イノクニタンケンタイ雑用係の日月ホトトギスです。
悲運な女性たちがイの国には・・・
倭迹迹日百襲姫命を祭る水主神社
「うしろの正面」には孝霊天皇を祭る
水主三山(那智山)
水主三山(虎丸山)
水主三山(本宮山)
村上天皇の血筋と妄想の長町磯(静御前の母。礒野禅尼)の墓の碑(裏側に墓)
右から静御前(宥心尼)・その子・侍女の墓
海女の玉とり伝承の真珠島
清和源氏につながる生駒氏が、弁財天、吉祥天を祀りなさいと定めている。
弁財天は、河の女神
吉祥天は、北方の毘沙門天の妻もしくは妹
毘沙門天は、多聞天で金毘羅大権現
金毘羅大権現=鰐積=祖谷を北で守護
松平家の墓所・法然寺の墓地 亀
機織りの道具を表す「ちきり」
ちきり神社の元の場所には松平家の菩提寺の法然寺を造営しています。
また、ちきり神社近くには同じ倭迹々日百襲姫命を祭る船山神社、その神社が元あったのが3世紀の船丘山古墳。
さらに、倭迹々日百襲姫命も女陰を突いて亡くなってます。
お隣徳島県には、箸墓ならぬ箸蔵寺、昔はセットでお詣りしていた香川県の金毘羅宮。
長尾は何のしっぽ?⑳のつづきです。
長尾寺はしっぽ関係では気になりまする
え~ まだ千葉氏の長尾氏でもある白井氏探検が続いています。
補陀落山円通寺(本尊は聖観音菩薩)の国仙和尚を"生涯の師"と定め師事した良寛。
良寛さんの
冬籠り 春さり来れば
飯(いい)乞(こ)ふと 草の庵を
立ち出でて 里にい行けば
たまほこの 道のちまたに
子どもらが 今を春べと
手毬つく ひふみよいむな
汝(な)がつけば 吾(あ)はうたひ
吾(あ)がつけば 汝はうたひ
つきて唄ひて 霞(かすみ)立つ
永き春日を 暮らしつるかも
良寛さんの詞の中でたどり着いた、
沖縄では、数え13歳の子に贈る琉球手毬「十三マーイ」
⇒「手毬つく」=「琉球十三マーイつく」
「手毬つく」のもつ深淵な意味とは、
「ひふみよいむな」の妄想
先には、ひふみよいむな「十種神宝の霊力で死者を蘇らせる」
と妄想しました。
「十種神宝の霊力で死者を蘇らせる」が気になりました。
「手毬つく ひふみよいむな」を妄想解析にかけてみると、
手毬つく=伊の国に着く?にゃのか?!
琉球手まり(方言では「マーイ」という)は、
南国の明い琉球王国時代の色彩が特徴。
昔は、祖母や母親が織物の残り糸を利用して女の子の玩具として作られた。
現在は25番の刺繍糸6本を広げてかがって作る。
糸6本の意味が気になった。
これは六斎念仏、六斎市の6と関係があるんじゃないかいの?
六斎念仏とは、古く六斎日に行われた念仏であるとされる。
しかし、現在存続するほとんどの六斎念仏は、主に盂蘭盆や送葬に際して執行されている。
多くの場合、かつて講を形成。
関西の農村や都市近郊を中心に全国各地に存在するうちよく知られるのが国の重要無形民俗文化財に指定「京都の六斎念仏」。
他にも、
・和歌山県紀北の高野山麓から紀ノ川
・奈良県に至る吉野川流域
・奈良盆地
・滋賀県朽木
・福井県若狭地方
・大阪府
・兵庫県旧摂津国に属する地域
・但馬など関西広域に濃密な分布
・長崎県平戸島
・高知県
・愛知県
・山梨県の富士山麓周辺
・千葉県の六座念仏
・山形県で行われる夜行念仏
六斎念仏は、時に地域によって「四遍念仏」「太鼓念仏」「ひっつんつん」「男念仏」など、名称の変化が大きい。
全国的に展開した六斎念仏が、多く男性が行う点、盂蘭盆(うらぼん、お盆ともいう)の行事として執行される点、演目の一部に六斎念仏独自の共通性が認められる点などで六斎念仏としての類型が可能。
今日では偽経とされる『盂蘭盆経』、『報恩奉盆経』などに説かれる目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の伝説に由来。
もともとは仏教行事であるが、唐代の道教の隆盛期に三元の一つの中元節の流行とともに儀礼の融合。
日本における日付については、元々旧暦7月15日を中心に行われていた。父母や祖霊を供養したり、亡き人を偲び仏法に遇う縁とする行事のこと。
「盂蘭盆経」の「お盆」行事。それは、主に男が執り行うもので、餓鬼道に堕ちた亡母への供養。餓鬼道に堕ちた亡母へのお盆の供養とは、かつて鬼道を使って国を治めたヤマト国の亡き母。日巫女の供養の尾だ!
琉球手まり(方言では「マーイ」という)は、
特に十三歳になった娘のお祝いに「玉の輿に乗れますように、幸せな結婚生活が送れますように」と願いを込めて作られた。
現在は縁起ものとして作られている。
十三=とみ=富
「富田」といえば、徳島県の眉山は、昔は「富田山」
富田神社(さぬき市大川町富田中114)
祭神は、品陀和気命、帯仲彦命、息長帯日売命(神功皇后)
由緒
その昔現在の神奈川県の寒川神社の分霊を勧請し寒川神と称して、一郡の総鎮守として奉祀した。因って郡名寒川はこれより名付けられたと言う。
一説には、861年、富田弥太郎則朝が紀州鳩ケ峯八幡宮の分神をお迎えして、当社に合祀して難波八幡とも言われたという。
雨滝城主・安富肥前守盛方の長臣六車左衛門大夫宗堪が当社に奉仕して以降祠官となって今日に至る。六車博氏は15代目。
明治3年郷社に列せられ寒川八幡宮を富田神社と改称した。
富田茶臼山古墳 那羅街道 吉野 葛城
紀州てまりは、
江戸時代、紀州五十五万五千石の殿中で、女官たちが姫君のために、はまぐりなどの貝殻に砂や小石を入れて真綿でくるんで絹糸でかがって転がしたりして遊び始めたのが起源だと言われています。
蚕繭抱いてやる!byちきり神社狛犬(阿)
手毬の発祥は、中国から日本へと渡来したのは飛鳥・奈良朝時代といわれています。 平安朝時代以降は、公家で盛んに遊ばれるようになった。
かつては、主に玩具として使われていたてまり。
最も古いものは「蹴鞠」、足を使った遊びだったが、やがて手を使って遊ばれるようになった。
手毬つくとは、皇后であり、養蚕の神・大宜都比売神(阿波国)とその母・和久産巣日神であり、伊予の二名島の阿波国(伊国)の母にたどり着いた!さらに、その母は讃岐高松藩の松平家が、わざわざ神社を移転してまで建立した鰐の末裔の法然をしのぶ法然寺の地に元鎮座していた機織りの道具の滕を名前にもち狛犬は繭を抱く滕神社の御祭神・稚日女命ではないのか!?手毬つく=伊の国に着く?にゃのか?!
「手毬つく ひふみよいむな」を妄想解析にかけてみると、
琉球手まり(方言では「マーイ」という)は、琉球王国時代の色彩。
織物の残り糸を利用して女の子の玩具として作られた。
刺繍糸6本を広げてかがって作る。
糸=絹糸=養蚕=皇后
紀州手毬は、貝、砂を核に入れ、絹糸を使用。海(海神)皇后との関係を妄想できる。
「糸6本」からは、お盆=餓鬼道に堕ちた亡母へのお盆の供養とは、かつて鬼道を使って国を治めたヤマト国の亡き母。日巫女の供養の尾に妄想はつながる。
良寛さんの詞の中でたどり着いた、沖縄では、数え13歳の子に贈る琉球手毬⇒「手毬つく」=「琉球十三マーイつく」
十三=とみ=富
「富田」といえば、徳島県の眉山は、昔は「富田山」
富田茶臼山古墳がある地域の富田神社(さぬき市大川町富田中114)
祭神の一柱は、息長帯日売命(神功皇后)
由緒に、一説には、861年、富田弥太郎則朝が紀州鳩ケ峯八幡宮の分神をお迎えして、当社に合祀して難波八幡とも言われたという。雨滝城主・安富肥前守盛方の長臣六車左衛門大夫宗堪が当社に奉仕して以降祠官となって今日に至る。六車博氏は15代目。
「富」、「皇后」、「紀州」、「六」、「難波」、「雨(天)」と気になることばが並ぶ。
13(とみ=富)=1神+12子神=フナト(クナト)神=これ以上くな!との結界=船戸
戸は瀬戸や八戸の戸、(山門=ヤマト=山戸かも)=道祖神=猿田彦大神==庚申塔=庚申塔の密集地域「阿波神山」=伊の国(夷・猪・伊都・倭 の国)
と妄想は、糸を紡ぐようにつながる。
つまーり!
手毬の意味とは!?
海神=琉球に関係する海神女性
=皇后(日巫女)
=阿波神山
=伊(夷・猪・伊都・倭)の国の尾だ!
かもね
ではまた。
(また、「ひふみよいむな」の妄想、「十種神宝の霊力で死者を蘇らせる」へたどりついてないやんか!)