子どもへの決定権の渡し方
昨日の記事では、子どもの決定権を奪わないことを書きました。
子どもの決定権を尊重する
先日娘に怒られました。
とある食事会があったのですが、その日時が学校の時間だったため、私が学校だから仕方ないか~と、勝手に食事会に参加させませんでした。
後に、食事会のことを知った娘が
「自分で決めたかった!!」と怒ったのです(笑)
私の境界線侵害です。
娘は行きたかった気持ちもあるけれど、行かないかどうかを自分で決定したかったのです。
例えば…
食事会がある→行きたいけど母に学校に行くように促された→残念だけど、それに従って食事会に行かないことにした。
こういう流れだと、食事会に行かないという結果は同じなのですが、行かない事を自分で決めているので、残念だったな行きたかったなとは思っても、納得できると思います。
つい軽い気持ちで、学校あるから本人に聞かなくてもいいや~って決定権を奪い取ってしまい、あとから怒った娘をみながら、あちゃ~~~やってもうた~~って反省しましたね。もう高学年の娘ですから、奪ってはいけないものでした。
さて、この件で、娘本人は自覚していませんが、決定権の他には、娘には悲しむ権利がありました。
その悲しむ権利の境界線を侵害されたことも、奪い取られたことなのです。
悲しむかどうかも自分で決めたかったし受け止めたかった、でも結果的には私の行動によって悲しみを受けたのです。自分で納得して受けた悲しみではなく、納得せずに受けた悲しみとなってしまいました(だから侵害しちゃ駄目なんだよね~) (゚∇゚|||)
たとえて言うなら…
自分で納得して注射されるなら良いけど、いきなり人から針で刺されたら誰でもむかつくって当たり前だろ-!みたいなことです。
同じ痛いでも、納得してるとしてないじゃ大違い。
謝りましたが、親子は近い存在なので気をつけないと境界線を侵害してしまう。親は家庭のリーダーではありますが、秩序があることと支配することはまったく別のこと。もう年齢的にも決定権の与えられている範囲は広くなっているのだから、気をつけなければなと思いました。
自分の行いも、足し引きできない
「こういうこと、したよね。してくれなかったよね。」 ということを告げたとき
「育ててやったのになんて口の利き方だ!この恩知らずが!」などと言うのは、毒親あるあるです。
育てたことが事実だったとしても(そうじゃなかったとしても)
自分がいかに何かをしてあげたとしても
自分がやった行いは消えません。
種まきと刈り取りの法則
行いには結果が伴い
自分の行動の結果は自分で刈り取る
蒔いた種を刈り取る って日本語にもあるじゃないですか。
あれ本当ですからね。
ゆるして、手放したとき加害者本人に、その刈り取りは執行されます。
子どもを殴って、あとからお菓子を与えても遊園地に連れて行っても、殴ったことは消えません。
奥さんを殴って、あとから愛してるごめんねと優しく諭しても、殴ったことは消えません。
自分自身の日々の行いにも結果はかならずついてくるのです。
間違いをおかすかもしれない、失敗もするかもしれない。
でも良い種を蒔けば良い物を刈り取ります。
どんな小さな事にも、結果はついてくるのです。
養ったから、育てたからと言って境界線を侵害したり、良くないことをして傷つけたことが消えることはありません。
一生懸命働いた、必死にやった、だからといって悪い行いをした事実が消えることはありません。
養った事実も消えない
一生懸命働いた事実も消えない
愛してるという気持ちがあったならそれも消えない
でも傷つけた事実も消えない
良いことをしても、足し算引き算は出来ないのです。
それがこの世界のルールです。
ただ、自分が加害者を裁こうという権利を手放すことをしない限りは、その刈り取りは執行されません。
だって、本当の裁判官に権利を渡してないんだもの。