書こうと思ったけど書かなかったことがたくさん。

以前のブログでは勢いで書いた。

勢いで書くからこそ、思い立った時のアイディアと

違った方向に書き進んでしまって、書き残しだらけ。

自分らしいと思う。

感覚派だから。

いいって感じた瞬間の感覚を10年も20年も50年も

その時のまま保っていられる。

 

昔は勢いで書き切った。

あの頃の文章は生きてるなあ。

そう思う。

すごく文章力無いけど。

必死で伝えようとしてた。

ターゲットの読者なんて無かった。

今だって無い。

 

自分の病気を本気で治そうと30万円の自由診療の

医学を受けたら、その方面の人達も集まってきた。

宣伝なんかしないけど、優秀な情報機関が運営する

検索サイトを通して見つかってしまう。

 

こっそり書いていても、どっかで漏れることに

2009年頃には気がついた。

その頃、スピ系なんて記事の一部にチョコッと

登場するだけだけど、当時の最先端のスピ有名人の

足跡があったりした。

その時はその人達がスピ系だと知らなかった。

音楽関係をやっていて尾崎豊と音楽現場で深い関わりの

あった、ようちゃんとも前ブログで知り合ったけど、

彼女がアメブロを止めると挨拶に来た時、ようちゃんには

言わなかったけど、僕はアメブロを続ける気力を失った。

のあさんみたいに尾崎は強くなかった。

ようちゃんはそう言ったけど、そもそも僕は彼本人を

知らなかった。

でも17歳の地図のCDは大事にしていた。

ようちゃんのような人は後にも先にもアメブロでは

出会っていない。

多分実際に会っても自分の中のイメージとは違うだろうし、

アメブロのコメントでしゃべったから良かったんだろう。

今はどんな生活してるのかな。

 

読者の出入りにも疲れたので、大幅に独断で削除した。

話が合う合わない、好みが合う合わないじゃない。

古くからの人たちだけはほとんど残した。

今では同じ話題で共通点を見出せない人たちだけど。

のあのブログの黎明期に支えてくれた人たちだから

もし相容れない部分が多くても大切な思い出の人達。

 

みんな、誰だってそんな変遷があると思う。

もう今は話しが噛み合わないけど大事な人達。

アメブロではそういう人達と過ごしてきた。

もう分かり合えなくても大事な人達。

誰でもそういう人達がいる。

それをいいとも悪いとも思わない。

そうだった。

そういう歴史もありつつ未来へ進んで行く。

どこかでまた合流することもあるだろう。

 

そういう訳で、ブログタイトルと違ったことを

いつものように書きました。

テーマを決めてそれについて書き通すことが本当に

難しい人です。

商業誌に星の写真を毎月久住高原まで撮りに行って

決まった四季のテーマで星の解説を書いていたので、

8万円で1ページ書いていましたが、ちゃんと

テーマから外れずに書いていました。

 

超シュールな現代文明の内容はまた書くかも知れません。

 

すべては6年前の2017年には起きていた。

私達が受け容れられるように6年もかけて

過去の出来事を小出しにリプレイ体験させられてきた。

まさにクラウンショー。われわれはピエロ。

1960年代生まれの人達が自然の動物の

近寄りがたい魅力を知っている最後の世代に近い。

そう思っている。

 

生まれて一番美しいと思った動物が野生のメダカだった。

野生のなんて言わなければならないのが身が切り裂かれるようにつらい。

 

近くの田んぼのあぜ道の横にある幅20cm位の水路。

そこに泳ぐメダカの背中がキラキラ光る。銀色に。

あの生命感にドキドキしたことを今でも忘れない。

 

その田んぼの土手の向こうは用水用の池だった。

 

その池が一度だけ干上がって砂浜ができた。

沼みたいな池なのに、ヘドロみたいな泥だけではなく

海の砂浜のような砂浜がちゃんとあった。

ここは太宰府天満宮が建つ前からある寺院群の跡地。

この池が干上がった時、手の平に収まらない大きな

カラス貝が大量に見つかった。

もちろん生きていた。

こんな山あいに巨大なカラス貝がいる。

 

自然には知られていない事があるとその時深い

畏敬の念に囚われた。

 

それ以来、もしかしたら人間は本当のことを

知らないんじゃないかという気持ちが生まれたと思う。

 

それらの動物は1970年代の開発であっという間に

消えてしまった。

一番は農薬だったと思う。

 

その池の脇には巨木が何本も生えていた。

太宰府天満宮の巨大な楠の木より巨大で立派だった。

それらが1990年代頃に切り倒されてしまった。

僕が拠り所にしていた、わずかに残った平和な世界が

終わりを告げたかのようだった。

 

池と巨木の一段上には僕の幼稚園の先生が住んでいた。

ゲンゾウくんと仲良くしなかったのが悔やまれたことがある。

彼とは学年も多分違い、接点がなかった。

ただ、彼が寂しい思いをしているのをある時知った。

仮面ライダースナックのラッキーカードあげるけん、

遊んでくれん。

そう頼まれて悲しい気持ちになった。

幼稚園の吉冨先生は僕の30代の初めまで折に触れて

サポートしてくれた。

愛犬のポンちゃんを大事にしていた。

ユースホステルのお客さんにも人気だった。

僕が失意の内に茨城から帰ってきた頃、わずか100m先の

幼稚園の先生から胡蝶蘭がお見舞いで届いた。

当時、母の実家はシンビジューム農家で、海外産に押され

苦しい中で、胡蝶蘭の高い値付けにグウの音も出ない頃だった。

幼稚園の先生は竈門神社の宮司さんの奥さんだった。

宮司さんもしょっちゅうお会いした。

だって、たった100mだもの。

今この文章を書いてる部屋の東の窓を開けると最初に

目に飛び込んでくる家が旧太宰府ユースホステルだもの。

英語を話す国で勉強したことがなく、

そういう経験からすると、日常的な

表現は未だにわからないことが多いです。

2000年までの英検は、大学受験で

蓄えた知識で何とか2級までは突破できた。

全力出さないといけなかったけど。

でも、今思い出したけど、僕は2級は

取ってないことを思い出しました。

いきなり準1級に合格しています。

ECCのフリータイムレッスンしか

受けてないのに、いきなり準1級を

受けたので、ECCの職員には驚かれました。

1次試験に合格してから、ECC本校に

置いてあった、南雲堂のECC監修版

英検準1級面接対策本だけを使って

泥縄式に必死で練習しました。

対策本の内容を見て初めて2次面接の

内容を知って後悔したくらいクラクラする

ハードルの高い内容でした。

こんなの出るんだ…

でもしゃーない。

受けるんだから。

本気で一冊仕上げました。

CDのナレーションに合わせた1人での

おしゃべり。

結構辛かった。

で、本番でClientとの何かの商談の話題

か何かについての質問が来て、Clientって

何する人なん???

そう思った次の瞬間、分からないまま必死で

しゃべっていました。

しゃべった後で、もしかしてClientと

担当者?の立場を逆にしゃべったかもと

思ったけど、そのまま挨拶して退出しました。

合格通知が届いてビックリ。

姿勢というか態度というか、Attitudeの

点数をかなり上に付けてくれていました。

嬉しかった。

ECC本校の校長みたいな人にも、英検を

受ける前から入りませんかと言われたことが

あったけど、日本人英語講師の人以外は

営業職だなと思って即答しませんでした。

あの時即答してたら間違いなかったのは

雰囲気から分かりました。

ECCのフリータイムレッスンに真剣に勉強に

来てる人が珍しかったんでしょう。

校長に入りませんかなんて滅多にないだろうし、

両親には、どうしてそんなチャンス逃したのって

ずいぶん残念がられました。

英語なら英語、バイクならバイク、突っ走って

生きている時の僕は凄まじいパワーなので

営業だろうが何の職だろうができそうに周りに

見えるのは不思議はないと思います。

エンジンかかって無敵の進撃が最大の自身の

売りであり最大の欠点でもあります。

でも、フリータイムレッスンでたまたま同席した

◯◯機械九州支店長に紹介された会社に入社

しました。

英会話学校が、前の関東の会社を退職してから、

両親の勧めもあり、英語力で再出発しようという

気持ちを後押ししてくれました。

でも実際は、英会話に通っている人は会社員が

多くて、フリータイムレッスンで勉強して

就職しましたという話しを、2年間の在籍中に

僕自身は聞いたことはありませんでした。

ましてや、英検準1級を受けるということが

生徒さんたちの中ではビックリされました。

フリータイムレッスンでは英検2級を受ける人は

いましたけど、それ以上はグループレッスンを

受ける場合が多かったんだと思います。

Ichi 寝ている僕に構わず外を見る

初めてパラダイムの用語を聞いたのは

教養課程の社会学の授業。

1988年のことでした。

その先生も社会学とはなんぞやということを

結構話してくれました。

初めて聞く人にはなんの学問なのか分からないことを

きちんと分かっている人で、よく分かっている先生でした。

何らかの学問をしているようなカタイ風貌の先生ではなくて

芸術家風の印象があって、特定の分野の実利を追求するとかではなくて、

でも、何かしらの本質を追求している先生だと感じていました。

だから、何かしらの大きな価値を生む土台の学問なんだなと

思っていました。

結局、社会学の定義は覚えて無くて、その先生の話題や

雰囲気で、社会学はこういうものなんだなという確固たる

イメージが残っており、これはこれで凄いことだと

今でも思います。

そういう先生ってやはり凄いです。

社会学の定義を、それは確かに話してもらったけど、

その先生の存在そのものが、その学問の定義に

なってたのは凄いことだと思います。

社会学のその先生を思い出したのもここ30年で

2~3回目で、そんなに思い出さないけど、

インパクトありました。

今となっては、環境問題とは何かという本質を

たった一冊の本を紹介することで理解させてくれた先生です。

レイチェル・カーソンの沈黙の春

これを読むのは課題でもなんでも無かったのに、

本を読むのが大嫌いだった、そして今でも読むのが

嫌いな自分が本屋に文庫本を買いに行って読破した程です。

親も読んで感激してくれ、それは快挙だったと思います。

この先生の教えてくれたパラダイムという言葉。

社会学では当たり前の言葉だったのでしょうが、

今の時代にいちばん大事な用語の1つだと思います。

科学なのか哲学なのか心理学なのかよく分からない社会学

です。

すべてをいっぺんに学問してみようという時パラダイム

という言葉がすっきりと全部をまとめてくれる。

色んなことを総合的にやってみたい人に社会学が

合うのかも知れません。

人間の世界のすべての要素の関わりを、その時代に

どういう方向性でまとめ上げるかは変化するもので、

今の時代の全体像が1つのパラダイムという風に

その先生の考え方から自分の中にイメージが湧いた

記憶があります。

人間が生まれてごはん食べて寝て起きての繰り返しが

変わらなくても根本のフレームというのが変わることが

あるということは30年前は思っていませんでした。

でも、その社会学の先生は、もしかしたら

そういうことをあの時代にもう意識していたのかも知れません。