そして鱒の心の距離。
一 (とても近い)から七(とても離れている)までの七段階の自己評価によると、二つのグループは、父と最年長のキョウダイとで差が現れた。
父とは平均で、 男性異性愛者一3・2に対し、男性同性愛者一4・O。
最年長のキョウダイとは平均で、 男性異性愛者一2・9に対し、男性同性愛者一3・8. 同性愛グループの方が心の距離がある。
男性同性愛者は、自分に対して抑圧的な存在と考えられる、父と最年長のキョウダイとの間に心の距離がよりあるようである。
結局のところ、男性同性愛者は男性異性愛者と比べ、家族との交流が少なく、お金もあまりあげず、心も離れている傾向にあると言えそうだ。
しかし工業化以前の社会なら、簡単に故郷を捨てるわけにはいかず、家族を始めとする血縁者とは、好む、好まざるに関係なく、つきあわなければならなかっただろう。
物心両面での援助をせざるを得なかったに違いない。
つまり現代社会では、そういう縛りがなく、異性愛者、同性愛者双方が持っている、本来の性質がより鮮明に引き出されていると考えられるのだ。
さらに地理的に離れていることは、現代では血縁者との交流やお金の流れを妨げるものではない。
今や、人は地球の裏側からでも家族に電話したり、送金することができる。
やろうと思えば簡単なこと。
たとえば、異性愛者でも最近多くの人が知るようになってきた「新宿二丁目」。
新宿駅から東にIキロも行かないほどのところに、ゲイーバーや、数は少ないがレズビアンーバー、さらに同性愛者向けのグッズや書籍などの商品を販売する店やダンスクラブなど、全部で三〇〇軒ほどの同性愛者向けの店舗が、数百メートル四方の区画にひしめきあっている。
いまや「新宿二丁目」の「新宿」を取ってしまって「二丁目」というだけで通じてしまうほど、「ゲイの街」として象徴化されてしまっている。
著名な世界の旅行ガイドにも「Nichome」として取り上げられており、世界でも有数の「ゲイタウン」と説明されているほどだ。
日本の同性愛者にとって、とりわけゲイ男性にとって「新宿二丁目」は、ある種のゲイ文化の中心的な発信地としての意味をもち、出会いの場のひとつとしての機能も果たしている。
しかし、昼夜にかかわらず「生活の場」として機能する(と思われる)欧米の大都市の同性愛者コミュニティのことを考えると、「新宿二丁目」をそれと同じコミュニティであるということができるのか、いささか心もとない。
むしろここでは、「コミュニティ」があるかないかということではなく、「コミュニティ」を可能にする条件はどのようなものか、さらにそうした条件のもとで、同性愛者たちはどのように行動し、生きているのかを示すことが大切なのかもしれない。
同性愛者として承認し合える場をとおして、同性愛者たちは他の同性愛者と出会い、語り、さまざまな行為をし、関係をつくり、それを維持して生活している。
このことはどこの世界でもたしかなことであり、とくにそうしたあり方をこれから見ていくことにしたい。
「出会い」の媒体 同性愛者は、自分のセクシュアリティに気づいたとき、それを否定的に考えて、悩んだり、自らのセクシュアリティについては隠しておかなければならないと考えることが多い。
遺体の身元が母親の届出によって判明し、被害者の氏名がすでに報道されていた。
そのため、ゲイの集まる公園で殺されたことや加害者が同性愛者を狙っていたことについて触れてしまうと、被害者が同性愛者ではないかという推測を生み、故人および遺族の名誉を傷つけると考えられたのではないだろうか。
被害者が殺害されてしまった以上、被害者の性的指向を確認することはできない。
にもかかわらず、被害者の性的な側面を過度に強調する報道は、確かに被害者や遺族に対する「二次被害」をもたらすものであるといえるだろう。
そうであるとすれば、ヘイトクライムであることに触れなかった報道は、被害者のプライバシーを尊重するためになされたのかもしれない。
しかし、加害者が男性同性愛者をターゲットにしていたことと、被害者がそうであるかどうかはまったく別のことである。
被害者が実際に同性愛者かどうかという個人的側面に焦点を合わせるのではなく、かといって頻発する少年犯罪として一般化するのでもなく、むしろ加害者が同性愛者という社会集団をどのように認識してヘイトクライムを起こしたのか、そこにこそメディアは焦点をあてるべきではなかったろうか。
このようなとらえ方に日本で公然と異議が申し立てられるようになったのは、一九七〇年前後のことである。
この動きには、二つの潮流があった。
ひとつは、学生運動の影響を受けた男性の同性愛者である東郷健によるものであり、もうひとつは、ウーマンリブ(女性解放運動)に参加したレズビアンたちによるものである。
一九七一年に、同性愛者であることを明らかにし、参議院選挙に全国区から立候補した東郷健は、著書『雑民の論理』のなかで、自らの考えをつぎのように記している。
「ホモは、j自分たちを束縛している社会常識を受け入れるべきでなく、常識で自分を見るこ Iとを拒否し、堂々と自分がホヽモであることを認め、自分の立場に即したところで、自分を解放しなければならないう一方、常識の側にある人々は、真の人間性から自分を疎外している常識というものを、掘り崩していかなければならない。
」こ一二頁) 東郷の最初の選挙運動は、二万票を獲得したものの、落選によって幕を閉じた。
その後も東郷は、「常識」にとらわれている同性愛者、そして「常識」の側にある人々への訴えかけを、衆参両議院選挙や都知事選挙へのI〇回以上の立候補をつうじておこなった。
その主張は、同性愛を「隠花植物」とみなしていた同性愛者にとって、また異性愛を前提とする社会にとっても十分に刺激的なものであった。
続けて、『ハイトーレポート』に、「同性愛、同性愛者に対する偏見は根拠がないんだと〔記されています〕。
根拠がないけれども偏見があるので、では実際どういう意識を持っているかを調べてみよう」という記述があったことを記憶しているかと問われた所長は、「とにかく膨大な資料ですので、いちいち正確には記憶していません」と答えている。
これらから言えるのは、つぎのようなことではないだろうか。
所長は、辞典等を調べる以前から同性愛について否定的な認識をもっており、同性愛について書物で調べたのは、こうした認識の裏づけを得るためであった、ということである。
同性愛について、肯定的に記されていた内容については目がいかず、否定的な記述のみに目がいったということは、無垢な状態でこれらの書物の頁を開いたというよりも、すでにあった自らの同性愛についての認識を補強するために、これらの書物にあたったとは言えないだろうか。
確かに所長だけでなく、教育委員会も同性愛について正確な知識を得やすい状況でなかったというのは事実かもしれない。
しかし、利用拒否の決定を下した責任を当時の状況に帰することは、結局のところ、拒否の判断をするうえで一定の役割を果たした自らの認識を不問に付すことになるといえるだろう。
高裁判決 東京高裁(矢崎秀一裁判長)は、一九九七年九月ニ八日、東京都の青年の家利用不承認処分を再び違法と判断した。
まず、男女別室ルールにもとづく利用拒否については、つぎのように判決文に記されている。
都教育委員会が、青年の家利用の承認不承認にあたって男女別室宿泊の原則を考慮することは相当であるとしても、〔中略〕同性愛者の使用申込に対しては、同性愛者の特殊性、すなわち右原則をそのまま適用した場合の重大な不利益に十分配慮すべきであるのに、一般的な性的行為に及ぶ可能性があることのみを重視して、同性愛者の宿泊利用を一切拒否したものであって、〔中略〕同性愛者の利用権との調整を図ろうと検討した形跡も窺えないのである。
(『判例タイムズ』九八六号) 判決は、同性愛者が青年の家を利用する権利があることを前提にしたうえで、同性愛者の利用権と男女別室ルールとのあいだで調整を図ろうとせずに、利用を拒絶した東京都の安易な姿勢を批判するものであった。