イの国探検隊ファンの皆様こんにちは
秋らしくなりましたね。
(冬に備え、仲間と人間の里のカキに群がるのに忙しくて)
もぐもぐ
 
以下、勝手な妄想を繰り広げます。(悪しからずご了承ください)。
 
各方面のおかげもあり、なんだかんだで応天門の変とワニの関係が浮き上がってきました。
 
ワニをあれやこれやと妄想したく思います。
 
大麻山(金毘羅宮がある象頭山と同体の山)
 
同体の山である金毘羅宮の象頭山と大麻山。
大麻山の野田院古墳と金毘羅宮は和珥氏を祭っていると思われます。
 
野田院を開いたのは、三輪系氏族に属する地祇と思われる役行者(姓は君)は、野田院古墳が、和珥(わに)氏に関係があると分かって山岳仏教寺院の野田院を開いたのではないでしょうか。ニコニコ
 
和珥氏は、
(第5代)考昭天皇の第1皇子、天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)もしくは天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと)を祖とする。
 
後裔に、
春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣・大坂臣・阿那臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟邪臣・都怒山臣・伊勢飯高君・壱師君・近淡海国造ら諸氏族の祖としている。

そのほか『新撰姓氏録』では、

左京皇別 - 大春日朝臣・吉田連・丈部

右京皇別 - 栗田朝臣・山上朝臣・真野臣・和邇部・安那公・野中

山城国皇別 - 小野朝臣・粟田朝臣・小野臣・和邇部・大宅・村公・度守首

大和国皇別 - 柿下朝臣・布留宿禰・久米臣

摂津国皇別 - 和邇部・羽束首。

河内国皇別 - 大宅臣・壬生臣・物部

和泉国皇別 - 葦占臣・物部・網部物部・根連・櫛代造

右京未定雑姓 - 中臣臣

和泉国未定雑姓 - 猪甘首

 

たくさんだが、丈部が気になった。

丈が、タケなら、「武」かもニコ

 

丈部氏

「新撰姓氏録」では「天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひと の みこと)の孫、比古意祁豆命(ひこおげつ の みこと)の子孫」とされ、和泉国皇別では、丈部首氏は武内宿禰の息子の紀角宿禰の子孫」となっている。

このほか、右京皇別では、丈部造氏は孝元天皇の皇子、大彦命の子孫」と記載されている。

「万葉集」巻第二十には、丈部氏の防人の歌も多く収録。

 

「武」が出てきた。武内宿禰、孝元天皇。

孝元天皇といえば、紀夏井の子孫の久本氏。つまり久米。

 

 

久米部・来目部は四国と中国地方と東海道の一部に分布した氏族。

久米直(クメノアタイ)は各地方の久米部を統括する氏族。蘇我氏・春日氏系の久米臣とは別

つまり「久米」というのは本来、特定の名前ではなく部署の名前

 
役氏(えんうじ)、役君(えん の きみ)三輪系氏族に属する地祇(地の神。国土の神。くにつかみ)系氏族で、葛城流加茂氏から出た氏族。役民(公の労役に服する人)を管掌した一族で、「役」の字をもって氏。大和国・河内国に多く分布。
 
(きみ、クン)は、主に東アジアの漢字文化圏の王朝でみられた君主の称号(君主号)または皇族・王族、貴族(特に外戚・功臣)の称号。

 

系図によれば、仁徳朝頃に米餅搗大臣命の四子が大きく和邇、大宅、布留、春日の地に分かれて、各地に支族を分岐した。

原始的姓氏は「鰐積」で、当初は「和邇部」であり、履中朝から允恭朝のカバネ制定にあたって、米餅搗大臣命の後裔の本宗四系統が先に「和珥臣」になったと見る説がある。

 
櫛代造では、同じ「櫛代」が付く
櫛代賀姫神社(くしろかひめじんじゃ)は島根県益田市にある神社。社伝では古代、櫛代族が瀬戸内海から日本海を俎上、鎌手大浜の地に上陸したとされる。
 
 

 

 
亀=大国主
なら、
大国主=和珥氏が金毘羅宮に祭られている。
 
ウガヤフキアエズの母・豊玉毘賣はワニに乗って屋島から新川上流部の三木町の和邇川神社に来ている。
本人か夫、その両方は和珥氏か。
和邇が登場すると言えば、説話「稻羽之素菟」。神々は浜で泣いている素菟(しろうさぎ、毛のないウサギを意味する)を助けようとして失敗する話。
また、出雲国風土記では仁多郡で「和爾」が玉日女命を慕って川を遡上したことにちなんで恋山と名付けられた説話。さらに、肥前国風土記では海の神である「鰐魚」が多くの小魚を従えて川を遡上し世田姫のもとへ通う説話が収録されている。
 
ウサギで気になったのが
宇佐神宮(うさじんぐう)大分県宇佐市にある神社。
全国に約44,000社ある八幡宮の総本社。石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。神仏分離以前は神宮寺の弥勒寺と一体、正式には宇佐八幡宮弥勒寺と称していた。
主神は、一之御殿に祀られている八幡大神の応神天皇であるが、実際に本殿で主神の位置に配置されているのは比売大神(これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すもの宇佐神宮宇佐から勧請した石清水八幡宮(京都府)などでは、宗像三女神を祭神として祀る。春日大社に祀られる比売神は天児屋命の妻の天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)である。大日孁貴尊(アマテラス)を比売神としている神社もある。
 
播磨国弥勒寺で98歳(80歳)で亡くなった平安時代中期の天台宗の僧・性空(しょうくう、910-1007)、父は従四位下橘善根。俗名は善行。京都の生まれ。書写上人とも呼ばれる。
36歳の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家。霧島山や筑前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝(中村 季孝・なかむら すえたか、平安時代後期の人物。藤原北家山蔭流、常陸介・中村実宗の子。)の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場の一つ)を創建。
 
ここまでを妄想でぎゅっとまとめると
ウガヤフキアエズの母・豊玉毘賣=玉日女命=世田姫=天児屋命の妻の天美津玉照比売命=大日孁貴尊(アマテラス)
素菟=宇佐=弥勒寺(播磨国?)=藤原季孝(中村 季孝・藤原北家
が、つながる感じ。キョロキョロ
 

「宇佐から勧請した石清水八幡宮」で思い出した。びっくり

以前のブログで探検した亀山神社。

その由来には「武内宿禰の裔、坂本公が708年頃、国造の命により宇佐八幡宮(応神天皇のご神霊)を勧請神自身望んだことだと書いてある」グラサン

これから妄想するに武内宿禰の子に、紀角、久米能摩伊刀比売。武内宿禰の末裔坂本公が祀った宇佐神宮の神は、紀氏、久米氏につながる魂である。
つまるところ、宇佐神宮は藤原北家により祀られ鎮められている魂は、孝元天皇・武内宿禰の後裔・紀氏なのではないか。
ウサギ(藤原北家の先祖)うさぎは、ワニ(和珥氏・紀氏・久米氏系統の祖先)をだまして毛(身包み)を剥がれる。そういうことではないかな。武内宿禰の子に葛城氏の祖先もおり、役行者にもつながる。
 
 
石清尾八幡の建立は「応天門の変」で藤原北家にやられた、大伴氏、紀氏、和珥氏(後の春日氏、小野氏、柿本氏、粟田氏、大宅氏など)を封印した。
同時に、山体の尾を踏み石清尾山古墳群を封印し葬られている和珥氏ほか大伴氏、紀氏関係者をも封印した。
 
部曲 (かきべ、ぶきょく)
大和・山城国・近江国諸国から北陸中部・中国地方、他に讃岐国2部、甲斐国1部、伊豆国1部にかけて分布する丸部(和邇部、ワニベ)がある。
日本の私有民や私兵などの身分のことである。民部とも書く。
大化の改新以前の豪族の私有民である。天武朝以後は公民となった。
 
大化の改新といえば、
藤原 鎌足 (ふじわら の かまたり)
614-669
母は大伴智仙娘。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。中臣御食子、内大臣大職冠。
大化の改新の中心人物であり、改新後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。
 
大麻山の高地にある野田院古墳。麓には、空海の育った総本山善通寺。役行者が開いた山岳仏教の寺、野田院はこの古墳脇にあったとされる。
藤原北家が金比羅と聞いて気絶し、菅原道真の怨念を恐れて石清尾山につながる尾にあたる場所に石清水八幡から勧請して建立した石清尾八幡宮。その山体にある石清尾山古墳群は石積み。役行者が脇に寺院を建てた野田院古墳も石積み(後円部)。モモソヒメの船岡山古墳も石貼り様の石積みと思われる。色々とつながる妄想。
 
[金比羅宮-象頭山・大麻山-役和珥氏・葛城氏・紀氏・久米氏-石清尾山古墳群]がつながった。
さらに妄想が広がる。

仁徳天皇の后は葛城氏の祖・葛城襲津彦の娘

難破(さぬき市)にある四国最大の前方後円墳富田茶臼山古墳は、仁徳天皇稜ともされる。

 

妄想!妄想!妄想!

なので、各方面からの苦情は受付ません。

前向きなコメントはよろしくおたの申します。

 

脱兎のごとくうさぎ

ではまた。グラサン