自分を大切にするように ”神はよみがえる 〜投影の反対のゆくえ” | かんながら

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旅の記録です

今日は、たまたまミッドタウンに行く用事があって、その待ち時間に、正倉院の宝物の展示が観られた。



やっぱりいいな。
縄文が好きだけど、渡来してきた文化を否定する気になれない。
これはやはり日本文化と感じる。


前の記事(沈黙というこたえ 〜口をひらく )で、「見張り」がいるのかも、って書いた。

不思議なことに、藤原氏の関係であろう人から「インタビュー」がきた。
ご本人は「気になったから電話した」っていったけど、まるで取り調べ。
いいんだけどさ。


わたし、秘密ないから。


でも(電話してきたのは)彼の意志じゃなさそう、って思った。だって、聞かれたこと全部、このブログに書いてあるもん。



で、きっと、わたしは今、これを伝えなきゃいけない。
ちょうどもうすぐ1年、「同じところにいる」って気がついたから。


インタビューでも話したけど、
「わたしは、どの人も平らかで同じにみえるけど、魚も、石も、木々も、同じように平らかにみえるんです」。



一部の人たちが、他の人と「違う」と主張して搾取していたら「違う」と思う。
全体にとって、人間の暴走が迷惑だったら、人間はいらない、って思う。


わたしたちが、自分を大切にするように、他者に接しなければ、それは、自分に返ってくる。


あなたの世界は、あなたといつも不可分。
わたしの世界は、あなたと共有している。


だから、一蓮托生。


敵も、味方もない。
敵があなたにある限り、あなたは脅かされる。



伊勢平氏おじさんが現れるまで、わたし霊の存在に気づくこともなかった。


ドン・キホーテの話ってよくできている。
あれを喜劇と思うなら、もういいんじゃないかな、そろそろ終わりにしても。







かつて人と神様によって、丹後の海に沈められた神様は、長い時を経て再び世にでてきたのかもしれない。
 
そのときおそらく海に沈められた神様は、「自然」である。
この国には「災害封じ」のための神仏が存在してる。
人間は、自分の犯した罪や穢れを瀬織津姫や気吹戸主みたいな神様に頼んで海に流してもらう。
 
 
海の底に沈められた神様は、
 
「てめーらのゴミはてめーらでなんとかしろ!!」
 
って言っていたんだろうなって想像する。
 
 
瀬織津姫や気吹戸主や、「ノーといえない弱い立場の人たち」が、涙をのんで耐えてくれてるんだから、うるさい神様が黙っていてくれさえいたらいいのに、って海に沈めたのであろう。
 
 
そして、こうるさい神様がいなくなったから、人は自然との不調和に気づかなくなり、ある日大災害が起きて慌てふためくようになったのだ。
 

 

わたしは自然に逆らわない。
自分も自然の一部だし。
自然に挑んだり、封じこめるより、自然と調和してやっていく方が安らいでいられる。
だから、わたしはいわゆる「神様」を必要としていない(シャチの夢 )。
 
 
須佐之男命は自然の神だと思う。
熊野の神もそう。
きっともう自然を神仏の力で封じ込めることはできないと思う。
 
 
そもそも、人間が神仏を使役しようなんてことが間違っていたのだ。
人間に使役されるような神仏があるとしたら、それはもはや神ではないではないか(続・コロナは恩寵 〜 荼枳尼天は悪くない )。