実は、立憲国家の体をなしていなかったことを示す。太平洋戦争も同様に、現場と参謀本部の情報交換は円滑ではなく、兵站の理論もなにも無視して、多くの作戦がなされたと言われている。

 

4)現在の右翼のプロパガンダ

 

現在、右翼的思想をもった人たちのほぼ全員が、上記のような近代の歴史を総括すること無しに、戦前の日本帝国を擁護する傾向にある。それは現在においても尚、主権国家の機能と組織に関して、十分な理解がないからである。防衛力の整備に関しても、「平和を目指す民主国家でありながら、国民の命を軽視するのか」という類の左翼の攻撃に対して、右派の政府はまともに反論できない。

 

マッカーサーの占領政策に洗脳されているとしたら、左翼も右翼も同様だということである。日本が国家としてあの戦争を総括できないのは、組織的且つ多角的な議論を、フラットな人間関係のなかで行うという欧米が理想とする型の国家運営が出来ないからである。個人には、高度に戦略的に練られた占領軍の洗脳政策の分析が出来るほどの能力は無い。

 

個人のレベルの能力では、右派には戦前の日本に帰る方針しか出せないし、左翼には日本国家を滅ぼす方向しか浮かばない。(右の売国、左の亡国?)そのような彼らの間では議論などできない。出来るのは、口論であり喧嘩である。その根本は、西欧から輸入した民主的な主権国家体制を消化不良のまま真似をし続け、何時になっても日本の文化の中に同化できないのである。その思想的背景まで輸入できていないのである。

 

そして右派は、「日本は悪くなかった、米国のフーバー元大統領はそう書き残している」と主張したり、「教育勅語には良いことが書いてある」とか、「靖国神社へ参拝を首相がするのは当然である」と主張し、総理が参拝できないのは外国の干渉だとして、それら外国を非難するのである。

 

日本は戦いに敗れたのである。その現実が全てであって、それを国家間の善悪論争に持ち込むのは根本的な間違いである。国際法は一応存在したが、国家間の関係は本来野生の関係だからである。善悪は、権力と権威が明確に存在する国家内部でのみ有効な概念である。(補足4)それを知らない者には、国際政治を語る資格がない。

 

5)靖国参拝について:

 

靖国問題については、過去に何度も議論している。その詳細は、以下の5年前の記事をご覧いただきたい。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466515250.html

 

右派は、国家の為に命を捧げた英霊の墓所である靖国神社に、国家のトップが参拝しないのは異常であると宣伝している。確かに、国家のために命を捧げたのは事実である。その英霊の勇気と覚悟に対して、大日本帝国は十分な配慮を行ったのか? その総括無しに、英霊への参拝を主張するのは、誤魔化しである。

 

もし、その陸軍の英霊の死が、インパールでの犬死だったのなら、その悔しさを国民全員が自分の父や兄の犬死として反芻すべきである。「マリアナでの七面鳥撃ち」と揶揄されるような無様な海戦で、命をおとした海軍兵士達の無念を、国民全員が同様に自分の無念として反芻すべきである。これらは百田尚樹氏の小説「永遠の0」にも、詳しく書かれている。

 

その無念さや悔しさを胸に、それら英霊の墓所に参拝すべきである。その悔しさを、日本の政治のあり方を考えるエネルギーに転換しなければ、靖国に参拝する意味がない。

 

しかし日本人は、あの戦争の復習を全くやらず、英霊を祀り上げて、自分たち民族の失敗を隠している。その失敗とは、敵の諜報活動に日本の弱点を把握利用され、勇敢だった日本の兵士の命を無駄にしてしまったことである。日本の政府は、一つの機能体として働かず、例えば石原莞爾や山本五十六のような個人が、思い付きで日本国を悲惨な結末に導いたのである。

(以上は、素人であるこのブログの支配人の考えであり、学会の定説とは無関係です。)

 

(2/11/7:00 全体を編集、補足3は完全に変更し、最終稿とする。)

 

補足:

 

1)過去の失敗を反芻することなく、敵側(フランクリン・ルーズベルトの米国)の悪としてしか語れないのが現状である。戦後の日本は、明治維新以来継続的に、薩長や土佐の支配下にあった。同じ陣容で同じ遺伝子が発動すれば、同じ国体が再生する筈である。

 

2)米国は南北戦争でアジアへの進出が遅れた。フィリピンを植民地化(1902年)した後、満州利権の獲得を狙っていた。そこで、日本には統治が難しい朝鮮半島の併合を認めた。共通の敵となるロシアとの戦争において日本を応援し、南満州鉄道の利権をハリマンが共有すること等に始まる満州権益の確保で、その帳尻を合わせる積もりだった。

 

3)内閣で問題を把握し、満州での対処を話し合えば、必ず批判を強める外国相手の外交も考慮の範囲に入り、議論の裾野が広がる。現場の専門家だけの議論ではなく、裾野を広げて、諸外国との関係を含め日本国全体の問題として議論し方針を出さなければ、普通の国家とは言えない。

 

4)同一の神を頂く集団には、神の権威による善悪が存在する。その善悪と、国内の権力と権威が求める善悪との調整は、欧米諸国にとって難問である。それは通常、二枚舌によって調整される。


 

オリンピック組織委員会の森喜朗会長が2月3日、女性蔑視発言をしたとして非難され、その非難は国際的になっている。翌日森氏の謝罪があったが、今日現在でもマスコミなどで話題となっている。この件、日本の病根と関連があるとの指摘もあり、私も独自に文章を書くことにした。

 

問題となった東京五輪・パラリンピック組織委員会会長の森喜朗氏の発言を、ネットメディアのDailyが以下のように報じているhttps://www.daily.co.jp/general/2021/02/04/0014056469.shtml

 

日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議員会において、競技団体の健全運営を促す国の方針にならい、日本オリンピック委員会(JOC)が女性理事の40%以上の登用を目標とするなど、役員選考を見直したことに対して、(内部で)だいぶ抵抗があった。

女性理事を4割というのは文科省がうるさくいうんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますが、ラグビー協会は今までの倍時間がかかる。

 

読売新聞の2月5日の1面にこの発言の撤回が報道されており、そこに森氏の「(4割という)数字にこだわって無理をしない方が良いと言いたかった」という上記発言の動機が書かれていた。3日の発言としては、上記発言の根拠としてだと思うが、「女性は競争意識が強い。一人が手を挙げると、自分も(何か)言わなければいけないと思うのだろう」などもあったようだ。こちらの発言も同様に非難の対象になっているようだ。

 

この森氏の本音を分析した記事が、JB Pressというネットメディアの2月8日の記事に掲載されている。東大准教授の伊藤乾という方の話には、本質を突いている部分が存在する。https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63975

 

重要な部分をまとめさせてもらう:“日本社会の伝統的な方針決定の方式は、ヤクザの方式とでも言える“トップダウン式”であり、議論でブラッシュアップするというものではなかった。いつまでもこの様では、日本に将来はない”である。(補足1)

 

2)非難されるべきは能力本位の人事が出来ない日本社会である

 

森氏の発言の主旨は、繰り返すが「(4割という)数字にこだわって無理をしない方が良いと言いたかった」である。つまり、女性か男性かよりも、十分な能力のある人材を選ぶべきだというのである。これは真っ当な考えである。

 

日本の社会は、能力のある女性を組織の上層に浮かび上がらせる機能を欠いている。森氏の問題発言とされる部分は、本音を漏らしてしまう老害の結果なのだが、その本質的原因は、上記機能を持たない日本社会と、国際関係を考えてか、女性4割という方針に固執する政府文科省に由来する。

 

繰り返しになるが、批判されるべきは、日本社会及び日本政府である。能力のある女性を社会の表舞台(或いは上層)に浮かび上がらせる機能を、自然なメカニズムとして日本社会が持たないこと、そしてその社会の改革を、これまで日本の社会及び政府が行って来なかったことである。

 

森氏が言った「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という発言は、森氏から見て、女性役員が、本質的でない議論を長々として困るというのだろう。それが本当であれば、これまで森氏が関係してきた組織において、無能な女性を数合わせのために組織の役員にしてきたのか、逆に男性の役員が無能で、ボスである森氏に唯々諾々の姿勢であったのか何方かだろう。(補足2)

 

その問題は、男女差別の問題ではなく、日本社会の各組織が、能力本位で役員などを選ぶ機能をもっていないことにあるだろう。

 

3)日本社会は西欧文化を消化不良のまま取り入れ、それに気づいていない

 

西欧社会の特徴は、日本と比較して個人が自立している点である。自立した個人と個人は、言葉で自分の意思を主張する。その中で、物事に対するより良い理解と問題に対する対策を考える。近代日本は、その論理を重視する姿勢を西欧から輸入して、自立した個人が形成する社会にふさわしい、「人権と法治」を社会の根幹に置くこととなった。(補足3)

 

しかし、それは現在の日本社会では猿真似状態である。日本の多くの公的組織はその機能とは関係の薄い個人的繋がりで組み上げられ、自立した“個人と法と論理”で組み上げられていない。その証拠に、政界や芸能界での地位まで、相続で手に入れている人が多い。そして、その特徴は私的組織である株式会社等にも見られる。それが、日本の低迷の30年の原因の一つであると以前指摘した。(補足4)

 

今朝のTV番組(グッドラック)で、誰かが「IOC会長のバッハ氏と直ぐに話ができるのは森氏だけであるとか、関係都道府県との調整の場面で、直ぐに知事と話が出来るのは森氏だけだ」という話をしていた。

 

勿論、具体的な話の前に、人間関係の形成は大事ではある。しかし、それは問題に対する「共通認識の樹立」の段階の話であり、それを言葉を用いて成し遂げる能力があれば、その後の交渉は誰でも良い筈である。

 

日本の問題点は、議論や討論のまえに、当事者間に上下関係が存在することである。勿論、組織上の上下関係は、例えば国家間の話では大事である。つまり、日本の外務大臣と話を詰めるのは、例えば米国の国務長官が妥当である。

 

国家とその各組織は、機能体である。(補足5)従って、国家と国家の交渉においても、国内での議論においても、機能体としての上下関係は勿論重要である。その機能体での上下関係を、人格的にはフラットな関係のままで達成しなければならない。

 

しかし、儒教で想定する社会は、共同体のみであり、機能体組織の考え方がない。日本社会には、組織を背負う前に、上下関係を設定してしまうという、その悪しき儒教社会の遺物が存在する。

 

(16時20分、一部修正)

 

補足:

 

1)ただ伊藤氏のそれに続く議論は、冗長であり明確な結論に結びついていない。男女は同じ生き物か?という表題で、女性と男性は元々生物学的に異なるという原点から出発するセクションは、設定が面白いのだが、あまり有用には思えなかった。森氏の発言は、「女性蔑視ではなく、女性差別だ」というのも、私には論拠を欠いていると思う。森氏の発言は、「少なくとも女性4割」という男性差別に対する反論だという考え方もある。そのように感じたのが、この文章をかくもう一つの動機となった。

 

2)森喜朗氏は元日本国の総理大臣である。森氏以降の総理大臣と比較して、優秀だったと記憶している。従って、森氏が愚鈍だったとする場合の議論はここでは省略する。

 

3)この個人の独立であるが、勿論相対的な比較である。人間が社会を作って生きる以上、個人の独立は一部返上する。

 

4)「日本の生産性をだめにした5つの大問題について」という米国在住の方の指摘を俎上にあげて、議論した。組織を専門化して高度化することが、十分機能体組織化していない日本の会社では出来て居ないという指摘である。尚、機能体組織と共同体組織は概念で峻別されても、人間社会の組織はそれらの中間的性質を持つ。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12564206453.html

 

5)国は共同体である。主権国家体制の国際関係において、国が滅んでしまえば、その旧国民は違法難民状態となり、原理的には生存根拠を失う。現在でも国を持たない人々は、虐殺の対象になっている。また、国家(行政機関のこと)という組織は、機能体組織であるべきである。多くの専門家が高度になった各専門を担当し、各専門組織の構成員の間には、意思の疎通がなければならない。理想的には動物の各細胞のような、共同体でありながら、高度な機能体を構成しなければならない。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12588961158.html

 

 

最近、ハーバード大学の教授が第二次大戦中の慰安婦は、売春婦だったという主旨の論文を、International review of law and economicsという学術誌に掲載するという話が、話題になっている。韓国では猛ブーイングが起こっているようだ。この件、産経新聞なども報じているが、韓国中央日報の日本語版サイトの記事を以下に示す。

https://news.yahoo.co.jp/articles/bbdf26c14d987da8a3359bc53ae5421ceaa72be3

 

私は、慰安婦問題はかなり深く考えたつもりである。その結果、韓国の朴裕河氏の「帝国の慰安婦」という本が、その理解には良い本であると評価している。それもあり、朴裕河教授の英語のブログ記事を、特に著作権の主張がされていなかったので、日本語に翻訳してブログに掲載したことがある。

https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466515855.html

 

朴裕河教授の本によれば、慰安婦を単に戦時売春婦と理解することは不十分であり、日本帝国のために兵士とともに戦った女性という把握が正しいということになる。

 

因みに、この問題が大きく政治問題化したのは、吉田清治という男が、済州島で慰安婦となって働く女性を拉致したという内容の本を書き、それを朝日新聞の本田勝一という記者が記事にし、朝日新聞社が同紙の掲載にしたからである。

 

この“私の戦争犯罪 ”という本だが、戸籍上の本人は殺害され、別人が吉田清治を名乗って書いたという説がある。所謂「背乗り」である。

 

ここで、2014年に書いた姉妹サイト掲載の記事がある。同年春に、慰安婦の件で嘘の記事を書いた元朝日新聞の記者の植村隆氏が、北星学園大学という大学で「国際交流」に関して講義をしていることに怒った人が、その大学を脅迫した事件があった。大学は、学問の自由を理解せず、早急な対策を取れなかったという話である。似た話が、愛知県で開催された「表現の不自由展」でもあった。

 

昨日、この完全に忘れていた記事に1件の閲覧があったので、読み返したところ、このサイトでも投稿しておくに値すると考えた。(この文章、既にグーグルで検索することも殆ど不可能な状態なので、どのようにして閲覧されたのか不思議である。)

 

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北星学園大学強迫事件について大学がとるべき対応(再録) 

 

 朝日新聞元記者で、従軍慰安婦の件で誤った記事を書いた人が、北星学院大学で非常勤講師として学生に歴史を教えているという。それに不満を抱いた者が、その元記者を首にしなければ、大学の学生を傷つけると大学を強迫した。http://ja.wikipedia.org/wiki/北星学園大学脅迫事件

 

 今夜のNHKニュースによると、大学の自治或いは学問の自由という観点から、この強迫に屈するべきではないとの意見があるものの、大学は警備を強化するための予算が嵩み、経営上困っているという。

 

 この件について、大学の方々は学問の自由の観点から、強迫に屈するべきではないとの意見が全国から寄せられているという。しかし、私はこのような意見を持つ方々は学問の自由という意味がわかっていないのではないかと思う。

 

 つまり、この大学の方々は、学問の自由という観点から、従軍慰安婦問題についてその人が書いた記事を正しいと考えて、その考えや思想をまもりたいのだろうか?(注釈1) もしそうでないのなら、その非常勤講師の、或いは、大学の研究や研究上の思想の何処に政治的圧力がかかっているのか?

 

 これらの質問にはまともに答えられないだろう。つまり、その方を雇用するかしないかは学問の自由と何ら関係のないことなのだ。

 

 学生の安全を確保するのは大学の義務である。また、強迫は犯罪であるから、警察は全力で捜査し、出来るだけ早急に犯人を逮捕すべきである。しかし、警察が強迫した者を逮捕するまでは、緊急避難としてその非常勤講師を解雇しても何ら問題はない。

 

 例えば、熊がキャンパスにくるので、講義を中止し学生を一時非難させることは学問の自由と何ら関係がないのだ。もしその講師を、インチキ記事を書いた経歴はあるものの、学者或いは教育者として評価するのなら、犯人逮捕後再度雇用すれば良い。

 

注釈:

 

1)”学問の自由を護ること”とは、研究者の研究(&発表)の方向が、政治的圧力の影響を受けないようにすることである。この場合、研究者やそのグループに対して、真実に最高の価値を置くという善意の仮定がある。つまり、政治的意図をもって捏造記事を書いた人については、この仮定は成立しない。従って、その人の学者としての地位を、その件に関して総括或いは処分が未定の状態で、学問の自由の名の下に護ることは学問の自由にむしろ反することである。

 

更に追加:「OさんのST細胞捏造が明らかになったのだから、早く首にしないとR研職員が怪我をすることになるぞ」と強迫があったとする。その場合、兎に角急いでOさんを首にするとR研理事長が言ったとしても、学問の自由を盾に反対できない。そもそも、Oさんに学問の自由を訴える資格はないからである。

 

ーーーー(再録終わり)ーーーー

 

追補:

 

1.この事件の当事者である当時北星大学講師だった植村隆氏の記事は、慰安婦問題に関係して捏造記事を書いた。この詳細は、ウィキペディアの植村隆の項目にある。

 

2.この件に関して、アジア太平洋資料センターというNPO法人が、この問題に関する学習会を開いている。そのパンフレットにある文章を紹介する。

 

植村さんの講座は留学生対象の「国際交流」で、慰安婦問題ではありません。学生が何を学ぶか、大学が誰を講師にし、何を教えるかは、学問の自由、大学の自治です。北星学園大学だけに限らず、神戸や大阪の二つの大学でも同様の問題が起きました。これは自由と民主主義に対する攻撃といえます。

http://www.parc-jp.org/freeschool/event/150614.html

 

植村氏に国際交流に関して大学で教育する自由はない。それが分かっていない上記法人は、学問の自由を盾に、プロパガンダを行っているのである。

 

何時になったら植村隆氏に、国際交流という分野で「学問の自由」が主張できるのか? それは、「強盗犯が何時になったら、警察官になれるか?」という問題と相似的である。