竹下通り
今日は自習したあと、無性に山本直樹の漫画を読みたくなって原宿のブックオフに行ったわけですが、
原宿駅から竹下通りを通って行くのが近道なんですねぇ。
皆さんが竹下通りにどのような印象を持っているか知りませんが、僕にとっては、ただ、ブックオフに行くための道という認識しかないわけよ。
だからね、通りをちんたら歩いてる輩はただの雑音でしかなく、邪魔なわけです。
並んで歩くなとは言わないが、道をふさぐほど広がって歩くな。
店の中を覗くなとは言わないが、立ち止まって覗くな。
急いで歩くなとは言わないが、俺の歩く速さより中途半端に遅く歩くな。
など、竹下通りを歩くと不快指数がMAXになります。本気で蹴飛ばしたくなるんですよ。はっきり言って死んでほしい。後ろへの注意がないんですよね。そういう奴は後ろからナイフに刺されて死になさい。
今日はこんな感じです。だらだら歩いてんじゃねーぞ、バーカ。
原宿駅から竹下通りを通って行くのが近道なんですねぇ。
皆さんが竹下通りにどのような印象を持っているか知りませんが、僕にとっては、ただ、ブックオフに行くための道という認識しかないわけよ。
だからね、通りをちんたら歩いてる輩はただの雑音でしかなく、邪魔なわけです。
並んで歩くなとは言わないが、道をふさぐほど広がって歩くな。
店の中を覗くなとは言わないが、立ち止まって覗くな。
急いで歩くなとは言わないが、俺の歩く速さより中途半端に遅く歩くな。
など、竹下通りを歩くと不快指数がMAXになります。本気で蹴飛ばしたくなるんですよ。はっきり言って死んでほしい。後ろへの注意がないんですよね。そういう奴は後ろからナイフに刺されて死になさい。
今日はこんな感じです。だらだら歩いてんじゃねーぞ、バーカ。
殴られるよりも、殴りたい
あの~、日を置いてこんな話題で恐縮だけどさぁ、人をSとMに二分するのはどうかしてると思うんですよ。そういう考え方って二項対立的でしょ。欧米的な考え方で身震いがします。
確かに私だって普段は
「私はドSだけど、あんたは?」
みたいなことは口にしますよ。会話が盛り上がりますから。でも、心のなかでは、
「くだらねーこと聞いてんな」
と思っています。
人をSとMに二分するのはダウンタウンの松本人志がはじめたとするのが一般的な見解ですが、私はこの二分方法は反対ですね。
別に松本人志を批判する気はありません。しかし、人間を単純に二つのカテゴリーに分けることは可能だろうか、と思ってしまいます。
「はい」「いいえ」「どちらでもない」だったら、つい、「どちらでもない」を選んでしまう日本人にとってこの分類法は奥が深いと思います。
確かに私だって普段は
「私はドSだけど、あんたは?」
みたいなことは口にしますよ。会話が盛り上がりますから。でも、心のなかでは、
「くだらねーこと聞いてんな」
と思っています。
人をSとMに二分するのはダウンタウンの松本人志がはじめたとするのが一般的な見解ですが、私はこの二分方法は反対ですね。
別に松本人志を批判する気はありません。しかし、人間を単純に二つのカテゴリーに分けることは可能だろうか、と思ってしまいます。
「はい」「いいえ」「どちらでもない」だったら、つい、「どちらでもない」を選んでしまう日本人にとってこの分類法は奥が深いと思います。
安倍辞任
首相が辞任したようですねぇーー
はっきり言って総理にはカリスマ性がありませんでした。前代の小泉氏にはあっただけにそれが際立っていました。国民もそれにはとうに気付いていたことでしょう。
それではなぜ彼にそれがなかったか、またはないように見えたか。
私が思うに、トップ、とりわけ国のトップに立つ人なのであれば、自分というものを持っているべきなのですが、彼にはそれが稀薄でした。
『美しい国へ』には彼の主張がこと細かに記述されていますが、どれもどこかで聞いたことのあるような、そして、抽象的に描写されています。
別にそれがいけないというわけではありません。本というのは“見栄え”ですから、一見“美しく”見えるこの表現方法は読者の関心を集めます。
所詮人間というのは、自分がかつて触れたものに近いもの、本質的に見えるものに群がるものですから。
少し話がそれましたが、このように、主張の礎がしっかりとしていない人にカリスマ性がないのは当たり前で、加えて、「私が尊敬するのは岸信介だ」とする彼オリジナル性のなさは、首相であるどころか、指揮をとる人間として魅力に欠けます。いや、失格でしょう。
「自分には求心力がなかった」と弁明したそうですが、気付くのが遅すぎでした。いや、気付いていたのかもしれません。きっと、良家であるというプライド、自分には潜在性があるに違いないという思い込みがそれを阻んだのでしょう。
次代首相には、しっかりとした自己を持っている人を望みます。
はっきり言って総理にはカリスマ性がありませんでした。前代の小泉氏にはあっただけにそれが際立っていました。国民もそれにはとうに気付いていたことでしょう。
それではなぜ彼にそれがなかったか、またはないように見えたか。
私が思うに、トップ、とりわけ国のトップに立つ人なのであれば、自分というものを持っているべきなのですが、彼にはそれが稀薄でした。
『美しい国へ』には彼の主張がこと細かに記述されていますが、どれもどこかで聞いたことのあるような、そして、抽象的に描写されています。
別にそれがいけないというわけではありません。本というのは“見栄え”ですから、一見“美しく”見えるこの表現方法は読者の関心を集めます。
所詮人間というのは、自分がかつて触れたものに近いもの、本質的に見えるものに群がるものですから。
少し話がそれましたが、このように、主張の礎がしっかりとしていない人にカリスマ性がないのは当たり前で、加えて、「私が尊敬するのは岸信介だ」とする彼オリジナル性のなさは、首相であるどころか、指揮をとる人間として魅力に欠けます。いや、失格でしょう。
「自分には求心力がなかった」と弁明したそうですが、気付くのが遅すぎでした。いや、気付いていたのかもしれません。きっと、良家であるというプライド、自分には潜在性があるに違いないという思い込みがそれを阻んだのでしょう。
次代首相には、しっかりとした自己を持っている人を望みます。