森羅万象を貫くひとすじのひかり 〜新嘗祭と新しい世界 | かんながら

かんながら

旅の記録です

新嘗祭。

前日の鎮魂祭の日に不思議となにかが「抜けた」感じがあった。

今年の鎮魂祭は何かが違ったと思う。

 

新しい時代のはじまり、を感じた。

なんかわたしに刺さっている楔が抜けたっていうような不思議な感覚。

 

 

image

 

新嘗祭には、野菜の船が奉納されるって最初に聞いたときは、どんな船なんだろうって思ったけど、

毎年見ててやっぱりすごいなって思う。

 

こういうのをみていると、日本だなって思う。

 

image

 

今年の秋は、紅葉がきれいだった。

急に寒くなって、湿度もあって、たぶん、2年も人が少ない時期があって、

自然も力を取り戻したから。

 

でもあっという間だと思う。

もう森の木々は敏感にこの人の流れを察知しているようにかんじるし、

街にはまた以前のようにゴミが増えた。

 

 

休日の翌朝の街のゴミの多さを見ると悲しくなる。

昼間は目立つ姿をしたボランティアの人たちがいるけど、

朝のゴミの多さは昼間とは比べものにならない。

 

 

ゴミは、持ち帰りの飲食店やコンビニのものなのだから、

その出どころのコンビニや飲食店が片付けるのが筋だと思うが、コンビニにはゴミ箱すらない。

 

 

「食べ歩き」って本当にやめてほしい。

観光の目的に「食べ歩き」を入れるんだったら、ゴミの片付けの予算も織り込むべきだ。

 

っていうか、

そもそも「食べ歩き」って、「歩きながら食べる」ことを言うんじゃなかったはずなだけどな。

 

 

 

旅番組や情報番組などで、「食べ歩き」を「歩きながら食べること」の意味で使うことがあるようです。

しかし、「食べ歩き」は、本来は「土地の名物料理やめずらしい食べ物などをあちこち食べてまわること」(『日本国語大辞典』)の意味で使うことばです。

放送を聞いている人が誤解しないように、少なくともニュースなどでは、このような使い方は避けたほうがよいでしょう。

 

 

ほらね。

日本語がおかしいっていうか、この価値観作っているのが、もはや日本人ではないってことだよね。

 

美しい日本を取り戻そうよ。

外国人だけじゃなくて、すでに日本人が忘れてしまってる日本人としての振る舞いがあるような気がする。

 

image

 

冬らしい日が増えてきて、もやがかかったりとか。

 

image

 

若いおともだちが誘ってくれて、KINOSHITA。

 

わたし自身が気持ちがのらない約束があって、わたしは嫌々行っていたが、2度連続でドタキャンされた。

約束の相手に世話になったからっていうのと、「ドタキャンは時間の泥棒」って考えが内観にはあるから、どうしても「しなきゃ」と思っていた。

 

でも、若い友だちに

「美志摩さんが嫌なら美志摩さんがドタキャンすればいいんですよ!」

って言われて目が覚めた。

 

相手だって、優先順位が低いからドタキャンしているのであろうし、元々やりたくてしているわけではないのだからその通りだなって思った。

 

会社に文句をいいながら「自分が行かなければ」って言ってる人や、

パートナーの愚痴を言い続けて結局離婚しない人たちを冷ややかに見ている自分がいたが、

自分自身も同じことをしてたんだなって気づいた。

 

一度思い知って、自分はできているつもりでいても、何度も揺れ戻しは起きるし、

自分が同じ穴の狢(むじな)だってことで、周りの人たちが教えてくれる。

 

image

 

築地に海苔を買いにいくついでの、旧暦11月1日は銀座の三輪神社。

 

奈良の大神神社からの勧請。

 

1が3つ。

みはしら たつ 日。

 

 

ミシマは鳥居から出たよ。

だって、上空いてるんだもん。

 

京都の木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社にある三柱の鳥居の方は楔みたいな感じだったけど、

こちらはビルの上ということもあって、オープンな感じで、もはや「自由に天を舞ってます」という様子。

 

image

 

表参道のアニベルセルのカフェがティファニーになってた。

 

ちょうど地方にいるおともだちから、テレビで東京のイルミネーションを見るたびに東京に行ってみたいって言われて、はっとする。

東京って賑やかなんだな。

人のいるところを出歩かないからわかんなかった。

 

たしかに、テレビの中の景色がここにある。

わたしは、舞台の中に暮らしているようなものなのかもしれないな。

 

 

 

 

不思議なことに、大神島の人たちからも、伊勢平氏おじさんからも連絡があって、

なんでかなと思ったら、11月1日だったからみたい。

 

ミシマの3。

ずっと三角の山もきていたしね。

 

 

三角の山を、海の民は、目じるしにしていた。

そろそろ、ちゃんとした目標を立てるときが来ているってことなのかもね(謎)。

 

伊勢平氏おじさんが「おもしろかった」と勧めてきたのは、ロレンスの黙示録論。

まだ全部読めていないけど主題は、「愛するということ」のようである。

 

「愛という言葉は日本にはなかった」と言って、「隣人を愛せ」とはどういう意味かとわたしに聞いてきたことがある。

わたしはわたしの言葉で説明しても満足しないのはわかっていたので、大好きなひろさちや先生の「お大切」という言葉で解説した。

 

ロレンスは「自立」を説いているみたいで、それはわたし自身がずっとテーマにしてきたことでもある。

 

どうも自立っていうと、経済的な自立とか、精神的な自立を「自立」って思う人がいるけど、わたしはそれは真理ではないと思う。だって、それは例外が必ずあるし。

経済的な自立は全ての人ができるわけではないし、精神的な自立もしかり。

 

 

経済とか精神とかは、自立の形の一つに過ぎなくて、本質的なものは別なものだと思う。

 

 

この新月の時期、朝目覚めたときに、

真理とは、森羅万象を貫くひとすじのひかりである」ってきて、

ほんの少し曲がることも、たったひとつの例外もないってことだってわかった。

 

 

宇宙の法則に例外があったら、法則じゃないものね。

 

森羅万象を貫くひとすじのひかり=法則。

 

もっとシンプルに考えていいんじゃないかな。

そもそも「自立」っていうのは、「自立」でしょ。

「自ずから立っている」

 

動物にも、植物にも、人間にも当てはまるもの。

 

 

わたしがこの世で力を持つための極意は、

「自分の現実に責任を取る」

ってことだって思って、それを教えてきたけど、それじゃない?

 

 

木も、動物も、置かれた境遇に文句をいって立ち止まっているってことはしない。

 

木は動かずに環境に適応していく。

もしくは枯れる。

 

動物は足があるから命の限り逃げる。

 

 

人間だけが文句を言いながらその場にいとどまる。

愛するって、自分も相手も大切に、自由にしてあげることなのだと思うよ。

 

 

相手の感情をありのままうけとめる。

 

自分のエゴが粉々になるから難しいけど、

自然はいつも人間のわがままを黙って叶えてくれ、

そして、自然っていうのはそうして消費されていく。

 

 

で、今この状況がある。

 

image

 

私たちが愛するってことを本当に思い出せたら、この世界はまた息を吹き返す。

 

自然も、人も。

コロナでみなが自粛して、ソーシャルディスタンスをとってくれたおかげで、

自然はこんなにも美しさを取り戻した。

 

 

秩父の武甲山をはじめ、日本中の御神体山が、無惨な姿になっているのをみるのは悲しい。

 

かつての日本は、自然に手をいれて里山をつくり、自然と人とが調和してやっていけるように知恵を思いを土地にかけた。

自然の声を聞き、人の手をいれることによって、自然のままよりも、美しく豊かになるということを、日本人は庭や里山で示してきた。

 

 

image

 

伊勢平氏おじさんと会ったときに、腕時計のガラスにヒビが入って修理に。

夏に壊れてそのままにしていた祖父の形見の金貨のペンダントヘッドも。

 

並べてみてふと、そういえばほとんどのジュエリー類が伊勢平氏おじさんと会っているときに壊れたと気づいた。

 

 

エネルギーが合わないってことなんだなって思ったけど、

伊勢平氏おじさんは「キミに入ってる悪いものが」みたいなことを言っていた。

 

 

仮にそうであってもモノが壊れない方がいいよ。

大体の人たちはそれを持っててなにも起きていないわけなんだから。

 

 

祓うってどうなんだろ。
これから最大の正念場の年末の大祓がやってくる。
 
繰り返しになるけど、「自分の現実に責任を取る」ってことが、自分の聖なる力を引き出す極意だよ。
祓っているうちは、その力は誰かに奪われているからね。
 
 
まあ、力を持つに相応しくない人がその力を持つより、ふさわしい方に集める方がいいなって思うことはあるけどね。
日本には「王(おおきみ)」がいたわけだから。
 
 
わたしにとって王とは、人の声を聞くのではなく、自然の声を聞ける人であり、
森羅万象を貫くひとすじのひかりを見出せる人
 

 

そろそろ大祓もやめてほしい。

自分の罪穢れ、海に流されて、自然界の方は本当に迷惑。

アマビエも告げにきてたけど、「海が汚れてるので出さないでもらいたい」って言われているよ。

 

 

だって、日本に散見される御神体山の悲しい姿を見ればわかると思うけど、

神社には自然の声を聞いて、対処する能力がもうなくなってきているわけ。

 

 

日本に特別な力があったとするなら、自然の声を聞きながらその力をうまく使ってきたことだと思う。
単に消費するだけではなく、自然に寄り添う形で。

 

 

image

 

コロナがはじまったころ、シュタイナーのいう「境域の守護者」なるものらしき夢をみたけど(リアルすぎる夢)、

そのときのことを思い出したのと、「森羅万象を貫くひとすじのひかり」が必要だなって思って、思い切ってサラ・ブライトマン。

 

修理に持っていったジュエリーショップで聞いたから。

 

image

 

YOSHIKIの演奏もはじめてきいたけど(しかも生出演)、

オペラ座の怪人がすごかった。

 

あれは学生時代だったのかな、劇団四季のオペラ座の怪人。

で、また震災前の記憶がひとつ思い出された。