虹の御用? 〜富士山にかかったダブルレインボー | かんながら

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旅の記録です

昨日の記事(いのちをありがとう)を振り返っていて、はたと思いあたった。
 
ちょうど、ターニングポイントはくくりの日(9月9日)あたりだ。
 
 

リブログ先で(そして、くくりの日。 〜富士山へ)その様子を(あまりにもうれしくて)詳細にレポートしているが、昨年9月9日の神事のあとには、富士山にダブルレインボーがかかった。

 

 

この間は久美浜・かぶと山の熊野本宮にお詣りしたら小天橋に虹がかかった。
 
 
虹って、いろんなシンボルだよな。
虹の旗は、ゲイ・レズビアンのコミュニティのサインだよって教わったのも25年くらい前。
わたしのまわりには、どっちもいて、彼らからは「恋愛対象外」の友だち。
 
虹がシンボルの南アフリカにいたのもその頃。
 
 
わたしはたしかに女だし、女のつもりだけど、白山のサルタヒコには「みえないチンチンがついてる」って言われるし。歴代の元ダンナたちにもいわれたな「男」って(もしくは中性)。会社員時代も「男前」とか「市じゃないほうのアネ=姐)っていわれていたし。
 
今はLGBTっていうらしい。相談のときLGBTって言われて一瞬「なに?」って思った。
隠すことなんだ。
 
なんか、それって社会がおかしくない?
言葉を変えても(社会の)意識が変わらないと、偏見はなくならないと思う。
 
 
「障害者」もそうだけど、文字を変えれば差別はなくなったことになるのかな。
わたしは、家族が「障害者」の立場からいうけど、「障碍」とか「障がい」って置き換えて済まそうってところの意識の方に偏見や差別があるようにおもう。
 
当事者の問題ではない。
周りの問題。
 
 
だって、障害あるんだもの。
大変だよ、障害を持って生きていくのは。
 
足が不自由とか、耳が不自由とか。
それくらい、健康ってありがたくって、それを持たされたひとたちは、自分のしあわせに気づかせてくれるありがたい存在なんだもの。
 
 
だから、島では、生まれが高いって、大事にした。
 
実際、苦しみの中で生きると、普通の人が気づかないことに気づける。
 
「普通じゃない」って素晴らしいことなんだけどな。
 
 
ゲイやレズビアンに偏見や差別があるのは、今まで無意識にすりこまれてきた「結婚」や「家族」の枠組みが壊れるからなだけ。
「家族」はもうはっきり言って、呪咀のレベルだと思う。
 
もちろん、それでしあわせな人はそれでいい。
でも、そこからはずれた人を攻撃しなくていい。
 
 
 
でも、「家族のため」でいのちに障りがあるくらい「滅私奉公」してしまうのは、本当に「家族のため」なのか?
 
「家族のため」は、誰かがあなたを動かすための、呪咀かもしれないよ。

 

 
 
 
 

 

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(追記あり)安曇の庭に誘われて(安曇野から丹後へ その9) 〜 ホンモノの天橋立?久美浜 編