「家族」という箱を背負う
子どもの頃の私は
「家族」を存続させることに必死でした
「普通」になりたかったし
「家族」を機能させたかった
そのため家事も育児もやりました
親の機嫌もとったし
望まれることをやりました
求められることは多かったけれど
そこを担うことで少しでも家族の形を
理想のものにしたかった
「家族」を背負っていました。
どんな形であれ家族であった
良いか悪いか、理想かどうかは別として
そこに集まる一人一人の生き方が反映されたものが家族であった。
それをコントロールしたかったんですね。
私にとって苦しい家族だったから。
ふと自分のカウンセリングの中で
また背負おうとしていた自分に気づきました
「家族」の形を必死に私の思う方向に持って行こうとしている…!
背負うのやめよう。
一人一人の自由な生き方があって、それが構成されての家族。
私が母として、とかの責任感を持って、子どもの幸せやなんとか理想の状態に持って行こうなんて背負う必要なかった。
私は私の事と、母としての事をまっとうしたらよくて、ほかの親子関係姉妹関係は、アドバイスは出来ても、どう生きるかまでは強制できない。
姉妹喧嘩も無くうるわしい家族なんて事は無いんですよね。
人と人だからぶつかることも喧嘩することも意見の相違もあるだろうし。
ほかの家族のメンバーが人生の中で得る悲しみや痛みも、私が背負うと、その荷を奪い取ろうとするべきではない。
境界線の侵害をせず、させず、そこに居続けても大丈夫。
ビシッと線を引ければ大丈夫。
一人一人みんなが自分で自分の生き方を選択できるようにうながして、そのなかで自分の境界線をどこで引くか決める。
私の思う理想にコントロールしようとしていた子ども時代からのクセをやめようと思いました。
カウンセラー養成講座・公開カウンセリング
先週土曜日、いよいよ本物のカウンセリングを見学させていただく日になりました。
自分自身もカウンセリングを受けてきて学びが深まるにつれて自分自身の内面と向き合う内容も深まって取り組んできました。
自分も受けたことがあるカウンセリングを客観的に見るというのは不思議な気持ちもありました。
お一人目の方が始まって思ったのは、やはりカウンセリングをしているまきこさんの技術力の高さ。ものすごく速い。
たとえば、一つの言葉を聞いたとしてもその言葉の根に向かっていく速度が速い。私が考えているうちに、もうすぐに整理し終わっている。
考える間も追いつかずにどんどん次から次に繰り広げられている。
人と自分の気持ちの関係、境界線がどこにあるかの見極めと整理も速い。
よく、テレビで職人が何かを作ったりする作業がものすごく速い!目にもとまらぬ速度!みたいなことをやってて、レポーターが体験してみたらモタモタ…っていうのを見たことがありますが、あんな感じです。
そして、最初はお悩みがあったはずなのに、終わる頃には気持ちがすっきりしている様子が見て取れました。
明らかに何となく気分で前向きになったとか一時的に気持ちが晴れたとかそういう事では無いということがわかります。
自分もこんな顔してたのかな~。
とくに初回。
きっと緊張しながらどんよりと悩みを抱えながら登場したんだろうな~(私の初回は対面カウンセリングでした)
帰りは、一番つらい荷物を下ろすことができて、生き返ったような気持ちだったことを思い出します。1ヶ月くらいは羽が生えたように生き生きしてました。
お二人目の方の時に、私の電波状態があまりよくなかったようで、まきこさんの顔もクライアントさんの顔も私には見えていませんでした。
お声だけ聞かせていただいたのですが、表情が見えないので受け取る印象が少なかったかも知れないのが残念です。
一言にお悩みと言っても、ひとつひとつのことを具体的に明確にしていくというのは、1月に行った【1年の計発表会】と通じるものがあるなと思いました。
やりたいことがあったり向かいたいものがあるときに、じゃあ具体的にどうしたらそこに向かっていけるだろうか?ということを細分化して可視化していく。
なんとなく【やせたいな】と思うことと、実際にどう行動していくかということは別のことであるなということも思いました。
この技術を今度は私がクライアントさんに提供する側になる。
自分自身、現在、大きな変化を感じています。
準備に向かって動き出している。
とても、ビビっております。
どんな人でも、最初に大きな事にチャレンジしてスタートするときには怖いながらも飛び込むのだろうなぁ。
勇気を持って飛び込むひもそう遠くないと思います。
責任の所在はどこにあるかを明確にする
たとえば、なにか習い事をしてたとします。
何でも良いですが、体操やバレエやギターやドラムだったり、パソコンの使用方法など、何かの技術を伝達するような習いごとをしていたとして
その先生が、上手に出来ない人に対して舌打ちするくせがあるとします。
(悪い態度やプレッシャー、いらだちを押しつける表現)
生徒である側がそれを怖がりながらびくびく先生の顔色をうかがって、頑張らなきゃ…と焦る。
できの悪い生徒が悪いでしょうか?
これは先生の境界線侵害。
イラッとするのも、うまく出来ない生徒に憤りをもつのも先生の自由ですが、押しつけてはいけません。
コーチが特訓しての厳しい指導とは違います。
厳しい指導は技術を熱心に伝えようとしますし、あれってだいたい厳しい指導を受ける側も頼んでるし。
(テレビでは頼んでも居ないのにやって訴えられたりとかしてるんでしたっけ?)
先生は月謝をいただいて、生徒に教えています。
教える責任があり、生徒に技術を伝達する義務があります。
生徒がうまく出来ないのは指導している先生の責任です。
もちろん上手に出来なくて人より倍、時間がかかる人もいるのかもしれません。でも先生の仕事は、出来るようにしてあげること。
技術を伝達すること。
何でこれくらい出来ないかな!も~! と、イライラするのが仕事では無い。
つまり、上手にならない責任を生徒に背負わせている、という境界線侵害。
練習量は生徒次第。
早く上手になりたければ、自主練繰り返すだろうし、先生が出来るのは練習量が増えるようにおすすめしたり励ましたり宿題や課題出すこと。境界線の外からのアプローチ。
とはいえ、なんだかそういったものも、コーチと弟子って上下関係になりやすくて境界線侵害があるのだなぁと思いました。