五ヶ所アゲイン(追記あり) | かんながら

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旅の記録です

からのつづき。

 

 

火の鳥に乗った。

確か今年の春ごろデビューした近鉄特急。

なにわの審神者(さにわ)が、初日に乗れ!って言っていた。

もちろん乗らなかったが。

 

名古屋での乗り換え時間は4分。

いける時にはいける。しかも、プレミアムシートは残1。

 

間に合った。席に座ったら発車してた。

 

 

 

今日のタイムズカーシェアは、津。

ああ、墓参りして行こう。わたしの伊勢平氏の血の原点。

ひきが強すぎるわたしの4分の1しかないはずの伊勢の血。

最初の夫の家の墓も遠く離れた場所で知り合ったというのに道挟んで反対側。

 

先祖の引き合わせでないとするならなんなんだ。

 

ついででごめん。

だってお墓にはいないんだもの。

子どもの時から漠然とそう思ってた。

だから墓参りを大事な行事とは思っていなかった。

 

 

 

クルマを借りて、朝ほど資料で見た八竈八幡神社に向かおうと思うも、なんとなく誰もいないような気もする。

そしてなんだか他のところに行った方がいいような気がする。

なにわの審神者(さにわ)からちょうど電話がきた。

 

「どこに行こう?観光協会に聞いたら、愛洲の館ならわかるかも、って言われたんだけど」

「そこやろ」

 

そう促されて車に乗る。

 

 彼も行ったことがあるらしい。

わたしも昨年のちょうど今頃行ったが反応は薄かった。

五ヶ所は祖父と何度も来たし、近くの浜島で毎夏を過ごすのが定番だった。

 

でも、昨年は、「まだ」、という感じだけがしたのだった。

 

 

 

竈方、というのは、塩を作る人たちだ。

平家の子孫。

薪をきって塩を炊く。

 

太閤検地までは、その薪木を山から切り出し、なくなると移動した、らしい。

遊牧民と同じように土地に執着しない人たちだったのだ。

 

南伊勢町相賀(おおか)浦の大賀(おおか)神社宮司であった村田米吉氏がまとめられた「三重県郷土資料叢書第三集 南伊勢竈方古文書資料集」を基に、「愛洲の館」の中村さんがまとめてくださったものを見せていただいた。

そこには、

 

平氏の一族が壇ノ浦に滅亡した以前に、一ノ谷の合戦で平維盛(これもり)は、熊野に落ち延びた。維盛には妾腹の子どもがあり、その名は岸上行宏(きしのうえゆきひろ)といった。この人物こそ竈方の祖に当たる人で、父維盛とともに、熊野に入り、父と別れてからは新宮川上流の河合郷に隠れ、その子孫3代80年間その地に居住した。

行宏の孫にあたる行盛は、晩年に南伊勢町船越に一族と共に居住し、ここに7代120年間居住して木地屋となり、あるいは塩焼きを始めて生活しているうちに、南北朝の動乱となり、南朝方愛洲氏の傘下で転職して武功をたて、北畠国司から恩賞として竈山を拝領したと伝えられる。

 

そして、塩は大湊や名古屋にはこばれて売られた。知多の「野間船」が多く出入りしていた。

 

竈方は平時は塩焼きを営みながら、戦の時には甲冑をつけて箭弓をとった。

船越集落には、弓ひき神事というものが含まれる祭りが今でもある。

 

とある。

 

箭弓稲荷神社(初午は、箭弓(やきゅう)稲荷神社へ (追記あり))とつながっていくのか。
埼玉県東松山市の箭弓稲荷神社の印が来なければ、わたしは伊勢平氏が関東からきたとは知らないままだった。
そして亀戸天神にいくことがなければ、(亀戸天神の招き 〜日本武尊と平将門、そしてクマ)藤原秀郷(俵藤太)の末裔にも会うことはきっとなかった。そちらは、本当に偶然に、だったのだけれど。
見えない世界は不思議なことだらけだ。
 
今回だって、このタイミングで、竈方の末裔のOLさん(播磨国から徒然幕末日記)と繋がったのだから不思議でならない。
(参考:八ヶ竈八幡宮
 
 
再会したヨギの治療師は、わたしのことを「目に見えないものに捉われている」と言って、「早く山から降りてきなよ」としきりにいう。
 
山から降りていないから、スルーできることがあるってことに彼は気づいているのだろうか。
わたしは元来、物わかりのいい女ではないので、山から降りてきたら曖昧なことは許せない、と思う。
わたしは、現実をすごくシビアに生きてきたのだ、白か黒。わたしにはグレーなど存在しない。
結果にこだわり、なぜかいいよってくる大先生にいわれるまでもなく、豹のように生きてきた。
そういう生き方に疲れたから、奇跡のコース(A Course in Miracles)の生き方を選択し、見えない世界に生きることに決めたのだ。
 

 


 

 

興味深い民話もある。「牛鬼太鼓」の牛鬼。

 

志摩きらり千選より引用)

五ヶ所浦の切間の谷に一つの洞穴かある。ここに牛鬼という変わったものが住んでいた。首から上は牛の頭をし、人間のようにものを言い、一日に千里も走る通力を持った強鬼だったという。
この牛鬼は、よく西山にでてきて、五ヶ所城の殿様(愛州重明公)が城中で弓の稽古をするのを眺めていた。ところが、弓自慢の殿様が、あろうことか、ある日、その矢を牛鬼めがけて放してしまった。矢は、牛鬼の胸元へ当り、牛鬼は西山の下の畑へ真っさかさまに転げ落ちた。
このときの牛鬼の鳴き声はすさまじく、その上、真っ黒な煙がもうもうと立ち上がった。その煙にむせんだ城主の奥方は毒気にあてられ、なおらぬ業病を患うことになった。そのため、親元の北畠家へ養生という口実で帰され、あとから離縁を申し送られ、奥方はそれを悲しんで自害してしまった。
この非道を怒った北畠家は、ついに軍を起こし、とうとう愛州家は滅亡してしまった。この牛鬼というのは、もともと五ヶ所城の主だったそうで、死際に、「自分を助けておけば、この城は末長く繁昌するものを」と言い残したという。
(江戸時代『勢摩軍記』)

 

牛鬼ってなんなんだろう。頭が牛って牛頭だよね。

牛頭天王。

それを弓で撃った?

スサノヲを殺したの?

 

 

愛洲の館の裏には八幡宮。

磐座のある、島の香りのする素敵な場所。

 

 

 

 

 

 

 

おじさんの先祖がいたのは、船越というところみたい。

なんとこの日の愛洲の館の係の方の集落。

 

初め、「平家のことを調べている」って言っても「わからない」っていわれたのに。

この方が見つけてくださった資料に、「船越」って書いてあって、

 

「岸上は、船越にいたみたいです」

って言ったら、「知らなかった」と驚かれた。

そして、「こういう時期だから」と笑った。

 

 

そう、あなたの住む場所のことを、知って欲しい、と願っているんだと思う。

そして、あなたもそれを知りたかったはず。

だからこそ、この資料館に、縁あって来られることになったのだろうから。

神々が目覚める、というのは、個々の人々が自分の内にある、「永遠の今」に気づくことなのだと思う。

 

 

お彼岸だから。

 

もうじき、人々の(リアルな)記憶から消えてしまいそうな、彼らのストーリーを、「縁あるものたちに伝えたい」と先祖は言っている。

 

というか、今生きている私たちが、それを必要としている。

わたしたちの今は、とても危うい。

コロナもあって、繋がりが絶たれ、孤立して、わたしたちは、今とても弱っている。

 

 

過去との繋がりは、必要なのだ。それは過去にとらわれるのとは違う。

 

 

「現在」「過去」「未来」、全ては今ここに同時に存在している。

過去の中に今があり、未来がある。

過去に生きていた人たちを今の自分につなげることは、今の自分の力を強める。

そしてそれは、未来へ投げかける波動になる。

 

投影の始まり。

わたしの内なる自己が、外の世界へ、理想を投げかけることから、未来は生み出される。

 

 

 

 

船越集落の八幡宮。

 

 

雨の予報だったが青空が見えた。

 

おじいちゃん、わたし、おじいちゃんと何度もきた五ヶ所にまた来たよ。

あの頃のおじいちゃんが、そうしたように、わたしも長い時間をかけてここにたどり着いた。

生きていた頃のおじいちゃんよりも、年長のおじさんの見えないガイドによって。

 

おじいちゃんが差し向けたの?

おじさんは、自分からハグしてきたくせに、「あなたのおじいさんがそうした」と言っていたけど。

 

 

 

 

 

(つづく)

 

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