ジョンギブログ 〜スポーツのある人生〜

ジョンギブログ 〜スポーツのある人生〜

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だいぶ、日にちが経ったけど、

今回の大阪旅で楽しかったこと。

 

やっぱり久しぶりの同級生との再会が楽しかったなあ。

約30ぶりの再会。

 

歯医者さんのチョロに約1年ぶりに診てもらいたくて、その近くの後輩のお店にも一度行ってみたくて。

そしてインスタでメッセージのやり取りをしだした英愛とも再会したくて。

 

待ち合わせた針中野の羅州。

もう一人の女子は誰が来るんや??

 

前日、同級生との飲み会での予想は全員外れ。

 

今はすごい研究者になった同級生が来たときはびっくりしたなあ。

幼稚園から一緒のチョロ。

中学に進学した時に仲良くなった英愛。

中学、高校と同じやったけど、ほとんど話したことが無かった知恵。

 

後輩が約20年営む、美味しい料理屋で。

誰に気を遣う事もなく、でもみんなちょっとずつ優しい。

久しぶりの再会と、あの頃の忘れ物を見つけるような時間がめっちゃ楽しかった。

 

ミルクボーイが言うてた。

もうこんなんなんぼあってもいいですからね。

 

心にビタミンもらったような、

そんな楽しい再会でした。

 

 

 

 

 

地元の大阪を離れて長い。

大学から東京生活が始まった。

卒業後は留学を経て朝鮮大学校ラグビー部監督を約10年務めた後に、2015年に福岡に越してから今に至っている。

 

今回も沢山の同級生や先輩後輩、そして恩師と会う機会があった。

福岡を数日離れると、どうしても仕事が消化不良になりがちだけど、

こうして定期的に戻るのも大切な機会だと感じている。

 

今回は、自分が役員(副会長兼幹事長という過分な役職)を務める大阪朝高ラグビー部のOB会総会のための帰阪だった。

限られた生徒たちで戦う朝鮮学校という存在でありながら、今までの輝かしい栄光の歴史は、本当に素晴らしい。

少子化と学生数の減少が続いている中でも、今でも日本国内のプロリーグ・リーグワンで現役選手として活躍する選手は22人に上る。

とある年代では、全国の高校の中で、大阪朝高卒業生が一番多くプロ選手になった年代もあることが、今回の総会で判明した。

 

一方で全国の舞台での輝かしい栄光は、色んな方たちのサポートによって支えられてきた。

ラグビー部OBOGのみならず、学校の卒業生、他府県の同胞や日本の方たちからの支援も沢山頂いてきた。

その中でも、サポートの核となるのは、やはりラグビー部卒業生だったために、時には資金集めに無理が生じていたことも事実だった。

同級生同士の集まりで、言い合いになったこともあった。

 

この輝かしいラグビー部のOB会は、いがみ合うことなくお互いに尊重し合えるかっこいいOB会でありたい。

そんな思いで携らせて頂いている。

 

今回の大阪出張で感じたことを書き記したい。

まず一つはやはり組織にとってガバナンスと事業内容の見える化のために、年に一度の総会はとても大切だと改めて感じた。

総会への参加者数も大切だが、資料をまとめながらしっかりと事業内容を総括しまとめる作業自体が大切だし、それを会員に対して説明することも非常に大切なことだ。

任意団体かつ非営利団体であるものの、OB会が年間に扱う財政は決して小さくない。

去年からは初の試みとなるスポンサー事業も始めた。

それによって、ラグビー部の活動費の大部分を賄えることになった。

会員からの会費も昨年以上の納付があった。

 

スポンサー企業に対しての感謝と説明責任。

会員の方たちに対して、どの企業からいくらのスポンサー協賛を頂いているのか。

協賛金と会費は何にいくら使われたのかをしっかりと整理し説明させていただいた。

 

理事会では年間に25回のウェブ会議を開いた。

平均2週間に一度のペースだ。

 

その頻度の理由は二つ。

現に協議する内容があるからということと、運営していて感じるのは3週間以上明けると、幹事長である自分自身もOB会のことを忘れていくのだ。

自分のキャパシティが、OB会以外のことで埋まっていく。

何を協議していたのかさえ、忘れてしまう。

2週間に一度約2時間ほど、誰かのために時間を使う。

そのこと自体が、何か大切なことなんだとも感じている。

 

懇親会の乾杯の発声で、高校時代の恩師から理事会に対して感謝のお言葉を頂いた。

高校時代にプレーを褒められた頃のように、こそばゆくもあり嬉しかった。

 

理事会では少しでも大勢に参加してもらうため、参加費も下げられるだけ下げた。

足らない分はOB会で補填する。

 

従来のように会場費よりも少し多く参加費を募っての資金集めはせずに、まずは来てもらいたい。

そして、OBOG達と協賛頂いた方たちで、情報、思い出、楽しい時間を共有もらいたい。

 

総会参加者は32名。

本音を言えばもう少し参加者を増やしたかったが、

それでも本当に有意義な総会だった。

懇親会の最後に参加者全員で記念撮影。

沢山の笑顔があるすごく良い写真。

この雰囲気を作りたくてやってきた。

だから本当にやってきてよかった。

 

 

 

 

小学生の頃、夏休みの読書感想文の宿題でアメリカ第16代大統領、エブラハム・リンカーンの文庫本を選んだ。
本のカバーに書かれていたまとめが、感想文としてそのまま使えそうだったからだ。

おそらく担任先生は、その感想文に確かな違和感を感じていただろう。
それでもあの名言は覚えている。

人民の人民による人民のための政治
government of the people, by the people, for the people


未だ残るかの名言を引用するなら、OB会はOBOGたちの、OBOGたちによる、OBOGたちのための組織だと言いたい。

根っこは学生たちのために存在するものではないというのが、自分の考えだ。

何故そういえるのか。
それはシンプルにOBOGがいなければ、そもそも会自体が存在しえないというのが理由だ。

そして、OBOG会は学生たちがいなくとも存在し得る。
廃校や廃部がその一例だ。

学生たちがいなくても存在しえるのに、OB会が学生たちのための組織だというのは"バグ"だ。

しかし世の中に数多く存在するOB会や同窓会組織は、現役学生たちへのサポートのための活動に終始してはいないだろうか。

◯◯部の合宿遠征のための寄付、
創立◯◯周年の校舎改築のための寄付、
全国大会出場のための寄付...

極端に言うとその時だけOB会から連絡が来る。

それぞれの寄付自体はとても素晴らしいし、子供達の成長のために意義のある支援だ。

しかしOB会からの連絡が常に寄付のお願いとなると、どうしても少しずつ一定の距離を置こうとするのが、人の性ではないだろうか。

事実、現在共に理事として活動してくれているメンバーに役員への誘いの連絡をした際も、一度は丁重に断られることが多かった。


しかし、現実的にはあってもなくても仕事や生活とさほど関係のないOB会に、ほとんどの人が専任的な立場で日常的な関わり方をするのは難しいということだ。

各世代で影響力のある献身的なOBが、役員在任期間に献身的に経済的なサポートをすることが、精一杯のサポートだし、事実それによって学生たちは確かな恩恵を受けてきた。


OB会は、まずはOBOGのために動く。
母校の朝鮮大学校ラグビー部の監督を務めた際に、その元となる経験があった。

 

創部初となり関東大学2部リーグ昇格を機に、OB会の再編について何人かのOBと一緒に動き始めていた。

次期OB会会長になる先輩が、OB会のミッションとして<BSC>を掲げた。

 

Bonding,

Support the team,

Create new culture.

 

卒業生の絆作り、

現役学生へのサポート、

新しい文化の創造。

 

OB会の第一の目的を現役支援ではなく、同じグランドで汗を流した500名以上の卒業生間の"絆作り(Bonding)” に定めたのだ。

それまでは、まずは現役チームへの支援が重要視されていた。

会則の中にある〈会の目的〉も総会で正式に承認を得て書き換えた。

 

それからOB会の方向性が定まった。

現にそのあとからOB会が催したイベントに参加して喜んでくれるOBが次第に増えていった。

 

その結果、現役学生への関心が高まり、サポートは厚くなっていった。

 

OB会の本来の目的、あるべき姿とはOBOGが卒業生として受けることのできる恩恵をサポートするための組織。

そんな理想と想いを抱きながら、活動している。

 

つまり、卒業生の1人である〈自分自身のため〉の活動でもあるのだ。

 

image

 

 

先日、OB会の理事会会議に参加するために1泊で大阪に行ってきた。

 

仕事でもないOB会に良くやると思う。

 

2023年から、母校大阪朝高ラグビー部OB会の役員として携わることになってから約2年間。

年に一度の総会やイベント準備、OB会の財政事業の健全化、それらに向けて月2~3回ほどの理事会のウェブ会議...

時には負担に感じるものの、他のボランティア活動への動機のように、自分なりの思いがあってやってきた。

家族や仕事、あるいは趣味とはまた違った、やりがいと愉しみを感じるもう一つの場になっている。

OB会に携らなければ、出会う機会が限られていた他世代との交流は正直嬉しい。

 

 

振り返ると、自分がこれまで<OB会>というテーマに向き合ってきた時間は少なくなかった。

 

大学ラグビー部の監督を務めた10年間、OB会は大切なテーマの一つだった。

今は高校ラグビー部OB会の副会長兼幹事長という重要な役割が回ってきた。

 

書店に並ぶ書籍は数あれど、<OB会>がテーマの書籍はあまり見た記憶がない。

成功や失敗の教訓が共有されづらいテーマの一つかも知れない。

 

自分としては高校時代に大きな成長の機会を与えてくれた母校に対して、そしてOBOG同士の絆作りに微力ながら<貢献する>機会があるということを、すごく大切なことだと感じている。

 

そんな<OB会>について、今までの経験と思いを少しずつ掲載したい。

 

年末恒例の同級生の忘年会。

規律と文化と言語。

 

 

監督時代、エディージョーンズさんのコーチングセミナーを受けた時のこと。

慶応大学のキャンパスで行われたコーチングセミナーで、エディさんは開口一番に勝つチームの条件として、その三つを挙げた。

勝つチームには必ずそれらが備わってるのだと。

その通りだと思った。

 

チームの規律、文化、そして独自の言語。

 

福岡県高校ラグビーの新人戦を見て、各校の「文化」を感じた。

 

国や地域や民族。

のみならず、学校や学部、部活にも文化が根付いている場合と、そうでない場合がある。

 

誇りを抱いて守り続けている文化があるとすれば、それ自体が価値だ。良し悪しではない。

 

そのまま「伝統」と言い換えても良い。

 

体感で5℃を下回る寒空、キックオフ直前に雷鳴で約40分の待機。冬の雨が止んではまた降る60分間。

 

試合終了後に、修猷館高校の選手たちは、真っ先に自校の応援団の前で深々と頭を下げた。

 

我々が観戦していた場所から最も離れたところで、応援団はいつものように裸足で一緒に戦っていた。

 

近くで見た表情から、そのことが一層伝わってきた。

 

選手たちは力を尽くして戦った。

観客はその戦いに感動を覚えた。

 

そして、選手たちと同じ思いで戦っている高校生がそこにいた。

 

 

 

 

 

 

 

大学1年生の時、人生最初で最後(たぶん)の英語弁論大会に出場したことがありました。


進学した朝鮮大学校外国語学部が毎年開催する英語弁論大会で、同じ学部の男子同級生4人で「恥をかくのも承知で参加してみよか?」と、当時の自分たちにとっては、すごくハードルが高かったけれど、貴重な経験が出来た弁論大会でした。


自分を含めたその4人は特別英語が得意なわけでもなく、ただそれぞれが何かしらの目的意識を抱いて外国語学部に進学して、そんな彼らに感化されて、自分としても英語力の向上に繋がればと出場を決めました。

 

 

 

 

結果としては、まさかの3位入賞!

それも1位と2位は、同じ学年ながらすでに英語力が並外れていて、そんな彼らに次いでの3位入賞は、とても大きな自信になりました。


何よりそれまでほとんど縁がなかった英語弁論大会に出場するというチャレンジと、一度は途中で心が折れかけたものの、同級生たちの励ましもあって最後まで猛練習を続けれたことはすごく貴重な経験でした。

(あれから30年近く経った今でも、その時の原稿はスラスラと言えます。)

 

 

 

*   *   *   *

 

 

 

2003年3月某日、開業間近だった六本木ヒルズ内のグランドハイアット東京の一室で、スパ&フィットネス部門責任者との面接が行われました。


部門責任者のJさんは日本語が話せないカナダ人女性で、そのほかにも日本人女性スタッフも通訳を兼ねて同席していました。

部屋に入って初めて目にしたお二人の容姿は、清潔感にあふれて凛とした佇まいがとても印象的でした。


まずは同席したもう一人の応募者の方の質疑応答が行われて、次に自分の番になりました。

1つ決めていたことは、通訳はお願いせずに、少し手こずったとしても、最後までJマネジャーと英語でやり取りをしようと思っていました。


はじめに質疑応答が行われたもう一人の応募者は、フィットネス業界での経験はあるものの、英語でのコミュニケーションはほとんどできない方で、正直あまり明るい雰囲気の方ではありませんでした。


自分にはフィットネス業界での経験はなかったけど、ニュージーランド留学期間にスポーツ専門学校でトレーニング論を学んできたことや、英語、韓国語でのコミュニケーション能力、そして「自分には夢と目標があって、東京に上京してきてこのホテルで働きながら母校でラグビーのコーチがしたい」という想いを、元気に一生懸命伝えようと思って質疑応答に臨みました。

 

英語に少してこずりながらも、思っていた以上に受け答えが出来ていることに自分自身驚きながら、質疑応答が終盤のころ、Jマネジャーからある質問をされた時でした。


ふと過去に数百回と反復した英語のセンテンスが、頭の中の引き出しから口から出てきました。

それは大学1年生の時に出場した英語弁論大会で語った、1つのフレーズでした。

それは、すごく綺麗な文脈で数百回と練習しただけあって、我ながらネイティブのように流暢な英語でした。

 

 

大学時代に毎夜毎夜と英語の辞書を開いて課題をこなして、NZ留学時代恥をかきながらもニュージーランド人と沢山付き合ってきた自分には、もはや「英語の壁」は何もありませんでした。


英語でやり取りすることのためらいや苦手意識は何もなく、自分がこのホテルでこれから役に立つことが出来ますと、自信を持って当然のように振舞えた。

それは、たかが面接に過ぎないけど、はじめて社会活動で英語を実践できた出来事で、自己採点としても100点満点でした。

 

 

大阪に戻ってから数日後、派遣会社の方から連絡があって無事採用が決まったとのことで、2003年4月以降は大学以来、再度上京することが決まりました。


次は小平市と六本木を往復するために、どこに住むのが良いか、東京の路線図とにらめっこしながら、上京準備に取り掛かりました。

 

 

2004年2月 同僚たちと。

ハリウッドスターのような風貌。

見事に鍛え上げられた肉体と、南国の民族を連想させる二の腕のタトゥー。

トレーニングのために取り入れたはずのボクシングでは、いつの間にかプロボクサーとなり、プロデビューから4年後にはWBAインターナショナルヘビー級タイトルを獲得する。

風貌と逸話がすでにヘビー級だが、ラグビー界では誰もが知る世界的なスーパースター。

 

ポリネシア諸島のサモアにルーツを持つ元ニュージーランド代表、ソニー・ビル・ウィリアムズは芸術的な”オフロードパス”(相手DFにタックルされながら放たれるパス)が代名詞とも言えるだろう。

 

ここ最近、福岡県の中学生ラグビー大会を見る機会が2回ほどあった。

一言で言うと、本当に上手いし見ていて面白かった。

ある年配の観客は、お金を払っても見る価値があると言っていて、全くその通りだと同意できた。

今まで中学生ラグビーは指導の経験もなければ、見る機会もあまりなかったが、まずはスキルの高さに驚いた。

そして誰もが臆することなく、かの世界のスーパースター、ソニー・ビル・ウィリアムズのように、相手ディフェンダーにタックルで倒されながらも、どうにか味方選手にボールを繋ごうと、積極的にチャレンジしていたのがすごく印象的だった。

 

二つの背景が頭をよぎった。

一つ目は、子供たちを取り巻く環境の変化、具体的にはアクセスできる情報量の変化だ。

以前では、世界レベルのテストマッチやプロフェッショナルなゲームは、今よりも見る機会が限られていた。もちろん今でも、誰でも見れる地上波放送などはほとんどないが、動画コンテンツの発展によって、SNSにアクセスすれば、自分の趣味趣向にあった動画が次から次へと、しかもダイジェストで出てくる。

子供たちのプレーを見てると、すでに頭の中には自分の高校時代とはまるで違うほど、世界レベルのプレーイメージがダウンロードされていると感じた。

 

そしてもう一つがより興味深かったのだが、彼らが日々教わるコーチングの変化を感じた。

最も感じたのは、中学生たちは失敗するかもしれないチャレンジングなプレーをすることに対して、<もしミスをしたらコーチに叱られる。>というネガティブな態度でプレーしていないことだった。

少なくても遠くから見ていて、そのように感じた。

チームによって、全くなかったわけではないが、50/50のプレーでミスが起こった時、ベンチのコーチやプレーヤー同士の罵声は、思ったよりも少なく感じた。

ここからは推測に過ぎないが、おそらく現役時代に高いレベルでプレー経験を持つ元選手や、選手経験は無くても一からコーチングを熱心に学ぶ週末コーチたちが、各スクールのコーチングに熱心に携わっていて、リトル ウィリアムズ達を大切に指導しているのだろうと感じた。子供たちが一定のディシプリン(規律)やチームの方向性のもと、自分たちで判断する機会を重要視しているのだろうと思った。

 

果敢なチャレンジと無責任なプレイは、似て非なる。

だからこそ、日々の彼らに寄り添いながら、心の機微を理解するコーチたちが、時にチャレンジを讃えて、時には無責任を正してあげることが求められるのだろう。

 

もしチャレンジングなプレーをして、例えばそれが致命的なミスや失点に繋がったとしても、頭ごなしにその子供を叱るのではなく、忍耐強く見守ったり、あるいは自分たち自身でそのプレーがどうだったかについて考えさせる過程を大切にしているように感じた。

だからなのか、あるいは子供達はいつでもそうなのか。

とにかく子供たちは元気だった。

溌剌と走り回って、プレーの得意不得意に関係なく、臆することなくチャレンジしてラグビーを楽しんでた。

 

ご年配の観客から<お金を払ってもみる価値がある>と言われたその試合終了後に、チームのベンチに近寄っていった。

劇的な勝利を収めたチームのコーチは、自分と同じ年の友人が務めていた。彼は試合終了後に、30以上歳の離れた中学生たちと抱き合って喜んでいた。

見に来て良かった。

 

リトル・ウィリアムズ、ヤングラガーへの喝采は、彼らを愛してサポートする全ての大人達への最高の喝采だ。

 

やりたいことがようやく見つかって、その為に留学も終えて帰国してきたものの、実際にそのスタートラインには一体どうすれば立てるのかわからない。

当然ながら今いる大阪に住んだままでは、母校のラグビー部には何も関われない。だからと言って、大学の教職員にはなれないのに、いざ東京に行っても何ができるのか。。

そんな気持ちを抱きながら、悶々としながら当面の生活のために大阪環状線森ノ宮駅からほど近い工場で短期のアルバイトをしていた頃でした。

 

ふと部屋で休んでいた時に、こんな事を思い始めました。

 

”留学期間に学んだトレーニング学を活かして、母校がある東京でトレーナーとして働けるところはないだろうか? それかトレーナー専門の派遣会社とかがあれば、今の自分に合った就業先を紹介してもらえるかも知れない。

トレーナーのバイトをしながら、朝鮮大学校ラグビー部のコーチをすれば、今まで経験したことも活かして、やりたいこともできるんじゃないか。

それに自分には英語と韓国語を話せるという強みがある。

そんな強みを活かせる場所、自分のような人材をどこか求めている場所は無いだろうか?”

 

 

2003年3月頃、そんな思いで当時各家庭にも普及し始めたパソコンとインターネットで検索をし始めました。

すると、間もなく自分が今まさに探していた条件の求人情報に出会うことができました。

 

<2003年4月末に六本木にオープンするホテルで、フィットネスインストラクターを募集。トレーナー経験、もしくはスポーツ系学部卒の方募集。英語など外国語での接客あり。>

 

うゎー、これやんけ!!!

まさにこんな場所があればと思っていた求人内容でした。

その求人を出していたのは、東京都江戸川区のとあるトレーナー人材に特化した派遣会社でした。

すぐに連絡をして、その後家族も「あんた急にどこ行くの?」みたいな勢いで大阪を発って、江戸川区の新木場辺りの会社に面接に行くことになりました。それから一度大阪に戻ったあと、間もなく求人が出されていた六本木のホテルに面接に行くことになりました。

 

そのホテルとは当時日本中でも話題になっていた、六本木ヒルズに開業するグランドハイアット東京でした。

2003年4月25日のオープンを目前に、急ピッチで開業準備を進めていた頃、派遣会社の方ともう一人の面接を受ける方と自分の、合計3名でホテルに到着しました。

 

今までに見たことのない煌びやかな空間、先進的で芸術的なオブジェの数々、ムードのある照明。それは想像していたよりも、遥かにラグジュアリーで、もし採用が決まってこのホテルで仕事をすることになったら、この先どんな経験ができるのかというワクワクと、今から外国人部門責任者との面接という緊張が交差しながら、真新しいホテルの廊下を一歩ずつ進み始めました。

 

世界の人口は、約80億人。

それぞれが色んな悩みや困難を抱えていたとしても、果たして今までの人類史上、誰も直面したことのない問題や悩みってあるのでしょうか?

どれだけツラくて難しい問題でも、すでに誰かが、しかも思ってた以上に多くの先人たちが、同じか似たような困難を抱えて、どうにか乗り越えて解決してきたと思えば、少し気が楽になる事ってないでしょうか?

 

悩み事ではありませんが、例えばこんなことがありました。

今から約5年前、久しぶりにラグビーの試合に出場して、大きな怪我をしてしまった時のことです。

最初に診てもらった整骨院では正確な診断が困難で、その後紹介してもらったスポーツ整形外科で、思ってた以上に悪い診断結果となりました。

 

「”脛骨高原骨折”。入院期間は約2ヶ月です。」

2か月の入院。。。 マジか。。

高原骨折?? ハイジかよ。

 

脛骨高原骨折。別名は<脛骨プラトー骨折>。

~脛骨の上端の関節面(膝の部分)の骨折。

つまり、脛骨の上面の高原のように平な箇所が、上からの強い圧迫で陥没してしまう骨折のことです。

 

間もなく長い入院生活が始まりました。

入院した病院には有名な整形外科の先生がいて曰く、陥没を元に戻す手術は比較的難易度が高いとのこと。

確か記憶では、自分は4㎜の陥没で重度としてはそれほど大きな陥没ではないものの、術後に膝に体重をかけることができないため、リハビリ期間が長くなるとのことでした。

 

仕事や日常生活の復帰にはどれくらいかかるのか?

後遺症の可能性はあるのか?

入院期間を少しでも縮めることはできないか?

いやいや、手術と2ヶ月の入院て一体お金どれくらいかかるんやろ。。。

 

聞いたこともない脛骨高原骨折の治療過程や体験談なんて、誰に聞いて良いかもわからない状況だったので、初めての骨折、手術ということもあってわからないことだらけでした。

でも今は本当に便利な世の中。

時間を持て余す入院生活中に、スマホで診断名にまつわる単語で検索をし続けると、ほんの2,3件でしたが、どなたかがブログで、ご自身の脛骨高原骨折の治療体験を綴ってくれていたのです。

術後の痛みやリハビリに関する記事、医療保険の申請に関する記事、退院後の生活などなど。

 

当時、自分がすごく求めているけど、誰に聞いてもわからないようなレアな情報を、他の誰かが発信くれていることが、本当に有難かったです。

入院中の気も紛れて、気持ちも少し楽になることができました。



いつまで続くかはわからないけど、ブログを書く理由は、もしも自分が綴る文章が、たとえ1人でも誰かの参考になる時が来たり、あるいは読み物の一つになるのであれば。

そんな動機と、もう一つは単純に書くことが好きだから。(話すことは得意ではないとつくづく思うこの頃です。)

書けば書くほど、やっぱり書くことが好きだと気づいて、いつか「書くこと」もどんな形でも仕事にできればと思って、これからもマイペースにブログを更新していきたいと思います。

 

2004年から2013年までの10年間、母校の大学でラグビー部の指導をした期間を一言でいうと「忘我没頭」した期間でした。

 

大学卒業後にNZ留学をしようと決めた理由は、確かに指導者を志してのことでしたが、実を言うと留学期間も留学後も、本当にフルタイムの指導者になるかどうかを悩みながら過ごしていました。

(同時に自分がなりたいと言っても監督になれる保証も何もありませんでした。)

何が自分を悩ませていたのか? 道を決めきれなかったのか?

生活の問題? いやそれよりも大学時代にいろんな葛藤を覚えた我が母校で、果たして自分が専任教員としてやっていくことができるのかどうか。

その踏ん切りがどうしてもつけることができなかったことと、もう一つ叶えたい目標であった、スポーツビジネスに関する仕事を諦めることに躊躇していたからでした。

 

それでも自分が情熱を注いだラグビー部を、どうにか立て直したいという思いは強くて、帰国後2003年の年が明けたまだ寒さが残る頃に、当時すでに大学を定年されていた、全源治監督に「ラグビー部のの指導がしたくて、NZ留学を終えてきました。今から大学の教員や職員になることはできないでしょうか?」と直訴しに行きました。

その時、ラグビー部の練習場であった朝鮮大学校第二グラウンドの隅に建てられた、通称「全さん部屋」で旧友の先生らお三方で飲み交わしておられた全先生は、驚きながらも喜んで自分を迎え入れて下さり、まずはその場にご一緒させていただきました。

しかし、現実問題として新年度開始が目の前に迫っている中では、あまりにも唐突であり無理な話で、全先生も笑みをに浮かべながら一言「遅い!!」と言われてしまいました(笑)それでも大学や体育学部とも話し合ってみるから、少し待ってなさい。と言っていただくことができたのですが、その後連絡があり、このタイミングで新年度から大学内の職に就くのは、教員はもちろん職員としても難しいということでした。

 

東京から大阪に戻ってからは、今後の身の振り方を考えながら短期の工場アルバイトなどをしながら過ごしていたのですが、部屋で休んでいたふとした時に、そういえば留学期間にスポーツ専門学校で学んだトレーニング知識と英語を生かして働けるような場所が東京にないだろうか?

まずはその仕事をしながら、外部コーチとして大学ラグビー部の指導をできないだろうかと思い立ち、当時各家庭にも普及しだしていたパソコンとインターネットで、「トレーナー 派遣」、「トレーナー バイト 英語」というような検索ワードで検索すると、偶然にも探していた条件に近い情報に巡り合うことができました。

 

 

続く