たとえば、異性愛者でも最近多くの人が知るようになってきた「新宿二丁目」。 新宿駅から東にIキロも行かないほどのところに、ゲイーバーや、数は少ないがレズビアンーバー、さらに同性愛者向けのグッズや書籍などの商品を販売する店やダンスクラブなど、全部で三〇〇軒ほどの同性愛者向けの店舗が、数百メートル四方の区画にひしめきあっている。 いまや「新宿二丁目」の「新宿」を取ってしまって「二丁目」というだけで通じてしまうほど、「ゲイの街」として象徴化されてしまっている。 著名な世界の旅行ガイドにも「Nichome」として取り上げられており、世界でも有数の「ゲイタウン」と説明されているほどだ。  日本の同性愛者にとって、とりわけゲイ男性にとって「新宿二丁目」は、ある種のゲイ文化の中心的な発信地としての意味をもち、出会いの場のひとつとしての機能も果たしている。 しかし、昼夜にかかわらず「生活の場」として機能する(と思われる)欧米の大都市の同性愛者コミュニティのことを考えると、「新宿二丁目」をそれと同じコミュニティであるということができるのか、いささか心もとない。  むしろここでは、「コミュニティ」があるかないかということではなく、「コミュニティ」を可能にする条件はどのようなものか、さらにそうした条件のもとで、同性愛者たちはどのように行動し、生きているのかを示すことが大切なのかもしれない。 同性愛者として承認し合える場をとおして、同性愛者たちは他の同性愛者と出会い、語り、さまざまな行為をし、関係をつくり、それを維持して生活している。 このことはどこの世界でもたしかなことであり、とくにそうしたあり方をこれから見ていくことにしたい。  「出会い」の媒体 同性愛者は、自分のセクシュアリティに気づいたとき、それを否定的に考えて、悩んだり、自らのセクシュアリティについては隠しておかなければならないと考えることが多い。