相互運用協定などという言葉もなかった昔のこと、外国の免許で日本でハム局を運用することは一律に不可能でした。1970年、それに風穴を開けたのが駐日アメリカ大使で、自らハムだったマイヤー氏の対日交渉です。当時の電波法では外国人には個人局は許可されませんでしたが、社団局の開設という手段での運用でした。マイヤー氏は外交官として赴任した国々での運用歴など、ハムとしての深い経験をアピールして雑誌にはAdvanced級の免許のコピーまで掲載させるなど、大きな記事の扱いになっています。とにかく我々一般人の眼に入る表向きは、国際交流で目出たいこと一色、という報道姿勢でした。
ところが、JA1AN 原・元会長の回想には、この際に全権大使の立場を傘に物凄い圧力を掛けられたという話が出てきます。行間には遺恨までありそうに感じましたので、ペリーの黒船とか砲艦外交とかそんな様子だったのでしょう。ただし開国と同様、いつかは通る道ではありました。
逆に原会長のJARLも多少のことはやっています。1976年のこと、JARLが50周年記念の期限付きで沖ノ鳥島をDXCCの新エンティティとすべくARRLに請願して認められます。ところが独立エンティティには本来該当しないので、筋の通らないゴリ押しだという反対運動が起こって総会にまで届きました。しかし反対派も「私は沖ノ鳥島とはQSOしない」というスローガンを持ち込む以上のことは大して出来ず、結局JARLはDXペディション局7J1RLを送り出しています。
これは誌上で読んだだけですが、ある紛糾した総会の壇上で、原会長が「友あり遠方より来る、そういう感じでやりたいのだ」と言ったそうです。しかし組織が大きくなれば全部を総会に諮ることは不可能で、どうしても多くの判断を理事会に委任という形になりますが、そこに危うさもあって常にシャンシャン総会とは行きません。
沖ノ鳥島の件にしても、「新エンティティを貰ってきたぞ」という手柄話のつもりが、公表したら紛糾とは、さぞかし担当理事と事務方は面食らったことでしょう。