続けて、『ハイトーレポート』に、「同性愛、同性愛者に対する偏見は根拠がないんだと〔記されています〕。
根拠がないけれども偏見があるので、では実際どういう意識を持っているかを調べてみよう」という記述があったことを記憶しているかと問われた所長は、「とにかく膨大な資料ですので、いちいち正確には記憶していません」と答えている。
これらから言えるのは、つぎのようなことではないだろうか。
所長は、辞典等を調べる以前から同性愛について否定的な認識をもっており、同性愛について書物で調べたのは、こうした認識の裏づけを得るためであった、ということである。
同性愛について、肯定的に記されていた内容については目がいかず、否定的な記述のみに目がいったということは、無垢な状態でこれらの書物の頁を開いたというよりも、すでにあった自らの同性愛についての認識を補強するために、これらの書物にあたったとは言えないだろうか。
確かに所長だけでなく、教育委員会も同性愛について正確な知識を得やすい状況でなかったというのは事実かもしれない。
しかし、利用拒否の決定を下した責任を当時の状況に帰することは、結局のところ、拒否の判断をするうえで一定の役割を果たした自らの認識を不問に付すことになるといえるだろう。
高裁判決 東京高裁(矢崎秀一裁判長)は、一九九七年九月ニ八日、東京都の青年の家利用不承認処分を再び違法と判断した。
まず、男女別室ルールにもとづく利用拒否については、つぎのように判決文に記されている。
都教育委員会が、青年の家利用の承認不承認にあたって男女別室宿泊の原則を考慮することは相当であるとしても、〔中略〕同性愛者の使用申込に対しては、同性愛者の特殊性、すなわち右原則をそのまま適用した場合の重大な不利益に十分配慮すべきであるのに、一般的な性的行為に及ぶ可能性があることのみを重視して、同性愛者の宿泊利用を一切拒否したものであって、〔中略〕同性愛者の利用権との調整を図ろうと検討した形跡も窺えないのである。
(『判例タイムズ』九八六号) 判決は、同性愛者が青年の家を利用する権利があることを前提にしたうえで、同性愛者の利用権と男女別室ルールとのあいだで調整を図ろうとせずに、利用を拒絶した東京都の安易な姿勢を批判するものであった。