こんにちは、安藤ひさこです。
息子たち3人とは以前ほど話す時間はなくなりました。
ちょっと顔を合わせたときに「最近どう?」って話すくらいです。
気になることはあっても、こちらも聞かなくなり、向こうも「聞かれたら答えるけどわざわざ言わない」みたいな感じ。
もうね、二十歳を過ぎているからね。
とはいえは、心配がないわけではない。
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息子たちが大きくなって、母のことを思うことも増えました。
母が私の年齢のときどうだったかなぁ?
心配していたんだろうなぁ。
心配していたんだろうなぁ。
母からみると私は「母の枠」をはみ出す突拍子もない理解できない子とうつっていたようです。
そう大したことしたないんだけどね(笑)
母にはそう見えていたようです。
心配の表現はその親の言い方でしかいえなかったり、態度でしか表せないものであるかもしれない。
もし私たちが親の育てられ方に不満があったとしても、私たちは同じことを子どもにしない!という選択肢をとることができます。
逆に親に信頼されていると実感できた、私を信じてくれた、任せてくれたと思うことがあったらそうしてあげてもいい。
いずれにしても、私たちは選ぶことができるんです。
親にされてイヤで子どもにやりたくないなら、やめる。
その決断をするのは自分。
親のせいでこうなったと思うこともある。
逆に親に信頼されていると実感できた、私を信じてくれた、任せてくれたと思うことがあったらそうしてあげてもいい。
いずれにしても、私たちは選ぶことができるんです。
親にされてイヤで子どもにやりたくないなら、やめる。
その決断をするのは自分。
親のせいでこうなったと思うこともある。
親のおかげで今を変えようと思える自分になれたということもある。
誰の人生でもなく、自分の人生。
自分の人生をどう歩むかは自分が決められる。
誰の人生でもなく、自分の人生。
自分の人生をどう歩むかは自分が決められる。