このようなとらえ方に日本で公然と異議が申し立てられるようになったのは、一九七〇年前後のことである。 この動きには、二つの潮流があった。  ひとつは、学生運動の影響を受けた男性の同性愛者である東郷健によるものであり、もうひとつは、ウーマンリブ(女性解放運動)に参加したレズビアンたちによるものである。  一九七一年に、同性愛者であることを明らかにし、参議院選挙に全国区から立候補した東郷健は、著書『雑民の論理』のなかで、自らの考えをつぎのように記している。 「ホモは、j自分たちを束縛している社会常識を受け入れるべきでなく、常識で自分を見るこ Iとを拒否し、堂々と自分がホヽモであることを認め、自分の立場に即したところで、自分を解放しなければならないう一方、常識の側にある人々は、真の人間性から自分を疎外している常識というものを、掘り崩していかなければならない。 」こ一二頁) 東郷の最初の選挙運動は、二万票を獲得したものの、落選によって幕を閉じた。 その後も東郷は、「常識」にとらわれている同性愛者、そして「常識」の側にある人々への訴えかけを、衆参両議院選挙や都知事選挙へのI〇回以上の立候補をつうじておこなった。 その主張は、同性愛を「隠花植物」とみなしていた同性愛者にとって、また異性愛を前提とする社会にとっても十分に刺激的なものであった。