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アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

 

美濃のご法務の合い間に、通称小山観音と呼ばれる小山寺さんに何度かお参りさせて頂くことがあったのだが、飛騨川中の小島に浮かぶ観音堂は、さしずめどこかのアジアのお寺のような風情で、いつ訪れても誠に清々しい。

 

先日はちょうどご開帳期間にもお詣りさせて頂けたので、いつもはご遠慮する陸の上の本堂にもお詣りさせてもらったところ、たまたま前住さん(前住職)にお会いして、ご挨拶させて頂いた。

 

境内細部各所に至るまで、隅々に工夫が行き届いていて、さすがは禅宗だなあと常々思い、いろいろ荘厳のアイデアを拝借させて頂きたいくらいに感服していたので、これもまた見習いたいほど穏やかで明るいお人柄の前住さまに、その思いを伝えさせて頂いた。

 

小山観音は木曽義仲が、その母とも愛妾とも言われる若名御前という女性を弔った寺なのだが、今回は近在にある若名御前の供養塔と伝える宝篋印塔にも、道に迷いつつ、参拝させて頂いた。

 

 

 

                 

美濃はまだまだ奥深い。

                   合掌

 

 

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先日、私が小学生の時に愛読した「奇術と手品の習い方」(石川雅章・著)という本の中に、戦前の奇術家・阿部徳蔵氏について書いた件りがあるということを書かせて頂いた。

 

そのことについて検索している時に、「TAMC 50年 の あゆみ」という東京アマチュア・マジシアンズ・クラブの記念誌のことが出て来たので、図書館で借りて読んでみた。

 

ちなみに、「奇術と手品の習い方」にはそのメンバーの方たちのお名前やお写真がたくさん出て来ることもあって、興味をそそられたことも後押しした。

 

で、読んでみたところ、序文を書いておられる、当時の会長を務めておられた上野景福という方のお名前が目に留まった。聞き覚えがある名前だと思って慌てて松田道弘氏の「奇術のたのしみ」を確かめてみると、やはり間違いない。奇術家でもあるミステリ作家のクレイトン・ロースン著「首のない女」の、今は絶版になっている創元推理文庫版を訳しておられたのが上野景福氏だった(「首のない女」は現在、別の出版社から新訳が出ています)。

 

古い時代のミステリ訳者の中でもあまり聞かない名前なので、この人は誰だろうと、「奇術のたのしみ」を読む度に、いつもちょっと違和感があったのだが、上野氏はアマチュアマジシャンでもある英文学者だったのか。

 

1人で納得したので、こうして駄文を認めさせて頂くことに致しました。

 

 

 

                おしまい。

 

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仏教の法話のことを英語で「sermon」というのだが、それは「説教」を表すキリスト教英語の援用であり、英語には他に説教することを表す「preach」という動詞もあるけれど、実際の海外仏教寺院での英語の法話はもっと単純に「Dhamma talk」と呼ばれることが多い。

 

ちなみに、インドのブッダガヤ日本寺の駐在主任だった三橋ヴィプラティッサ比丘が、坐禅をしに来た外国人旅行者たちに法話をする時も「Damma talk」という言葉を使っておられたものだ。

 

ところで、タイで法要などの後に法話を行う時に、比丘(僧侶)が顔を隠して説法するための、ターラパットという団扇状の仏具については以前にも書かせて頂いているが、仏法というものは比丘個人からではなく、ブッダから直接受け取るものだから、僧侶の姿や形に執着させないためにターラパットで顔を覆って法話をするのだそうだ。

 

さて、タイなどのテーラワ-ダ仏教では、お坊さんはターラパットで顔を覆いつつ、壇上から決まりきった型通りの説法を行い、信者はそれをただ合掌して聞いているだけのことが多いと思われがちだけれど、その分、日本よりもずっと気軽に信者は普段から僧侶を訪ねて個人的な相談に乗ってもらっているし、また、テーラワーダ仏教国のお坊さんたちは、日本の僧侶と比べて遥かに仏法に基づいた相手が納得する答えを信者に与えている。

 

また、最近ではSNSなどを通じて多方面・多方向に向けて法を説く僧侶も増えていて、何年か前にタイでそうした比丘のお説教が人気を博したものの、余りに面白おかしく仏法を説いたために(日本の新聞の特集で、もう一人の僧侶との掛け合いが「まるで漫才さながら」だと報じられたこともある)各方面から批判され、そのせいだけではないのかも知れないが、現在、そのお坊さんは還俗してお寺を出、一般人として独自の活動を行っておられるのだそうだ。

 

とは言え、日本の昔の「説教」は、今のような型にはまった法話ではなく、涙あり笑いありの話芸であったそうだから、先のタイのお坊さんの説法の是非も、微妙なところではあると思う。

 

などと偉そうに書かせて頂いているが、実は子供の頃から愛読している桂米朝師の名著「落語と私」の中の落語の発生を説いた件りに、落語のルーツはお寺の説教であり、興味のある方は是非「説教と話芸」(関山和夫・著)という本を読むことをお勧めしますと書いてあるのが、お坊さんになった後に読む返す度、ずっと気になっていて、今回、初めて「説教と話芸」を図書館で借りて来て読んでいるところなので、こんな話を書かせて頂いている次第。

 

 

                 おしまい。

 

 

※三橋ヴィプラティッサ比丘が日本語に訳された、

タイの高僧・プッタタート比丘の著書「観息正念」を、

「ホームページ アジアのお坊さん本編」に添付しています。

※各段落の頭文字を繋ぐと、「だ・い・さん・の・おん・な」となるように工夫しました。

 

     ※     ※     ※

 

「誰が殺したか」「どうやって殺したか」といった謎を解く、通常のミステリではない「第三の女」。

 

一体、何が起こっているのか自体が分からないという不思議さで物語が進んで行く、クリスティー特有のスト-リーだ。

 

賛成して頂けるかどうかは分からないが、自身の生み出した探偵ポアロをクリスティーが嫌っていたという説に、私は以前から疑義を呈している。

 

ノーマ・レスタリックという女性に「年を取り過ぎている」とポアロが言われて憤慨する印象的な冒頭を含め、後期のクリスティーは老齢のポアロを描くことを楽しんでいるように思う。

 

温和な性格であると評する人もいるのに、ノーマが奇矯な振る舞いを繰り返すのはなぜなのか。

 

「何が起こっているのか」が明らかになった時、老齢のポアロとノーマが繫がり合う大団円、いつもながら後期クリスティーの悠々たる筆致が心地よい。

 

 

「老齢のポアロ…後期クリスティー的問題」もご覧ください。

 

 

「ホームページ アジアのお坊さん 本編」もご覧ください

「独坐と禅定を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に従って行い、諸々の生存には患いのあることを確かに知って、犀の角のようにただ一人歩め」

 ー 「ブッダのことば」岩波文庫・22頁 (スッタニパータ #69)

 

 

「いかなるを名づけて調和となすや。いわゆる五法を調うるなり。一には飲食を調節し、二には睡眠を調節し、三には身を調え、四には気息を調え、五には心を調うるなり。」

 ー 「天台小止観」岩波文庫・69頁

 

 

「心を陶冶する精神開発・止観にも数多くの方式、技法があるが、誰でも知っている坐禅の技法は、観息正念(呼吸をしっかり自覚しての精神陶冶)である。 

観息正念では、呼吸に気付くことで、どんな重要な自然界の真理でも考察できる、と判明する。このような考察が極めて重要、かつ、価値があるのだ。

正確で、完璧な、観息正念は、まず、自然界の一真理、または、一真実を取り上げ、それを入息、出息のそれぞれと一緒に、注意深く 観察し、調べ、吟味することから始まる。

 

観息正念では、呼吸に気付くことで、どんな重要な自然界の真理でも考察できる、と判明する。

このような考察が極めて重要、かつ、価値があるのだ。」

 ー プッタタート比丘「観息正念」PDF版 13-14頁

 

※「観息正念」は「ホームページ アジアのお坊さん本編」に添付しています。