人の気持ちが気になる
人と付き合う時に、相手の気持ちが気になりますか?
嫌な気持ちになっていないかな
こんなこと言ったら嫌われるかな
相手に合わせないと
自分の気持ちはそうじゃないけど話を合わせておこう
こんな風に思われたら嫌だ
きっと私の事こんな風に思っているよね
自分は嫌だけど嫌って言えない
自分だけ誘われていないどうしてだろう…
あの人がこう言ったことに傷ついた
あの人にわかってもらえなかったのが悲しかった
疲れてますよね?
楽しくないですよね?
その人間関係、嬉しくて楽しくて大好きでって気持ちありますか?
あったとしても「でも」がつきませんか?
相手が嫌な気持ちになる事はあるかもしれません。
でもそれを嫌がるのは、相手が嫌な気持ちになる事を許可できていません。
相手の人生なのに。
嫌われるかどうか気になるのは、相手が嫌いになったり好きになったりする自由を与えることが出来ていません。
相手の人生なのに。
相手に合わせることに抵抗がないなら合わせるのも良いことですけど本当は嫌なのに合わせるのはどうしてですか?
仲間はずれにされるのが怖いからですか?
離れていくのが怖いからですか?
この世界にたくさんの人がいて、全員に好かれるのは無理です。
なぜならみんな好みがあるからです。
合う、合わないもあるからです。
合わない人と無理に付き合うことはありません。
相手にとっても自分を選ぶかどうかは選択肢があるのです。
相手が離れることを心配しなくても、あなたの周りには本当にあなたを気に入って好きになってくれる人が居ます。
あなたと一緒にいたいと思ってくれる人が居ます。
お友達でいたいと思ってくれる人が居ます。
でも相手にこうあって欲しいと思っている限り、あなたを大好きであなたも好きになったお友達と一緒にいてもいつも疲れてしまいます。
もし、誰かが自分を好きじゃなくなっても…
それでもあなたの価値は下がったりしない、尊い。
人の生き方に自分の期待を乗せるのを、やめてみませんか?
もてるかどうかで人の価値決まらないよ
人の尊さ、命の価値は、存在そのものに価値があります
見た目でもないし、生まれ育ちの家柄でもないし
傷があるかどうかでもないし、五体満足かどうかでもない。
しかし、自己肯定が出来ずにいると自分にも他人にも価値を見つけることが出来なくなり、その人が何を持っているか、何を出来ているかで判断しようとしてしまう。
かわいいか、かっこいいか
モテるか、モテないか
お金があるか無いか
良い仕事をしているかどうか
人のために何かをしているか
判断しようとする材料はいくらでもあります。
そして、自分の物差しで、人の価値を決めようとします。
お年頃の女の子が「私もてないタイプだから~」と言っていたりします。
もてるかもてないかに自分の価値を置いてしまうんだなぁ…と思いました。
そうして少しずつ自己否定が入り込んで行くのです。
そもそも美の基準なんて、人それぞれ違うし国が違えば価値観も違うし、時代が違えばまたまた違うし、コレといった基準なんてあって無いようなものです。
ものすごくコンプレックスを持った方が自分のコンプレックスを肯定してスーパーモデルとして活躍することなどよくある話です。
誰かにもてるかどうかなんて、痩せてるか太ってるかすら関係ないのです。
外見で判断する男は多いように思うかも知れないけれど、外見で判断しない男も結構な数いるし、外見で判断したとしても自分の外見を好む男も一定数存在する。
だからもてるかどうかなんて、実はどうでもいいこと。
どうでも良いことなのに、もてることに価値があるかのように錯覚させられてしまう。
たくさんもてたってどうせ1人しか選ばないのに。(ここは一応、一夫一婦制の国だから)
たくさんの人に好かれたら自分に価値があるような気がするかもしれないけれど、本当は最初から、あなたには尊い価値がある。
人気投票はアイドルにもあるけれど、人気者も、人気じゃない人も、同じく尊いのです。そして自分自身を愛せるようになったら、不思議と人が集まってくるものです。
あるべきものがない寂しさ
昔、まだ一番上の子が赤ちゃんの頃。
私にはお産で里帰りをする実家はありませんでした
夫と喧嘩しても頭を冷やしに帰る実家などありませんでした
(親は生きてます。帰って安全が得られるような実家ではないという事です)
確かその頃は、悲しくて辛くて、人がうらやましかったと思います。
自分の人生を肯定出来ていなく、受け入れられていなかったのです。
先日の記事にも書きましたが、無い事を認めて初めてパラの金メダルが取れる、と。無い事、失ったこと、欠けている事を認めてからのスタート、そこから上り詰めて得られる金メダル。
無い事を肯定する事も、そこから上り詰めることも、誰でも出来る事ではありません。人より多くのことを乗り越えたことです。
羽生選手も、多くのものを捨ててきた、と語りました。人よりもたくさんのものを手放してきたからこそ得られた栄光なのでしょう。
話を戻します。
いつからかは覚えていませんが、帰る実家がないことも出産するときに里帰り出来ない事も、ネガティブな思いを抱くことはなくなりました。確か母をゆるしてからだったとおもいます。8年くらい前のこと。
「ない」を肯定しました
それでも、ふと娘と会話しているときに、普通はお産の後はつかれているから里帰りをしたりして体を休めるために、親にお世話して貰ったりするの。と話しているときに寂しい気持ちがよぎりました。
多くの人が、帰る実家があるのにと思えば寂しくも思います。
「私はそれを持っていない」から。
しかし、寂しいのは事実ですが、無い事だけにフォーカスしないことも出来ます。
義両親は、嫁いびりなどしない善良な方々でした。
とても気の利かない嫁ですが、広い心で対応してくれたものだと自分で思います(笑)
無い事を肯定できないうちは、あるものにはなかなか目が向けられない時もあります。あるものにすら、不満を抱いてしまうこともあります。
無い事を受け入れている今は、昔に比べたら寂しいな~という気持ちも小さく、それについて縛られることもなくなっています。
私を愛し助けてくれる人が、かならずしも実親じゃなくてもいい。
実際私の周りには、今は親以上に愛し助けてくれる人が存在します。
無い事を受け入れたからこそ他から受け取ることが出来るようになっている。
親からもらうことにこだわり続けていたら他の人から受け取ることもなかなか出来なかったと思います。