心の構造を再構築するRCメソッド認定カウンセラー -332ページ目

子どもへの決定権の渡し方

昨日の記事では、子どもの決定権を奪わないことを書きました。

しかし、子どもは最初から決定権をすべて持っているわけではありません。
 
赤ちゃんの段階では、本人は決定権を所有せず、100%親が代理として決定権を預かっています。
その決定権を、成長と共に子どもに譲渡していき大人になるまでに全部渡します。
 
幼い頃は、秩序を学ぶために、自分の気持ちは表現しながらも、リーダーである親に従うことも学んでいきます。
おうちの中で、危険なものは触ってはいけないこと、親に従って車道に飛び出さないことなど、身の安全のために従うことを学びます。
子どもの気持ちを受け止めてあげることも、重要な事ではありますが、従うと言うことはなかなか重要視されません。しかし、従うという事を練習すると、大きくなったときに自分自身に従いやすくなります。
 
 
親に従いながらも、自分の決定権を少しずつ渡してもらいます。
渡す親の側は、なにを目安にしたらいいのか…
自分の選択の結果を自分で負える程度の決定権から。
 
結果が好ましくないときに、子どもが背負えないほどの大きなもので、結局親が背負うようなことは、子どもに決めさせるにはまだ早い、と言うことです。
しかし、残念な結果でも、本人が負えるなら失敗しても良いから、やらせてみたらいいのです。
 
負えないものを決めさせて、結果を親が背負うなら、子どもが学ぶのは「尻ぬぐいは他人任せにしたらいい」です。
 
また、失敗しても、助けてあげることと、代わりに背負うことは同じではありません。
 
たとえば、大人になった子どもが借金をしたとして、親が全部代わりに清算してあげることは、背負うことですが、どうしたら返済してあげられるか一緒に考えてあげるのは助けることです。
 
おもちゃを全部出して遊ぶ!と決めて、自分でお片付けをする約束をしていたのに、出来なくなって親が片付け方を教えたり手伝ってあげるのは助けですが、仕方ないわねと全部かわりに片付けるのは、背負うこと。
 
 
見守り、助けてあげられる安心の中で失敗し学ぶ。
失敗したら慰め寄りそってあげる。
 
 
しかし大前提は、親が子どもの境界線を侵害せず、決定権を奪い取ったすることがないのが一番大事なことです。
 
まずは親自身が、境界線を引けて自分自身を大切に出来ている事が必要になります。

子どもの決定権を尊重する

先日娘に怒られました。

 

とある食事会があったのですが、その日時が学校の時間だったため、私が学校だから仕方ないか~と、勝手に食事会に参加させませんでした。

 

後に、食事会のことを知った娘が

「自分で決めたかった!!」と怒ったのです(笑)

私の境界線侵害です。

 

娘は行きたかった気持ちもあるけれど、行かないかどうかを自分で決定したかったのです。

例えば…

食事会がある→行きたいけど母に学校に行くように促された→残念だけど、それに従って食事会に行かないことにした。

 

こういう流れだと、食事会に行かないという結果は同じなのですが、行かない事を自分で決めているので、残念だったな行きたかったなとは思っても、納得できると思います。

 

つい軽い気持ちで、学校あるから本人に聞かなくてもいいや~って決定権を奪い取ってしまい、あとから怒った娘をみながら、あちゃ~~~やってもうた~~って反省しましたね。もう高学年の娘ですから、奪ってはいけないものでした。

 

 

さて、この件で、娘本人は自覚していませんが、決定権の他には、娘には悲しむ権利がありました。

 

その悲しむ権利の境界線を侵害されたことも、奪い取られたことなのです。

悲しむかどうかも自分で決めたかったし受け止めたかった、でも結果的には私の行動によって悲しみを受けたのです。自分で納得して受けた悲しみではなく、納得せずに受けた悲しみとなってしまいました(だから侵害しちゃ駄目なんだよね~) (゚∇゚|||)

 

たとえて言うなら…

自分で納得して注射されるなら良いけど、いきなり人から針で刺されたら誰でもむかつくって当たり前だろ-!みたいなことです。

同じ痛いでも、納得してるとしてないじゃ大違い。

 

謝りましたが、親子は近い存在なので気をつけないと境界線を侵害してしまう。親は家庭のリーダーではありますが、秩序があることと支配することはまったく別のこと。もう年齢的にも決定権の与えられている範囲は広くなっているのだから、気をつけなければなと思いました。

 

 

自分の行いも、足し引きできない

「こういうこと、したよね。してくれなかったよね。」 ということを告げたとき

「育ててやったのになんて口の利き方だ!この恩知らずが!」などと言うのは、毒親あるあるです。

 

 

育てたことが事実だったとしても(そうじゃなかったとしても)

自分がいかに何かをしてあげたとしても

 

自分がやった行いは消えません。

 

種まきと刈り取りの法則

行いには結果が伴い

自分の行動の結果は自分で刈り取る

 

蒔いた種を刈り取る って日本語にもあるじゃないですか。

 

あれ本当ですからね。

ゆるして、手放したとき加害者本人に、その刈り取りは執行されます。

 

 

子どもを殴って、あとからお菓子を与えても遊園地に連れて行っても、殴ったことは消えません。

奥さんを殴って、あとから愛してるごめんねと優しく諭しても、殴ったことは消えません。

 

 

自分自身の日々の行いにも結果はかならずついてくるのです。

間違いをおかすかもしれない、失敗もするかもしれない。

でも良い種を蒔けば良い物を刈り取ります。

どんな小さな事にも、結果はついてくるのです。

 

養ったから、育てたからと言って境界線を侵害したり、良くないことをして傷つけたことが消えることはありません。

一生懸命働いた、必死にやった、だからといって悪い行いをした事実が消えることはありません。

 

養った事実も消えない

一生懸命働いた事実も消えない

愛してるという気持ちがあったならそれも消えない

でも傷つけた事実も消えない

 

良いことをしても、足し算引き算は出来ないのです。

 

それがこの世界のルールです。

ただ、自分が加害者を裁こうという権利を手放すことをしない限りは、その刈り取りは執行されません。

だって、本当の裁判官に権利を渡してないんだもの。