さイの国探検隊ファンの皆様こんにちは
 
 
「久米の子の部屋」さんのコメントで、香川県高松市に鎮座する石清尾八幡宮が気になり探検です。
今回は、純粋につまらんイ探メモばかりです。チーン
 
石清尾八幡宮の本殿
 
石清尾八幡宮
伝説による石清尾八幡宮の由緒は2つ。
①918年、八幡大神が讃岐国香川郡野原庄(現・高松市)の赤塔山(現・石清尾山)に現れて、これを祭った。
②当時の国司が京都の石清水八幡宮の分霊を亀ノ尾山上に祭った。社名も石清水と亀ノ尾の名を併せて石清尾八幡宮と称した。
祭った918年は
紀夏井が讃岐国司であった54年後のこと。
菅原道真が讃岐国司であった28年後のこと。
 
紀夏井 (きのなつい)
858年文徳天皇が崩御し清和天皇が即位すると、讃岐守に地方官として赴任、4年間の任期を終えるも、百姓等の懇望により、さらに2年間864年まで讃岐守の任に留まる。
菅原道真 (すがわらのみちざね)
886年から890年までの4年間、讃岐国司の長官である「讃岐守」。
 
当時の国司は藤原時平の長男の「藤原保忠」
とにかく父親をたどってみます。キョロキョロ
 
藤原 保忠(ふじわら の やすただ)
890-936
は、平安時代前期から中期の公卿。藤原北家。官位は正三位・大納言。八条大納言・八条大将・賢人大将と称された。一生の大半を、父・時平に讒言されて大宰帥に左遷された菅原道真の怨霊に怯えながら過ごしたとされる。保忠が病床に伏せ、祈祷のため僧侶に薬師如来の読経をさせた途中、宮毘羅大将の名前が出た事を聞いたところ、近衛大将である自分を縊る(首を絞めて殺す)と読んでいるのだと思い、恐怖の余り気絶してしまった。結局、保忠は大臣の官職を目前にしながら、936年7月14日に薨去。享年47という早逝であった。なお、他の時平の子も同様に短命であり、これは父・時平が菅原道真を無実の罪に陥れた報いであると噂された。
藤原時平 (ふじわら の ときひら)
871-909
平安時代前期の公卿。藤原北家。正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣。本院大臣と号した。
基経の嫡男として若くして栄達し、醍醐天皇が即位すると左大臣として廟堂の頂点に立った。意欲的に改革に着手するが39歳で死去した。昌泰の変による菅原道真左遷の中心人物とされている。
藤原 基経 (ふじわらのもとつね)
836-891
平安時代前期の公卿。藤原北家。藤原長良の三男。従一位、摂政、関白、太政大臣贈正一位。
866年、(応天門の変)応天門の炎上に際し大納言・伴善男が左大臣源信を誣告し、右大臣・藤原良相が左近衛中将であった基経に逮捕を命じるも、基経はこれを怪しみ養父・良房に告げ、良房の尽力によって信は無実となった。その後、密告があり、伴善男が真犯人とされ、流罪となり、連座した大伴氏、紀氏が大量に処罰され、上古からの名族へ大打撃を与えた。同年、従三位に叙し、中納言を拝す。
藤原 長良 (ふじわら の ながら/ながよし)
802-856
平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家。官位は従二位・権中納言、贈正一位、太政大臣。長良流(高倉流)の祖文徳天皇の外伯父で、陽成天皇の外祖父
藤原 冬嗣 (ふじわら の ふゆつぐ)
775-826
平安時代初期の公卿・歌人。藤原北家。官位は正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣。閑院大臣と号す。勅撰集『後撰和歌集』に4首入集。
中納言就任を機に、同年9月に父の内麻呂が深く帰依した法華経に因んで、興福寺南円堂の前で初めて法華会(法華経講説の法会)を開催。この法会は既に宮中三大会として朝廷の行事となっていた興福寺講堂で行われる維摩会が10月10日から藤原鎌足の忌日である10月16日まで行われていることから、維摩会を意識して法華会を創始したことは明らか。氏長者となるために葛野麻呂に対して優位に立とうとしたものと考えられる
藤原 内麻呂 (ふじわら の うちまろ)

756-812

奈良時代から平安時代初期にかけての公卿。藤原北家。官位は従二位・右大臣。

桓武・平城・嵯峨の三帝に仕え、いずれの天皇にも信頼され重用された。

伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、平城朝~嵯峨朝初期にかけては台閣の首班を務めた。また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた

右大臣・藤原継縄や大納言・紀古佐美といった大官や、上席の参議であった大中臣諸魚・石川真守の薨去・致仕もあり、798年従三位・中納言に昇進する。
藤原 真楯 (ふじわら の またて)
715-766
奈良時代の公卿。初名は八束(やつか)。官位は正三位・大納言兼式部卿、贈太政大臣従一位。万葉四期歌人。勅撰集『続古今和歌集』に1首入集。

八束の持つ文学的才能と詩文を通じて築かれた交友関係が認められた。聖武天皇を中心に文化サロンのようなものが形成され、その中で八束は橘諸兄(葛城王・葛木王)大伴家持と交流し、情報を共有しあっていた。具体的には橘諸兄の邸宅で催された宴で聖武天皇や大伴家持らと唱和した和歌が残っている。上記サロンのメンバーは、皇太子・阿倍内親王の後継と目されていた安積親王派メンバーでもあり、将来の皇嗣として安積親王に期待する聖武天皇から頼もしく受け止められていた。従兄弟の藤原仲麻呂からその才能を妬まれる事があったが、八束は病と称して家に閉じ籠もり日々を過ごした。

同時代の有力者は藤原仲麻呂で、最も栄えていたのは南家。後年、藤原氏で最も繁栄する藤原道長・頼通親子等を輩出したのは、彼を祖とする北家真楯流である。

藤原 房前 (ふじわら の ふささき)
681-737
飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族。藤原北家の祖。官位は正三位・参議。贈正一位・太政大臣。

藤原 不比等 (ふじわら の ふひと)

659-720

飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。史(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』などでは天智天皇の落胤と書かれる。諡号は文忠公、国公は淡海公。

藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子である。698年には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。

藤原 鎌足 (ふじわら の かまたり)
614-669
飛鳥時代の貴族・政治家。母は大伴智仙娘。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。中臣御食子、内大臣大職冠。
大化の改新の中心人物であり、改新後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀」と記されている。字は仲郎。
中臣 御食子 (なかとみ の みけこ)
飛鳥時代の貴族。名は彌気(みけ)、美気古とも記される。冠位は小徳冠。中臣氏第一門の祖。妻は大伴智仙娘。小徳冠。
中臣可多能祜 (なかとみのかたのこ)
古墳時代の豪族・中臣氏の一人。方子連とも表記される。
母は宇那古娘。妻に那爾毛古比売、珍子娘。
中臣常盤 (なかとみのときわ)
飛鳥時代の豪族。名は常磐大連公(ときわのおおむらじのきみ)とも記される。
中臣黒田の長男。中臣連姓初代。
中臣黒田 (なかとみのくろだ)
古墳時代の豪族・中臣氏の一人
中臣勝海 (なかとみのかつみ)
古墳時代の豪族・中臣氏の一人。姓は連。出自は明らかでなく、父は中臣鎌子・中臣磐余・中臣真人の諸説がある。大夫(まえつきみ:議政官)の地位にあった。
『日本書紀』によると、敏達天皇14年(585年)3月、物部守屋と共に、疫病流行の原因が蘇我氏の仏教信仰のせいであると奏上したとされる。
中臣 鎌子 (なかとみのかまこ)
古墳時代の豪族・中臣氏。仏教伝来に際して強く反対した。鎌子の名を持つ中臣鎌足とは別人。子に中臣磐余連。
中臣真人 (なかとみのまひと)
古墳時代の豪族・中臣氏の一人。
中臣阿毘古 (なかとみのあびこ)
古墳時代の豪族・中臣氏の一人。
中臣阿麻毘舎卿 (なかとみのあまひさ)
古墳時代の豪族・中臣氏の一人。
大小橋命 (おおばせのみこと)
古墳時代の豪族・中臣氏の祖。
中臣烏賊津 (なかとみのいかつ)
『日本書紀』等に伝わる古墳時代の豪族・中臣連の祖。『古事記』に記載はない。
別名に中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)、雷大臣命(いかつおみのみこと)、跨耳命(またみみのみこと/あとみみのみこと)がある。『日本書紀』では「中臣」を冠するが、中臣連の氏姓を負ったのは雷大臣命の孫である阿麻毘舎卿連公の時とされる。
臣狭山命 (おみさやまのみこと)
古墳時代の豪族・中臣氏の祖。
異表記として『常陸国風土記』に中臣巨狭山命(なかとみのおおさやまのみこと)、『続日本紀』には意美佐夜麻がある。
国摩大鹿島命 (くになずのおおかしまのみこと)
古墳時代の豪族・中臣氏の祖。
『日本書紀』の垂仁天皇25年紀に中臣連の遠祖の大鹿島として登場し阿部臣の遠祖の武渟川別和珥臣の遠祖の彦国葺に続いて五大夫の一人に数えられている。

この順番について、臣姓二氏に続いて中臣氏、物部氏、大伴氏の伴造三氏の中で最初にその名が挙げられるが、当時の祭祀者の地位が高かったこと、また当該記事が神祇の祭祀に関することを考えると、祭祀担当の中臣氏が高順位で見えることは必ずしも後世の潤色・脚色とは言い切れないと見る説がある。

久志宇賀主命 (くしうかぬしのみこと)
古墳時代の豪族・中臣氏の祖。
探湯主命(くかぬしのみと)とも。『日本書紀』の垂仁紀二十六年三月条の割注記事には、天皇が中臣連祖探湯主に対し誰に大倭大神を祀らせるべきか占わせたところ、渟名城入姫命が適任と出たとされる。
神聞勝命 (かみききかつのみこと)
古墳時代の豪族・中臣氏の祖。
『常陸国風土記』香嶋郡条に登場する人物で、同書によると崇神朝に神が大坂山頂白妙の大御服を着て顕現し、白鉾の御杖を取って神勅を下したとされる。そこで天皇は八十の伴緒を召集し、神託を下した神について問うと、大中臣神聞勝命が「大八嶋国は汝が知ろすべき国と言向け賜った、香嶋国に坐す天津大御神(鹿島神)の下された教戒です」と答えた。
梨迹臣命 (なしとみのみこと、生没年不詳)
古代日本の豪族で中臣連の祖。梨富命、那志登美、梨津臣命(なしつおみのみこと)とも表記する。
『近江国風土記』余呉湖の羽衣伝説おいて、近江国伊香郡与胡郷の人である伊香刀美が、天女との間に生んだ二男二女の次男として登場している。
母・豊幡媛命の父である彦羽冨命の出自については三上氏族の川枯彦命と同人か近親と見られるが、梨迹臣命の子として建稲穂命の名が見えることは、伝承の舞台に白鳥が稲の穀霊神として飛来し、肥沃な土地であるとする見方や、三上氏など天孫族が鳥トーテミズムや天降り伝承を持つことに通じるとする説がある。
 
 
ネットで遡れるのはここまででした。
これから妄想できること。
石清尾八幡宮を建立した藤原保忠は、藤原北家
 
[藤原保忠への5代前から並べる]
5代前(真楯)
橘諸兄(葛城王・葛木王)や大伴家持と交流。従兄弟の藤原仲麻呂からその才能を妬まれる。藤原道長・頼通親子等を輩出したのは、彼を祖とする北家真楯流。
4代前(内麻呂)
大納言・紀古佐美といった大官や、上席の参議であった大中臣諸魚・石川真守の薨去・致仕もあり、798年従三位・中納言に昇進している。藤原北家繁栄の礎を築いた。
3代前(冬嗣)
興福寺南円堂の前で初めて法華会(法華経講説の法会)を開催。801年遣唐使に任命された葛野麻呂(印符を無くし、遣唐使であることの説明文を空海に代筆させている)に対して優位に立とうとした。
祖父(基経)
応天門の炎上に際し養父・良房に告げ、源信を無実にし、伴善男が真犯人とされ流罪となり、連座した大伴氏、紀氏が大量に処罰。
(時平)
菅原道真左遷「(醍醐天皇)聖代の瑕(きず)」の中心人物。
 
保忠は、菅原道真の怨霊に怯えながら過ごしたとされ、病気平癒祈祷のため僧侶に薬師如来の読経をさせた途中、金比羅の名前を聞いたところ、自の首を絞めて殺すと思い、恐怖の余り気絶している。びっくり
金比羅宮の鎮座する像頭山は大麻山と同体の山。
大麻山(左側半分程は金毘羅宮が鎮座の象頭山)

大麻山(おおさやま、善通寺市)には3世紀の野田院古墳があり、野田院とは役行者が開いた山岳仏教寺院の野田院があったことによる名前。
山上には和珥氏(わにうじ、春日氏、小野氏、柿本氏、粟田氏、大宅氏などの祖先)を祭るといわれる。

大麻山北西麓標高405メートル、テラス状平坦部の非常に高地にある野田院古墳(復元)
三角の山の右側麓には、空海の育った総本山善通寺がある。
役行者が開いた山岳仏教の寺、野田院はこの古墳脇にあったとされる。
石清尾山古墳群は石積み
こちらも石積み(後円部)
船岡山古墳は石貼り様の石積みと思われる

つまり、金比羅大権現(クンピーラ、鰐)を恐れることは、和珥氏、野田院古墳に葬られた大王を恐れているとも妄想できる。グラサン
5代前の真楯は、大伴家持と交流して仲良くやってた感じだが、4代前の内麻呂の代では古佐美などが死んだり官職を辞している一方、798年従三位・中納言に昇進して いる(北家の嫡流となり後の藤原北家繁栄の礎を築いた)
3代前(冬嗣)は、空海と接点のある葛野麻呂をライバル視。そして、祖父さん代に「応天門の変」で大伴氏、紀氏が大量に処罰され政治の表から消える。父は良い時代とされた醍醐天皇のときに(母が大伴氏の)菅原道真を左遷して「聖代の瑕」といわれた。つまり、大伴氏、紀氏が藤原北家にやられた構図。興福寺の中の南円堂は八角形に作られ藤原北家とも言え、そこには不空羂索観音坐像(国宝)、四天王立像(国宝)、法相六祖坐像(国宝)が安置。阿修羅像は南円堂には安置されてない。もとはどこに安置?元々外なら、北家としては重要な南円堂には祀らない存在と言うことか。
 
石清尾八幡神社は、石清尾山古墳群のある峰山とよばれる地域の峯つながりの紫雲山、南側の浄願寺山、石清尾山の尾に鎮座。藤原北家が大伴氏、紀氏を鎮めるとともにその後ろの和珥氏をも鎮める目的に勧請されたのではないでしょうか。
 
つまり、石清尾山古墳群は大伴氏、紀氏、和珥氏につながる人が葬られているのでは。
古墳時代前期(4世紀前半)石積みの双方中円墳がある。
同様な双方中円墳といえば高松市仏生山町の船岡山古墳が当初、同型と思われたが、2017年には3世紀で古式の前方後円墳と判明している。
 
船岡山古墳
手前の池を作った残土山を古墳としたようです。
 
船山神社 もとは鉄の矛先があったらしい(現、田村神社)
 
 
ただし、船岡山古墳上には、元は船山神社があり倭迹々日百襲姫命を祭っていた。桃太郎の姉とされる。この古墳は吉備とのつながりを示す出土品があるとのこと。箸墓古墳(はしはかこふん)なのかも。昔は徳島県の箸蔵寺と金比羅宮はセットでお参りしていたとのことも箸と和珥氏つながりで気になる。
 
妄想をしめくくると、石清尾八幡宮は大伴氏、紀氏、和珥氏につながる魂を峯の尾を踏んで八幡大神(仲哀天皇、神宮皇后、応神天皇)で封印している。
妄想を広げると、興福寺の阿修羅像は北家とは反対位置にあるものを表しているのでは?大伴氏、紀氏、和珥氏につながるものか?

 
妄想で意識がもつれているので、この辺で、さいなら、さいなら滝汗
ではまた。